1)日本のディベート
日本のディベートをリードした松本道弘氏は、三角ロジック(段落の論理)に、トゥールミンモデルを改竄しています。
日本の教育は、段落の論理(共感の論理)に偏っていて、科学的な因果推論を拒否しています。
ソフトウエア工学研究財団(1997)「感性社会に向けてのマルチメディア学習環境のシステム開発に関するフィージビリティスタディ報告書」の一部から、日本のディベートの実態を引用します。
そもそも、「感性社会」というタイトルが、論理より共感を連想する怪しいイメージですが、内容も予想にたがわないものになっています・
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1.3 感性社会におけるディベート能力の育成の重要性
ディベートとは、「あるテーマについて無作為に肯定側と否定側に分れ、同じ持ち時間で立論・尋問・反駁を行い、ジャッジが勝ち負けを宣する討論(広辞苑第4版)」である。日本におけるディベートに対する関心は欧米におけるそれと比較して近年まで高くなかった。しかし、ディベートの啓蒙書が多数出版され、企業でも学校でも積極的に取り入れようとする動きが顕著である(ソフトウェア工学財団、1996)。感性社会における必須の能力として、自分の主張を証拠資料に基づいて論理的にまとめ、自分と主張が異なる立場の視点を論理的にも心情的にも理解し、共通の方向性を探る力が重要である。これらの能力を育成するためには、ゲーム的な要素を含み、感情的な関係を超えて立場の違いを乗り越える経験として、ディベートの有効性が期待されている(たとえば、岡本、1992)。以下に、ディベートのあらましと感性との関係について、昨年の報告(ソフトウェア工学財団、1996)の概要を振り返っておく。
1.3.1 ディベートの効用
ディベートの効用として第1に挙げられるのは、氾濫する情報の中から有効な情報を選択し、それを自分の主張に活用できる高度な情報活用能力が育成されることである。これは、高度情報化社会に不可欠な資質である。ディベートは、論題提示に始まり、討論会におけるジャッジの判定におわる一連の「知の創造技術(北岡、1996)である。一般的にはディベートは討論会のみをイメージさせるが、自分の立場からの主張をまとめた原稿(立論)を用意するための資料・データの収集と分析や論理の構築が、重要な位置を占める。反対尋問(相手方の主張を崩すための質問)を予想したり、反駁(相手の議論への反論と相手から攻撃された自論の再構築)を効果的に行うためには、自分の立場のみならず、相手方の立場でも仮想的に論理の構築を行っておく必要がある。討論会での発表の説得性の他にも、高度な論理構成力が求められることになる。
ディベートの効用の第2は、「人」と「論」を区別する癖をつけることである。ディベートは常に肯定側と否定側が対決する構図をとるが、それは「論」と「論」との対決であり、「人」と「人」との対決ではない。ディベートは、単なる「話し合い」や「ディスカッション」と違い、自分の意見とは無関係に「肯定」あるいは「否定」の立場を割り当てられるため、「人」と「論」を区別できる。その意見を「誰が言ったのか」ということよりも「何を言ったのか」に集中でき、心理よりも論理に関心がもたれる。同一性が重んじられる日本でも、人格とは切り離して相手の意見を批判できる。感情的な対立を起こさずして、自分の意見を離れて、当該の問題を両方の側面から吟味することを可能にする。
第3に、問題を肯定否定の両側面から吟味することによって、質の高い考察と意見の対立を超えた合意を得ることを可能にする点が挙げられる。松本(1990)は、相手を負かすことがディベートの目的ではなく、「対立から真実を引き出すのがディベートの醍醐味(p. 21)」であると強調している。意識的に肯定・否定の立場の両面から「検証を重ね、議論を闘わせることにより、あるひとつの論題に対する理論的・理性的判断を下す思考過程(p. 19)」とディベートの役割を捉えている。藤岡(1994)は、カトリック教会の「悪魔の代弁人(否定的な情報をあえて集めて反対意見を主張する役目)」の知恵がディベートの精神であるとし、「ある主張にとって、それが対立する見解からの批判にさらされていることは、その主張の強さのあらわれであり、逆に対立仮説の洗礼を受けない主張は本質的な弱さを含んでいる(p. 14)」と指摘している。
ディベートを行うことにより、参加者には論理的思考が訓練され、それと同時に全体としては細かく検討を加えた意思決定が達成されることになる。教育の方法であると同時に、企業運営の方法でもある。とくに「教育ディベート」という場合は、参加者の能力育成に視点が置かれ、まずディベートそのものの訓練(ディベートを教える)を実施し、続いてディベートを重ねることで論理的思考力を育成し、同時に論題として取り上げたトピックスに対する参加者の知識を増やすこと(ディベートで教える)に教育の目的がシフトしていくことになる。
学校教育においても、1996年1月には全国教室ディベート連盟が結成され、1996年8月に第1回ディベート甲子園が開催されるなど、とりわけ国語科と社会科の教師たちによって積極的な取り組みが見られている。ディベート導入の推進者は、「これまでの教育が暗記中心の知識獲得型であり、問題解決型の欧米の教育には対抗できないとする危機感があってのこと」(佐藤ら、1994、p.19)と分析する。生徒の主体性を奪い、思考力や表現力の育成を妨げてきた教師主導の一斉授業を打開する方策としての期待も高い。他人の意見を聞き、考える喜びを与えるディベートの教育的意義として、佐藤ら(1994)は次の点を挙げている。
(1)問題意識を持つ
(2)情報収集・分析力がつく
(3)論理的思考力を養う
(4)傾聴する態度ができる
(5)発表能力が向上する
(6)討論のマナーとフェアプレーの精神を学ぶ
(7)自分に自信をもつ
1.3.2 感性とディベート
マルチメディアは、「感性」に直接訴えかける点を指摘した西垣(1994)は、「イメージを商品化し、感性を経済システムの中で暴走・空転させて、批判的な理性を衰退させてしまう恐れもある(p.iii)」と警鐘を鳴らしている。感性社会であるからこそ批判的な理性が重要であるという指摘は、批判的な理性を育てようとする教育ディベートの価値が感性社会において低くないことを示唆している。
我々は、「感性」という言葉のイメージから、「受け取ること」を想起しやすい。感受性が豊かである、とか美を観賞するという場合、自分がつくってそれを発信するという観点、共同体の積極的な参画者になるという役割を忘れがちである。しかし、マルチメディアが全ての人を情報の発信者にする技術であることを、学習環境の構築を試みるときに改めて思い起こす必要があると思われる。ここでも、与えられた論題について様々な角度からの情報を収集し、論理を組み立てて主張するという発信型の訓練となる教育ディベートの有効性が確認できる。
論理的な組み立てと理性が強調されるディベートにおいても、感性を磨く可能性があることが指摘されている。その第一は、直接対話のコミュニケーションとしての側面、第二は、マルチメディア情報の付加による感性への影響である。
ディベートが一方通行のプレゼンテーションではなく相手があることから、コミュニケーションにおける感性が重要となることが指摘されている。国語教師として教育ディベートを指導する佐藤ら(1994)は、次のように述べている。「一般的にいって、日本人の話し方は外国人に比べて表情に乏しい。聞き手の目をよく見ないで話す人もいる。目くばせ、顔の表情、身振りによる非言語的コミュニケーションは、言葉に劣らず(いや時にはそれ以上に)大切である。(p.84-85)」このことは、感性は「自分の立場を保ちながら、相手の立場をメタ認知することから生じる」とする坂元(1992)の指摘に通じると思われる。
松本(1990)は、「情と知を秤にかけるとディベートではロジックが重くなる。(p.164)」との立場をとる一方で、冷たいロゴス(知)といえどもパトス(情)でくるめば温かくなる。パトスを侮ってはならないと説く。「ロジック(論理)は万能ではない。しかし、泣き落としも万能ではない。「情」に「理」が加わってこそ説得力も増す(p.32)」と主張する。さらに、パトスを越えるディベーターの雰囲気としてエトス(信頼感)の重要性を指摘し、「ユーモアやジョークによる切り返しなどの即興性を私が高く評価するのも、エトスがディベーターの余裕と深く関わっているからである(p.167)」とする。松本の言うパトスもエトスも、ともに感性に関わる問題である。冷たい論理同士の戦いと受け取られやすいディベートにも、感性が深く関わってくる。
話し言葉によるコミュニケーションを主としたディベートの中にも、マルチメディア情報を活用した事例がある。マルチメディア情報を活用することで、感性にも影響が及ぶ。模造紙を使って立論の骨格を提示し、相手の提示した模造紙を見ながら論争をする方式を採用している北岡(1996)は、「同じ資料やデータでも、表現力のある人は見事に図表化して説得する(p.89)」として、絵心やセンスが説得力を増すことに役立つと指摘している。さらに、外国人労働者問題や米自由化問題を扱った中学生の事例では、自家で働く外国人労働者や近所の米屋さんへのインタビューを試み、その録音テープを立論で再生することで論点を具体化したことが報告されている(佐藤ら、1994)。
ディベートにおいてマルチメディア情報がより手軽に入手できるようになれば、その組み合わせ方や活用方法にセンスが要求される。これまでのディベートにおいては、話し言葉が中心であり、説得的コミュニケーションの技法も「話し方」に重点が置かれてきた。ディベートにおけるマルチメディア情報の活用法とその影響についての研究は、今後の展開が待たれるところである。
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感性社会におけるディベート能力の育成の重要性、ソフトウエア工学研究財団(1997)「感性社会に向けてのマルチメディア学習環境のシステム開発に関するフィージビリティスタディ報告書」
https://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/ksuzuki/resume/books/1997RISE.html
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段落の論理の中のディベートには、科学的な論理はなく、共感しかありません。
その結果、<松本の言うパトスもエトスも、ともに感性(共感)に関わる問題である>という科学的な因果推論を逸脱した世の中全てが感性(共感)というカルトな議論が蔓延しています。
なお、アリストテレスは、説得の要素として「ロゴス、パトス、エトス」の3つをあげています。
松本道弘氏は、アリストテレスの説得モデルを採用しています。これは、教養主義であり、ホイッグ史観に反します。松本道弘氏は、段落の論理に汚染されていて、三角ロジックを発明しています。
議論理論の説明を再度引用します。
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議論理論は、哲学分野における知識理論(認識論)である基礎づけ主義に起源を持つ。それは、普遍的な知識体系の形式(論理)と材料(事実の法則)の中に主張の根拠を見出そうとした。弁証法的方法は、プラトンがソクラテスに様々な人物や歴史上の人物を批判的に問いただすという手法を用いて有名になった。しかし、議論理論学者たちは徐々にアリストテレスの体系哲学やプラトンとカントの観念論を拒絶した。彼らは、議論の前提の妥当性が形式的な哲学体系に由来するという考えに疑問を呈し、最終的にこれを放棄した。こうして議論理論は発展していった。
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ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」で、議論の前提の妥当性が形式的な哲学体系に由来するという考えを極限まで推し進めて、哲学は語り得ぬことについては、何もいえないと結論付けます。これは、形式的な哲学体系をつかった形式的な哲学体系の限界論になりますので、哲学の自殺とも言われています。
ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」を書き終えたあと、いったん、(議論の前提の妥当性が形式的な哲学体系に由来する)哲学という学問は、終わってしまったと考えます。
しかし、形式的な哲学体系、つまり、言語の絶対性を否定しない推論は、自己矛盾であるとして、言語の絶対性を否定した言語ゲームという概念に到達します。
トゥールミンは、言語ゲームの延長線上に、トゥールミンモデルを展開しています。
つまり、トゥールミンモデルは、アリストテレスの体系哲学やプラトンとカントの観念論を間違いであるとして、拒絶するホイッグ史観の上に作られています。
パールは、アリストテレスの因果論を否定したヒュームの因果論をスタートにえらんでいます。
科学の世界では、地動説が出てきて、アリストテレス時代の天動説は間違いになりました。
哲学の世界でも、トゥールミンも、パールは、アリストテレスは間違いであると考えています。
ワインバーグが「科学の発見」で批判したように、科学は基本的には、ホイッグ史観です。これは、仮説検証を繰り返すことで、科学的真理は、進化し更新されるパラダイムです。このパラダイムでは、アリストテレスのような古い間違った仮説を引用してはいけないルールになります。
データサイエンスと因果推論の科学の時代には、科学はもう一つのパラダイムを得ています。これは、データ依存、あるいは、モデル依存のパラダイムです。仮説の検証と有効性は、データセットを特定して初めて、認識可能になります。パールは、表現が、データ収集に優先するというパラダイムを提示しています。
科学は、検証を伴うホイッグ史観です。科学の真理は、データと因果モデルの更新によって書き換えられます。共感によって、科学の真理が変わることは、許容されません。
パールは、「因果推論の科学」で、人類が超絶的な進化が可能になった理由は、反事実を扱うメンタルモデルの共有ができたからだといいます。パールは、コミュニケーションに必要な条件は、メンタルモデル(トゥールミンのワラント)の共有ができることだと考えています。科学は、共有可能なメンタルモデルのひとつです。
段落の論理(共感の論理)には、メンタルモデルの共有がないので、バカの壁が常に存在します。
ただし、段落の論理では、ロジックを拒絶するので、バカの壁の存在は目立ちません。
段落の論理では、共感に合わせて、点数をつければ、よいことになります。
これは、三角ロジックをつかったディベートの採点と同じ方法です。
お腹が空いていれば、どのレストランの食事でも、それなりに美味しく感じられます。
夏に汗をかいた後では、塩味の強い料理がおいしく感じられます。
段落の論理では、共感に合わせて、感じたままに、点数をつければ、よいことになります。
ワインや紅茶の世界では、専門のテイスター(taster)がいます。
紅茶の場合であれば、味見前に、口を水でゆすいで、1つ前に味見した紅茶の影響が残らないようにします。
テイスターは、共感にあわせて、感じたままに、点数をつけてはいけません。
テイスターは、評価が客観的で、再現性があるように、努力する必要があります。
パトスへの訴え手法は、薬の世界では、プラセボ効果として、排除して、評価するルールになっています。
製薬会社は、パトスへの訴え手法(プラセボ効果)を期待して、有名人を、テレビの宣伝に投入しています。テレビの放送業界では、倫理問題が絶えませんが、放送業界は、あまりにパトスへの訴え手法(プラセボ効果)に依存しすぎています。
テレビを毎日見るとは、脳の中のパトスへの訴え手法の回路を毎日強化していることになります。
段落の論理(共感)では、パトスへの訴え手法によって、選挙の票を買う住民税非課税世帯向けの給付金は正当な手法であり、検証は不要になります。
「生活保護を受給する世帯の3分の1は外国人が占めている」といった誤情報が拡散しているようです。しかし、共感に訴えるパトスへの訴え手法からみれば、この情報は、共感できるので問題がありません。段落の論理には、クリティカルシンキング(トゥールミンモデルの間違いを取り除くフィルター機能)がないので、誤情報の拡散を防止できません。
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立憲民主党の野田佳彦代表(68)が10日、BSフジ「BSフジLIVEプライムニュース」(月から金曜後8・00)に生出演し、外国人関連の政策について、視聴者の質問に答える形で自身の考えを語りました。
「今、日本は人口減少で大事な社会の基盤を支える仕事、例えば介護も人手不足じゃないですか。2040年には270万人ぐらいの職員が必要なのに今210万人ぐらい。で、新しく入ってこない、むしろ辞めていく」と介護現場など人手不足の現状を踏まえて「そうした時にはやっぱり外国人の手も借りなければいけないと思う」と指摘しました。
「そういう時にあまり排除ばかりしていたら大事な仕事がワークしなくなるので基本的には受け入れるということ」とし、「外国人も日本人も違法なことはやっちゃいけない、ルールを守る。ルールを守ってもらうようにきちんとすること徹底しながら、やっぱり多文化共生社会で」と理想を語りました。
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立民・野田佳彦代表「やっぱり多文化共生社会で」 外国人受け入れへ積極姿勢「排除ばかりしていたら…」 2025/07/10 スポニチ
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立憲民主党の米山隆一衆院議員が10日までに自身のX(旧ツイッター)で、外国人の滞在問題をめぐって、「さすが立憲民主党です 日本人ファーストには断固反対!」とつづる一般ユーザーの投稿を引用。その上で「一見日本人ファーストに見える外国人排斥は、日本を世界から遅らせ、日本人ラストになります。貴方からは日本人ファーストでなく見えるかもしれませんが、世界から人材を集める開かれた国になる事によってこそ、日本は再び Japan is the first(No.1)となる事が出来ます」とつづりました。
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米山隆一氏「日本人ファーストに見える外国人排斥は…日本人ラストに」私見投稿に反応さまざま 2025/97/11 日刊スポーツ
https://news.yahoo.co.jp/articles/9d1aaa30b1d1b8961de54cb18771df30b4e73284
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ひろゆき氏は米山氏の投稿の画面コピーを貼り付け「令和5年の技能実習生の失踪者数は9753人。クルド人で難民申請が通り労働許可が出たのは1人。『入管に爆弾を投げろ』と指示する違法滞在者も居る」と書き出した上で「世界から集めた人材とやらによる外国人不法労働者が毎年1万近く居るのに、違法な外国人滞在者の送還を『外国人排斥』と呼ぶ立憲民主党議員」とツッコミを入れました。
ひろゆき氏の投稿に対し、一般ユーザーが「なんで引用とかリプにしないの?米山と直接討論してほしいけど」との質問があった。ひろゆき氏は「米山さんがおいらをブロックしてるので、米山さんにどうぞ」と米山氏からブロックされていることを明かしました。
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ひろゆき氏、米山隆一氏にツッコミ「違法な外国人滞在者の送還を…」ブロックされてる相手に指摘 2025.07/11 日刊スポーツ
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae8a214b638e782a41ad5a1b8f5871886f6ba1c8
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ひろゆき氏は、「令和5年の技能実習生の失踪者数は9753人。クルド人で難民申請が通り労働許可が出たのは1人。『入管に爆弾を投げろ』と指示する違法滞在者も居る」とデータを示しています。
野田佳彦代表と米山隆一氏は、具体的な外国人のデータを示していません。
野田佳彦代表と米山隆一氏は、三角ロジックにすらなっていません。
野田佳彦代表と米山隆一氏は、共感に訴えるパトスへの訴え手法である段落の論理です。
そもそも科学的な推論からみれば、共感に訴えるパトスへの訴え手法である段落の論理も、検証可能な論理を持たない誤情報であると言えます。