1)科学とアーキテクチャ
(複雑な問題を検討するには、アーキテクチャが必須です)
社会科学と人文科学を含めて、科学はある情報(input)を処理して、結論(output)を導き出します。
inputの影響を受けない、outputはありません。
inpotは、文字や数字などのデータなので、データとリアル世界との対応が問題になります。
例外は、innputの影響をがなく、同じようなoutputが得られる場合がありますが、これは、トートロジー(同語反復、output=input)であって、意味がありません。
このように考えると、社会科学と人文科学に独自の研究方法があるとは考え難いです。
科学はある情報(input)を処理して、結論(output)を導き出します。
身近な例では、Google翻訳があります。
日本語(input)を入れて、処理すると、英文(output)が出てきます。
Inputを変えれば、outputも変化します。
主語のない日本語を入れれば、英文の誤訳が多くなります。
筆者が、国語を学習した時には、文章は行間を読むものだと教えられて、試験には、行間の内容を尋ねる問題が出されました。
しかし、Google翻訳をみれば、行間を読むような文章をかけば、90%は正しく理解されないことがわかります。行間の内容を尋ねる問題正答率が50%なら、その文章でコミュニケーションできた人は50%しかいないことになります。
こうして見ると国語には他の教科にはない独自の手法があるというのは、エビデンスに基づかない眉唾に思われます。コミュニケーションをするのであれば、行間を読まねばならないような悪文を読むトレーニングより、読み間違いの少ない分かり易い文章を書く技術を習得すべきです。Google翻訳の英文が意味不明であれば、原文の日本語に改善すべき点がないかチェックすべきです。
人間の脳のワーキングメモリは7個しかありませんから、複雑な問題をそのままでは解くことができません。7個のワーキングメモリを使える人はかなりトレーニングを受けた人だけです。
多くの人はワーキングメモリを2個しか使っていません。
何か問題があった時には、どこかに原因があると考える人が多いですが、これは、ワーキングメモリを2個しか使わないために起こるバイナリーバイアスです。
こうしたバイアスを避けるためには、問題を解く方法を階層化するアーキテクチャの設計が不可欠です。
ところが、人文・社会科学では、経済学を除いて、アーキテクチャの議論がなされることはありません。文献に書かれていることは、バックがとれなければ、エビデンスではありません。データが不十分であれば、結論はわからないになるはずです。
もちろん、わからないことが多い場合には、エビデンスに想像力を加えて、フィクションを書くことはできます。しかし、それは、科学ではないと思います。
こうした視点でみると、新聞、本屋さんのベストセラーなど問題解決の説明には、違和感があります。そこには、問題のアーキテクチャが論じられていません。
少子化、高齢化、DXなど全てにアーキテクチャの議論はありません。
2)反スコラ哲学
人文科学で、過去の方法論が否定された時代があります。
中世のスコラ哲学の否定です。
著名な反スコラ学的学者には、ルネ・デカルト、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ロバート・ボイル、ガリレオ・ガリレイがいます。
ロバート・ボイルとガリレオ・ガリレイは自然科学者ですが、ルネ・デカルト、トマス・ホッブズ、ジョン・ロックは、人文科学者です。デカルトは、数学者ですが、ここでは、数学はエビデンスに基づかないので、人文科学に属すると考えます。
自然科学者以外から、反スコラ哲学が出てきたのは、自然科学の影響というよりは、ルネッサンスの教会からの解放の影響と思われます。
その後、一部で、スコラ哲学の見直しがありました。
人文科学の研究者は、あまり語りませんが、過去に、人文科学でも科学的方法論をめぐる対立がありました。