第4のパラダイム論とエビデンス

前々回と重複していますが、頭の整理中なので、再度、書いてみます。

 

筆者の基本的な認識は、1994年以降、デジタル社会へのレジームシフトが進行中であるというものです。

 

1994年頃は、リオサミット、バブル崩壊少子化が明確化、ゆとり教育の失敗、冷戦の終了、中国の工業化、インターネットなど、複数のパラダイム変化が、ぼぼ同時に起こっています。

 

このような場合には、何か1つを取り上げて論ずることは、時期が重複した他の変化の影響を見落とすことになりかねません。

 

その点では、非常に論じにくい時期ではありますが、日本の経済成長の転機になった時期であり、ここを外すわけにはいきません。

 

人類史的なタイムスケールで考えれば、デジタル社会へのレジームシフトを第1に取り上げるべきと考えます。

 

科学技術で考えれば、マイクロソフト・リサーチのジム・グレイが、2009年に、科学的探究の「第4のパラダイム」を提唱しています。その背景には、ベイズ統計の実用化、エビデンススベースのEBMの普及などが、1994年ころから進んだことを無視できません。

 

日本では、第4のパラダイムを、クーンのパラダイムと同じレベルでとらえる人が多いと感じます。しかし、クーンは、パラダイム概念を持ち出したのであって、「第4のパラダイム」は、それまで、2000年間解けなかった問題が解けるようになったのであって、全く別のものです。

 

筆者の見解では、第4のパラダイムによって、2000年間解けなかった問題が解けるようになったことが、生成AIの背景にあります。

 

第4のパラダイムは、2000年間解けなかった問題が解けるようになる新しい方法論を提示した訳です。つまり、今まで、苦労して、それでも、問題が解決できなかった方法論にたよる必要はなくなっています。生成AIはその現れのひとつです。

 

筆者の見解では、第4のパラダイムによって、2000年間解けなかった問題が解けるようになったことは、人文科学とリベラルアーツの時代の終了を意味しています。

 

すくなくとも、科学のエビデンスという基準を採用すれば、第4の科学には、エビデンスがありますが、人文科学にはエビデンスはありません。

 

形而上学に価値を見出せば、人文科学に価値があることになります。

 

筆者の立場は、プラグマティズムのパーシアンになります。

 

科学の方法に基づかなければ、リアルワールドに、介入することはできないと考えます。

 

言葉は、思考の数少ない道具ですが、不完全であり、エビデンスに基づいて、リアルワールドとの乖離をチェックしない形而上学は、暴走して、あやまった結論に達すると考えます。

 

EBMから、始まったエビデンスベースの推論や意思決定は、明らかに、人文科学の否定になるのですが、そのようにとらえている人を見かけません。

 

生成AIが、アメリカで弁護士試験に合格すると、人間の弁護士が、生成AIに入れ替わるというレジームシフトを考えない解釈をする人が増えています。

 

生成AIは、人間の思考の一部は、第4のパラダイムで代替できるか、よりよい推論をすることができるというパラダイムシフトを前提に作られています。

 

人間を基準に、生成AIをみるのは、人間は正しい答えを知っているという形而上学に基づいています。人間は正しい答えを知っているというエビデンスはなく、アプリオリに依存します。

 

人間の記憶は直ぐに捏造されます。認知科学は、犯罪の自白や証言の殆どは捏造された記憶であることを明らかにしました。

 

PCのOSにバグ(間違い)があれば、バージョンアップのプログラムを適用して改善をします。

 

過去の裁判の判決の根拠が、自白や、時間がたってからの証言である場合、記憶は、ほぼ捏造されたものであると言えます。

 

OSにバグ(間違い)があれば、バージョンアップのプログラムを適用して改善するように、裁判の過去の判決に間違いが見つかった場合にも、修正が適用されて、判決結果が、バージョンアップされるべきです。

 

悲しいかな、現在の裁判のルールには、このような、バグフィックスのシステムは、導入されていません。

 

エビデンスベースの推論とはこういったものですから、人文科学の否定になる訳です。

 

日本の社会は、科学の方法によらずに、科学技術立国ができると考えているように見えますが、それは、どう考えても、無理ではないでしょうか。