文系の学問と理系の学問

(文系か、理系かという学問区分はありません)

1)二つの文化と科学革命

1959年にスノーが「二つの文化と科学革命」を表わし、「科学的文化と人文的文化の間には、越えられないギャップがある。エンジニア教育を重視すべきだ」と主張しました。

日本では、スノーは、理系と文系のギャップを埋める重要性を指摘したというトンデモ解釈が普及しています。

「ギャップを埋める重要性」はトンデモ解釈で、スノーを曲解しています。

ところで、その前に、「理系と文系」とは何でしょうか。

スノーは人文的文化と科学的文化といっています。「理系と文系」とはいっていません。

これは、至極当然です。なぜなら、「文系と理系」の区別は、世界でも、日本の教育システムにしかない区分だからです。スノーが、日本の特異な教育システムを取り上げることはありえません。

2)パースの解釈

スノーは、人文科学的文化と自然科学的文化と言いました。

スノーのいう自然科学とは、物理学をモデルにしています。

その点では、進化論を科学の方法のモデルと考えたパースとは、ずれがあります。

とはいえ、エビデンスをもとに、理論は検証されるという科学の基本は一致しています。

これから、エビデンスに注目すれば、スノーの科学的文化とパースの科学の方法は、ほぼ一致している考えてもよいでしょう。

それでは、スノーの人文的文化を、パースはなんと呼んだのでしょうか。

筆者は、スノーの人文的文化は、パースの形而上学に対応すると考えます。

人文科学では、歴史を超えて残った古典には価値があると主張します。

人文科学は、エビデンスに関係なく、残ったことを意味します。

時間が経過すれば、新たなエビデンスが見るかるので、科学の仮説は修正されます。

「歴史を超え超えて残った」とは、仮説の更新がなされないので、形而上学です。

アリストテレスの力学は、ニュートンによって置き換えられました。

つまり、アリストテレスの力学は、1500年の間は、歴史を超えて残った古典でした。

ガリレオが、アリストテレスの力学に疑問をつけ、ニュートンは、よりよい代替理論を提案しました。

数学は、形式的には、形而上学ですが、実態は、物理学が数学にフィードバックするように、形而上学とは割り切れない部分があります。

数学の一部であるアリストテレスの論理学は、20世紀に、フレーゲによって、書き換えられてしまいアリストテレスの論理学が、歴史を超えて残った古典といえるかは疑問です。

人文科学では、アリストテレスの学問は、歴史を超えた価値があると見なされています。

これは、自然科学から見れば、非常に奇異に見えます。

 

おそらく、歴史を超えて残ったアリストテレスの学問は。形而上学であったため、エビデンスの影響を受けた仮説の更新がなされなかったと思われます。

こう考えると、パースの「科学か、形而上学」という学問分類は、非常に明快で有益です。人文科学が、エビデンスに基づいて、理論を書き換えれば、科学になります。

心理学は、人文科学からスタートしましたが。現在は自然科学の一部です。このように、全ての人文科学が形而上学とは言えませんが、形而上学ではない人文科学は例外的に少ないです。ピアジェ発達心理学は、観察研究を主な研究手段にしています。しかし、現在のエビデンスベースのデータサイエンスからみれば、観察研究は、仮説の検証の過程に問題が多いことが知られています。問題があるとはいえ、ピアジェ発達心理学は、観測結果をもとに、構成されており、形而上学ではありません。

3)まとめ

文系か理系かという区分は、学問区分ではなく、日本のローカルな教育カリキュラムの区分にすぎません。

文系か理系かという学問区分は、ありません。存在する学問区分は、パースが指摘したように形而上学か、科学かになります。

形而上学は、科学ではありませんので、人文科学独自の科学の方法はありません。