1)「歴史とは何か?」
筆者は、最近では、怪しい日本語に遭遇した場合には、英語版のウィキペディアでチェックをします。
「歴史にifはない」はよく使われる言葉です。日本語のウィキペディアには、「歴史にifはない」という項目がありますが、他言語表記はありません。
つまり、「歴史にifはない」という言葉は、日本でしか通用していないことば日本語です。
日本語のウィキペディアには、「歴史にifはない」には、次のように書かれています。
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E・H・カーによる歴史に対する概念である。1961年にE・H・カーによって行われた講演では、歴史にifはないようなことが述べられていた。ここでは近現代史において未練たらしく、こうであったら良かったのにという思考を批判する趣旨でこのようなことが述べられていた。E・H・カーは歴史のifというのはサロンの余興であると批判している。多くの歴史家も歴史とは物事の原因を説明するのが役目であると考えているためにE・H・カーと同様に歴史にifはないとしている。だが全ての歴史家がこのようであるわけではなく、世界には歴史のifに関する論文や書籍も多数ある。
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出典は、E・H・カーの講演であることがわかります。
次の記述には、出典も、ファクトなく眉唾です。
「多くの歴史家も歴史とは物事の原因を説明するのが役目であると考えているためにE・H・カーと同様に歴史にifはないとしている。だが全ての歴史家がこのようであるわけではなく、世界には歴史のifに関する論文や書籍も多数ある」
1961年にケンブリッジ大学でカーが行った一連の講義は、「歴史とは何か?(What Is History?)」(1961)にまとめられています。
したがって、「E・H・カーによる歴史に対する概念」の議論は、一般には、書籍である「歴史とは何か?」を対象にしています。
英語版のウィキペディアの「What Is History?」には、次のように書かれています。
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受容
カーが「歴史とは何か」の中で歴史研究の本質について述べた見解は物議を醸した。ジェフリー・エルトンは 1967 年の著書「歴史の実践」で、カーが「歴史的事実(historical facts)」と「過去の事実(facts of the past)」を「気まぐれに(whimsical)」区別していることを批判し、それは「過去とそれを研究する歴史家の立場の両方に対する非常に傲慢な態度(an extraordinarily arrogant attitude both to the past and to the place of the historian studying it)」を反映していると述べた。エルトンは、歴史における「偶然(accidents)」の役割を否定したカーを賞賛したが、カーの歴史哲学は、神のマスタープランの実現であり「進歩(Progress)」が神の役割を果たすという中世の歴史観の世俗版を提供しようとする試みであると述べた。
英国の歴史家ヒュー・トレヴァー・ローパーは、カーが「歴史のあり得たかもしれないこと(might-have-beens of history)」を否定したことは、歴史的因果関係の調査に対する根本的な関心の欠如を反映していると述べた。トレヴァー・ローパーは、歴史のあり得る別の結末を検証することは「社交ゲーム(parlour-game)」ではなく、歴史家の仕事の重要な部分であると述べた。トレヴァー・ローパーは、歴史家はあらゆる結末とあらゆる側面を検討することによってのみ、研究対象の時代を正しく理解することができると述べた。歴史の勝者だけを理解しようとし、特定の一連の出来事の結末を唯一のあり得る結末として扱うカーの視点を採用した歴史家は「悪い歴史家(bad historians)」である。
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「歴史にifはない」という英語はなく、「歴史のあり得たかもしれないこと(might-have-beens of history)」が英語になります。
「多くの歴史家も歴史とは物事の原因を説明するのが役目であると考えているためにE・H・カーと同様に歴史にifはないとしている」とは、言えないことがわかります。
「歴史のあり得たかもしれないこと(might-have-beens of history)」を否定すれば、歴史的因果関係の調査に対する根本的な関心の欠如になります。
論点は、「歴史的因果関係の調査に対する根本的な関心の欠如」にあります。
因果推論とは何かという問題は、パールによって、数学的に解決しています。
「因果推論の科学」(p.85)で、パールは、「因果関係とは、介入あるいは想像という行為によって世界が変化したとき、果たして確率は変わるのか、どのようにかわるのかを語ってくれるもの」と説明しています。
具体的には、因果ダイアグラムを書いて、エスティマンドを作って、前向き研究でデータを集めれば、よいと言えます。
因果推論とは何かという問題は、解決済みの問題です。
因果推論の科学に基づけば、「歴史にifはない」は、因果推論の放棄であり、完全な間違いであり、議論の余地はありません。
「歴史とは何か?」は、科学的には、アウトで使えません。
科学はデータに基づきます。仮説は、データにより検証されます。
議論は、データに基づきます。先人の発言を証明済みの仮説やファクトとして扱ってはいけません。
仮説の検証は、しばしば困難ですが、反例が見つかった場合には、仮説は放棄されます。
ところが、先人の発言を証明済みの仮説やファクトとして扱って、因果推論とは何かという問題は、解決済みではないという主張が多くあります。
松永英明氏は、「歴史とは何か」への反論として、塩川伸明著『カー「歴史とは何か」』を引用しています。
松永氏は、さらに、次のように言いいます。
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カーは氏は、<歴史家は常に「なぜ?」を問い続けなければならない>と主張したが、「なぜ?」と問い続ける思考態度(センス・オブ・ワンダーsense of wonder)は、SFに共通しているといいます。
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「歴史にifはない」とはどういう意味か(歴史における「偶然」と「未練」)松永英明
https://www.kotono8.com/2009/01/19ifhistory.html
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「不思議な感覚(sense of wonder)」と「なぜ?」と問い続ける思考態度を同一視するのは、論理が乱暴に思われます。
カーは氏は、本当に、<歴史家は常に「なぜ?」を問い続けなければならない>と主張したのでしょうか。疑問が残ります。
塩川伸明著『カー「歴史とは何か」』は、検索ではヒットしません。
塩川伸明氏は、2004年5月に、「《20世紀史》を考える」を、出版しています。
この本の第1章と第2章の草稿は、次に公開されています。
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E・H・カー「歴史とは何か」 塩川伸明https://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/books/carr.htm
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塩川氏は、次の部分を引用しています。
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「歴史的事実」は歴史家による事実の選択および整理を経てはじめて形づくられる。では、その選択および整理はどのような基準によってなされるのか。
この問題を考える上で最も興味深いと思われるのは、「ロビンソンの死」という喩え話である(151から158頁)。煙草を買うために道路を横切っていたロビンソンという人が自動車に轢かれて死んだ。事故の原因として、運転手が酒を飲んでいた、自動車の整備に落ち度があった、道路の見通しが悪かった、などが挙げられ、そのどれが決定的だったかによって、運転手なり自動車整備工なり道路管理局なりの責任が問題にされる。しかし、視点を変えれば、ロビンソンが事故に遭ったのは、煙草を買おうとして道路を横断したためであり、彼が愛煙家でなければ事故には遭わなかったという議論も成り立つ。この最後の議論は前三者(飲酒運転、自動車整備、道路管理)に対比して、「無意味」なものとして退けられるが、それはどうしてかというのがカーの出している問題である。
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言うまでもなく、この問題は、因果推論の科学で、解決済みです。
「愛煙家、飲酒運転、自動車整備、道路管理」の事実と反事実を比較検討する問題になります。
「ロビンソンの死」は、反事実(「歴史の if」)を扱っています。
つまり、カーが、因果推論の科学を理解していれば、「歴史とは何か」は全く異なった書籍になっていたはずです。
堀田隆一 氏も、「歴史の if」を論じています。
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#3895. 「歴史の if」の効用 (1)[methodology][history][hel_education] 2019/12/26 堀田隆一
https://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2019-12-26-1.html
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堀田隆一 氏は、赤上 裕幸氏の著書を引用してます。
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しばしば「歴史の if」は歴史の原因を探求する時に用いられる。歴史上の出来事は一度しか起こらないので、反実仮想は因果関係の推定を可能にしてくれる有効な方法なのだ。カーが『歴史とは何か』で指摘したように、「歴史の研究は原因の研究」であるならば、歴史家も無意識のうちに反実仮想の思考を行なっていることになる。たとえば、「Aが原因でBが起きた」と考える場合、それは「もしAが起こらなかったら、Bは起こらなかったであろう(あるいは、違った形で起こったであろう)」ということを意味する。そこでは「もしAが起こらなかったら,Bは起こったであろう」とか「Aが起こったのに、Bは起こらなかった」という状態は否定される。
厳密に言えば、原因の判定とは「必要原因(必要条件)」を明らかにし、その重要度を決めることだ。「必要原因」とは、それがなかったならば、ある特定の結果が起こりえなかった原因のことを指す。ある一つの原因に関して、ありえたかもしれない複数の結果と、実際に起こった結果を比べたときに、違いが大きければ大きいほど、その原因の重要度は高いと言える。このようにして、複数の原因を俎上に載せて検討することで、どれが「必要原因」かを特定できると考えられる。
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赤上 裕幸 『「もしもあの時」の社会学』 筑摩書房〈ちくま選書〉,2018年
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パールは、「因果推論の科学」(p.399)で、因果関係には、「必要因果関係」と「十分因果関係」と「必要十分因果関係」がある、区別が必要であるといいます。
<原因の判定とは「必要原因(必要条件)」を明らかにし、その重要度を決めること>は、間違いです。
近藤和彦氏は、2022年に、「歴史とは何か」の新訳<E・H・カー「歴史とは何か新版」(岩波書店、2022)を出版しています。
近藤和彦氏は、2023年に、「思想」の特集号を編集しています。
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思想の言葉:近藤和彦【『思想』2023年7月号 小特集|E・H・カーと『歴史とは何か』】2023/06/22 岩波書店
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/7306
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ここで言及されている内容は、1961年の「歴史とは何か」の時代の科学の水準に基づく議論です。
「歴史とは何か?」は、科学的には、アウトで使えません。
しかし、「歴史とは何か」が出版された1961年には、因果推論の科学、コンピュータ、ベイズ統計学、ベイジアンネットワークはありませんでした。
因果推論の前提となるベイジアンネットワークでは、条件式を、条件付き確率で書きますが、カーは、条件付き確率には精通していませんでした。
パールの言い方をすれば、カーが、「因果推論の科学」を理解していなかったために、「歴史にifはない」という間違った結論を導き出したという指摘は、ホイッグ史観になります。
2025年現在の科学の水準で、「歴史とは何か」を批判することは、フェアではありません。しかし、そのことと、「歴史とは何か」の記述に、2025年の現在も価値があると考えることは、全く異なった判断になります。
2025年現在の科学のレベルで、「歴史とは何か」に間違いがあれば、それを修正したバージョンアップ版が必要になります。
自然科学では、このようなバージョンアップは、必須です。
生物学の教科書に書かれてている進化論は、ダーウィンの進化論のバージョンアップ版であって、オリジナルではありません。
歴史学が、因果推論を取り扱う限り、歴史学は、因果推論の科学を無視できません。
日本の歴史学は、因果革命から取り残されています。
野口悠紀雄氏は、1990年前後にトップであった日本の国際競争力が低下したといいます。
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日本が「4年連続1位→38位」に転落した国際的指標【再配信】 2024/12/25 東洋経済 野口悠紀雄
https://toyokeizai.net/articles/-/848900
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ランキングが落ちる原因は2つあります。
第1は、日本の絶対的レベルの低下です。
第2は、日本以外の国のレベルがあがっているのに、日本が変わらない相対レベルの低下です。
1961年の「歴史とは何か」が正しいという判断は、1961年から、学問の進歩が止まっていることを示唆しています。
山本五十六元帥の銅像の復活は1958年でした。1960年頃に、法度体制が復活しています。法度体制は、権威主義であり、科学とは相いれません。法度体制では、カーという歴史の大家の発言には、権威があり、間違いがないと困るわけです。
その結果、自然科学や工学を含む多くの分野で、1960年頃に、学問の進歩が止まっています。この現象は、歴史学だけでなく、日本の学問の世界に広く見られます。
年功型雇用で、OJTを繰り返せば、新しい学問は、導入出来ません。
欧米では、大学は、新しい学問を常にとりいれています。
欧米では、新しい学問を学ぶためには、社会人が大学にいって再教育を受けます。
しかし、日本の大学で、新しい学問を研究しているところは、一部に限定されます。
野口悠紀雄氏は、<東大は「AIより農学部」に比重置く“40年前”の状態>であるといいます。
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東大は「AIより農学部」に比重置く“40年前”の状態!新たな学問に配分できない深刻問題 2025/03/13 DIAMOND 野口悠紀雄
https://diamond.jp/articles/-/360922
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しかし、注意してみれば、これは、農学部だけの問題ではありません。
日本の大学の研究と教育では、1960年頃に、学問の進歩が止まっている場合が、多く見られます。
土木工学では、戦後、アメリカの設計基準が翻訳されて、日本の設計基準が作られました。この翻訳は、1960年頃に行われています。
アメリカの設計基準は、5から10年毎にバージョンアップされています。
1ドル360円の時代には、アメリカにいって、新しい設計基準を入手することは困難でした。
この状況は、インターネットで激変します。アメリカの設計基準は、電子化されているので、最新版をネットワークで、入手できます。ところが、インターネット時代になっても、日本では、1960年代のアメリカの古い設計基準を基本にした設計基準が使われ続けています。2025年の現在でも、状況はあまり変わっていません。その理由は、最新版の和訳を導入すると、法度体制が崩壊するためと思われます。
因果推論の科学について言えば、日本の大学の99%はルービン流であり、因果ダイアグラムを使いません。
ルービン流では、「歴史にifはない」は、致命的な問題とは考えられません。