言葉の問題
前回の原稿を書いてから、どうして、「たった2つのこと」が理解されないかを考えました。
結局、その原因は、言葉の問題ではないかと思います。
パールは、「因果推論の科学」の中で、言葉がなければ、考えられないといいます。
前⽥裕之氏は、村上靖彦著「 客観性の落とし穴」を次のように要約しています。
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大阪大学教授の村上靖彦著「 客観性の落とし穴」(ちくまプリマー新書/2023年6月刊)は、現在の実証分析ブームを批判的に捉えた書である。「客観性」、「数値的なエビデンス(証拠)」は現代社会では真理とみなされているが、客観的なデータでなかったとしても意味がある事象はあるはずだ、という問題意識を出発点に持論を展開していく。
同書の前半では、科学的な真理が絶対となり、人間の経験をも科学的な妥当性と数値で測ろうとしてきた人間の世界で何が起きたのかを振り返る。「客観性」の歴史分析である。
自然、社会、時間、心というように世界のありとあらゆる事象は19世紀から20世紀にかけて客観的に捉えられるものとなっていった。客観性が支配する世界はたかだか200年弱の歴史しか持たない。
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<< 引用文献
客観性の落とし穴 (ちくまプリマー新書 427) 新書 – 2023/6/8
実証分析ブームの背後に潜む落とし穴に着目した本 2024/02/07 日経BOOKPLUS 前⽥裕之
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/122100175/012500029/
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歴史(時系列データ)は、因果ではないので、科学ではありません。
マーク・トウェインは、「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」といいました。
「因果推論の科学」は、この「韻を踏む」部分は、因果構造であると考えます。
歴史で、再現性のある利用価値のある部分は、因果構造だけです。
パールによれば、「客観性が支配する世界はたかだか200年弱の歴史しか持たない」原因は、言葉がなかったからです。
200年前には、確率の言葉、因果推論の言葉、プログラム言語はありませんでした。
「数値的なエビデンス(証拠)」は「客観」ではありません。
因果構造(因果ダイアグラム)は、主観によります。
将来も因果構造は維持されて、仮説が成り立つか否かの判断は主観によります。
ピアソンとフィッシャーは、統計学から主観を排除しようとして、因果関係を放棄してしまいした。
因果関係を取り扱う科学の因果構造は主観です。
もちろん、コンピュータで計算するコードの部分には、客観性があります。
「因果推論の科学」とは、科学を主観の部分と客観の部分に分離して、主観の部分が比較できるようにすべきであると考えています。
前⽥裕之氏の記述には、相関と因果の区別はありません。
前⽥裕之氏は経済学の教育を受けていますので、実証分析で、相関の言葉を習得しています。
「因果推論の科学」は、因果の言葉(do演算子)で書かれています。
しかし、相関の言葉しか持っていない人は、「因果推論の科学」を相関の言葉で理解しようとしています。
エビデンスは、データを示す因果の言葉であって、相関の言葉ではありません。相関の言葉では、データは、ファクトになります。
相関からスタートして、因果の階段を登ることは容易ではありませんが、その原動力は、クリティカルシンキングです。相関では、解くことの出来ない問題を見つけて、その解決法を探索する推論です。
「自然、社会、時間、心というように世界のありとあらゆる事象は19世紀から20世紀にかけて客観的に捉えられるものとなっていった。客観性が支配する世界はたかだか200年弱の歴史しか持たない」という発言は、クリティカル・シンキングと対立します。
200年の間に、新しい学問が生まれた原動力は、それまでの方法では解けなかった問題を解く必要があったからです。
そのために必要な言葉が、実験と観測によるデータでした。
データがなければ、インスタンスのないオブジェクトになり、形而上学になります。
形而上学は、コンピュータにコーディングできないので、判別が可能です。
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「客観性」、「数値的なエビデンス(証拠)」は現代社会では真理とみなされている
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は、プラグマティズムの否定になります。
プラグマティズムは、無謬主義です。
科学も無謬主義です。
プラグマティズムと科学は、真理を扱いません。
扱うテーマは、プロセスの妥当性になります。
真理を扱えば、形而上学になってしまい、プラグマティズムの否定になります。(注1)
科学論文では、実験と分析のプロセスの妥当性を審査します。
結果の正しさは評価していません。
プラグマティズムの推進者のジョン・デューイは、思考力の育成を目的としたカリキュラムが学習者個人、コミュニティ、そして民主主義に利益をもたらすことを認識していました。
つまり、アメリカの教育では、クリティカル・シンキングは基本的な学習内容に含まれています。
以上のように、書くと、読者は、筆者が、前⽥裕之氏と村上靖彦氏を批判しているように感じるかも知れません。しかし、それは、日本の教育に科学的な推論の育成が含まれていないためです。
検証する仮説を帰納法でつくってはいけません。
帰納法は、使っているデータの依存性が高く、間違い(見落とし)が多いのです。
また、帰納法では、反事実を扱えないので、問題解決ができません。
推論のプロセスでは、常に、反例を考え、反例がなくなるように、仮説をブラッシュアップする必要があります。この推論が、アブダクションです。推論をアブダクションで行っている場合には、反例の提示(批判)は、バージョンアップのための良い材料になります。
仮説(ソフトウェア)のバージョンアップには、バグレポートが必須なのです。
注1:
プラグマティズムは、形而上学の排除をめざしますが、形而上学を完全に否定しているわけではありません。
正確に言えば、プラグマティズムは、問題解決の方法としての形而上学を否定しています。
民主主義は、形而上学です。これは、民主主義が問題解決の手段にはならないことを意味しています。マキャベリが「君主論」で展開したように、政治では、正義ではなく力が勝ちます。正義は問題解決の手段ではありません。
補足1:
実証分析ブームだそうです。しかし、パールの「因果推論の科学」以外の本では、相関と因果の混乱が見られます。ルービン流の因果推論は、相関ではなく、因果であると主張する人もいますが、パールは、ルービン流の因果推論は、相関が混在するリスクを排除できていないと批判しています。
ルービン流の因果推論は、相関をリフォームすれば、因果になったように見えるので、人気があります。日本では、パール流ではなく、ルービン流一色になっています。
実証分析ブームの内容は、玉石混交なので、本を読めば読むほど、混乱が深くなる状態にあります。英語の本か、最低限、英語のウィキペディアを読むことをお勧めします。
筆者は、過去に、日本語の本を読んで、混乱がさらにひどくなったので、最近では、日本語の本は避けています。