7)事実推論の研究
7-1)基本的な特性
前回推論を事実推論(暗黙知)と反事実推論(言語知)に分解する仮説を提示しました。
反事実推論は、科学の方法になりますが、科学と呼ばれる分野でも、事実推論が横行しています。
その原因は、仮説の検証のために、介入(実験)ができない場合には、反事実推論ができないので、事実推論が横行しているためです。唯一の例外は、RCTですが、これは、実施が困難です。
科学は、仮説と検証という言語プロセスを使っています。言語プロセスが使われている限り、科学と呼ばれる分野に紛れ込んだ科学の方法を使わない研究は、漸近的に追放されます。この典型は、進化論に見られます。進化論では、実験ができないので、この弱点が研究者の間で共有され、細心の注意を払って研究が進められてきました。ポパー氏は、実験のできない進化論は、科学ではないと主張しましたが、その主張の是非は、別にして、進化論のように実験ができない弱点に注意を払わない進化論より問題だらけの研究分野がたくさんあり、そこでは、事実推論が横行しています。
科学は、相対的な真理の更新プロセスですから、間違いが紛れ込んでも、言語を使った点検が行われれば、時間が経てば、間違いは追放され、信頼性が高くなります。この同じ間違いを繰り返さない結果、間違いが減少していく特性があることが、科学の信頼性の根源になります。人間が利用可能な情報は不完全なものなので、科学に間違いがあることは不可避です。科学の信頼性は、科学に間違いがないことにあるのではなく、科学では、間違いが除去される手続きにあります。
逆に言えば、間違いが除去されるプロセスが確認されない場合には、事実推論が行われている可能性があります。
例えば、政治の世界では、間違いが繰り返されています。問題は、政治の世界に間違いがあることではなく、間違いが追放されて、信頼性が向上する科学の方法が、政治の世界で使われていない点にあります。政治の世界では、事実推論が使われていると思われます。
政治の世界では、演説などの言葉が使われます。なので、政治の推論は、事実推論(暗黙知)であると考えることには、違和感があるかもしれません。
パール氏は、「因果推論の科学」の中で、今までの統計学の専門家は、因果推論の言葉を見たことがないので、因果推論のことを考えることができなかったといいます。パール氏の説明を、統計学の専門家の因果推論の知識は、暗黙知のレベルであったと書くこともできます。
このように考えれば、政治家が言葉を使って演説していることと、政治家の推論が事実推論(暗黙知)のレベルに止まっているという仮説とは矛盾はしません。政治家が、科学の言葉を使って、話をしない限り、政治の間違いは繰り返されることになります。
パース氏の「ブリーフの固定化法」の分類で考えれば、政治家の言葉が、リアルワールドを反映していない形而上学になっている場合には、演説の推論はリアルワールドとは関係がなく、リアルワールドの実際の推論は、事実推論になっていると考えます。これは、演説は建前(形而上学)であって、本音は別(暗黙知)にあると考えることもできます。この場合でも、政治家が暗黙知で推論している場合には、推論のバイアスに気付くことはありません。メンタルモデルの共有が成立しないので、コミュニケーションはできません。
事実推論の基本は、前例主義であり、お気に入りの過去のパターンを引用する方法です。言語が使われる部分は、パターンを指定する時になります。過去の事例のうち、こうあったらいいなと思われるようなキーワードを羅列します。これは、言語世界の推論ではないので、分析的に考えると推論になりません。筆者は、それが、過去に論理学が事実推論を無視してきた理由であると考えます。
子供が「あのおもちゃが欲しい」と考えるのが事実推論です。「大声で泣いたら、おもちゃを買ってもらえるかもしれない」と考えることは因果推論です。しかし、この因果推論が言語化されていないので、暗黙知です。暗黙知の中心は、事実推論ですが、単純な因果推論が一部含まれます。しかし、この因果推論は、言語化されていないので、操作不可能です。
動物には、エサを与えることで芸を覚えさせることができます。これも、単純な因果推論です。
同様に、暗黙知で学習する鮨職人にも、単純な因果推論はあります。しかし、メモをとらないと記憶できないような複雑なプロセスは、暗黙知には含まれません。
このように、事実推論と因果推論、暗黙知と言語化した知識の区分の境界には、曖昧な部分もありますが、境界はグラデーションになっていると考えて、敢えて、例外を強調しないことにします。
カーネマン氏は、「ファスト・アンド・スロー」の中で、ファスト回路は、以前の行動を繰り返す場合に使われると整理しました。これから、ファスト回路は、事実推論に対応しています。同様に、スロー回路は、因果推論に対応していると思われます。
7-2)事実推論の政策
パール氏は、「因果推論の科学」(p.24)でつぎのようにいいます。
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見ること(観察)と行動すること(介入)は、根本的に違う。そして、この違いは、私たちが気圧計の測定値の低下を嵐がくる原因とみなさない理由の説明になる。気圧計の針が下がっているのを見て、それを考慮に入れれば、嵐の確率は上がっていると考えていいが、気圧計の針を無理にさげたとしても、嵐が来る確率に変化は起きないのだ。
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これは、因果推論ができれば、問題の発生源である原因を探して、対処しようとしますが、因果推論ができないと、原因と結果の区別がなくなることを意味します。
つまり、事実推論をする人は、結果に介入しても効果があると考えることを意味します。
事実推論には、原因と結果の区別はなく、ともかく、問題のある事実を取り除けばなんとかなると考えます。
事実推論では、例えば、自動車の検査不正があった場合、検査不正と結果を取り除けば、問題は解決すると考えます。
因果推論では、自動車の検査不正があった場合、不正の発生原因を取り除かなければ、問題を起こす構造は残っているので、問題は再発すると考えます。
このことから、官僚や大会社の幹部は、因果推論ではなく、事実推論をしていることがわかります。
事実推論の問題点は、科学の方法(反事実推論)の裏返しです。
事実推論には、言語がないので、間違いは訂正されずに放置されます。事実推論には、言葉がないので、間違いに気づくことはありません。
政府は、ガソリン価格の値上がりに対して、トリガー条項を発動させず、補助金を支払いました。
政府は、「電気・ガス価格激変緩和対策事業」などの電気代とガス代への補助を繰り返しています。電気代とガス代が問題になる原因は、所得が上がらないことです。因果推論で考えれば、政府は、所得をあげる政策を行なうべきです。
政府は春闘で賃金を大きくあげるように、企業に要請しました。賃金が上がらない原因は、生産性が上がらないからです。因果推論で考えれば、生産性の低い企業を淘汰すれば、賃金は上がります。政府は、ゾンビ企業が倒産しないように補助金を配布しました。因果推論で考えれば、政府は、生産性があがらず、賃金が上昇しないように、税金を投入したことになります。
政府は、円安に対して、介入をしました。因果推論で考えれば、円安の原因は、企業の生産性が低いからです。企業の生産性を上げるためには、補助金を投入してはいけません。市場原理にしたがって、公平な企業の競争を促せば、良いことになります。生産性を上げるために、税金の投入は不要ですから、いつでもできる政策です。政府は、企業の生産性をあげることより、政治献金と官僚の天下り先を優先しています。しかし、生産性の向上を可能にする市場経済を破壊しているので、先進国の中で、日本だけが、生産性の向上がみられません。これは、持続可能ではないので、企業は海外にシフトしています。日本に投資する外資はありません。高度人材は、海外に流出しています。東京大学の卒業生の官僚希望者は激減しました。学生は、このシステムは、時間の問題で破綻すると判断しています。教育は、企業の生産性を向上することで、経済発展に寄与します。日本の高等教育の7割は、文系で、生産性の向上には寄与しません。これでは、教育投資をすればするほど貧しくなります。
野口悠紀雄氏は、日米の中央銀行の金利変更について、次のようにいいます。(筆者要約)
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2024年8月23日に開催された「ジャクソンホール会議」で、パウエルFRB議長は、9月の政策金利引き下げを明言しました。利下げのタイミングとペースは雇用の経済データ(雇用統計や消費者物価指数)に依存すること、株価の動向を見ないことを明確にしています。
7月利上げやその後の日銀幹部の発言は、日銀が政策決定の判断で何を基本にしているのか、重視する経済変数が首尾一貫していない。場合によっては、株価の動向が金融政策に影響を与えるようにもとれます。
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<< 引用文献
日銀の金融政策は株価に左右されるのか!?揺れ動く「判断要因」が不安定を増幅 2024/09/12 Diamond 野口悠紀雄
https://diamond.jp/articles/-/350276
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FRBの推論は因果推論で、金利変更(結果)の原因は、「雇用統計と消費者物価指数」です。
政府と日銀の推論は、事実推論になっていると考えれば、何が起こっているのかわかります。
事実推論は、まともな推論ではないのですが、暗黙知の領域に属してます。
事実推論は、気に入った政策を引用する推論なので、政策の間の矛盾や政策効果を調べることはありません。会計検査院は、政策の費用対効果を問題にすることはありません。
暗黙知は、とんでもない間違いであるというメンタルモデルの共有ができないと、言葉で政策を検討するスタート台にはつけません。