3)フィリップス曲線の限界
英語版のウィキペディアの「フィリップス曲線(Phillips_curve)」を見ると、実にいろいろなことが書かれています。
要点を一言で言えば、以下です、
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フィリップス曲線はあまりにも単純すぎるという理由で、ほとんどの経済学者はもはや元の形では使用していない。
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あるいは、次のように書かれています。
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失業とインフレの間には短期的なトレードオフがあるが、長期的には観察されていない。 1967年と1968年に、フリードマンとフェルプスは、フィリップス曲線は短期的にのみ適用可能であり、長期的にはインフレ政策は失業率を低下させないと主張した。フリードマンは1970年代のスタグフレーションを正しく予測した。
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フィリップス曲線は経済学のメインテーマです。
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1974年以来、フィリップス曲線のいくつかのバリエーションに対する批判的な研究などにより、7人の経済学者にノーベル賞が授与されている。これらの批判の一部は、1970年代の米国の経験に基づいており、その時期には失業率が高く、インフレ率も高かった。これらの賞を受賞した著者には、トーマス・サージェント、クリストファー・シムズ、エドマンド・フェルプス、エドワード・プレスコット、ロバート・A・マンデル、ロバート・E・ルーカス、ミルトン・フリードマン、FAハイエクがいる。
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さて、引用はここまでにします。
英語版のウィキペディアの「フィリップス曲線(Phillips_curve)」には、膨大な量のフィリップス曲線のバリエーションが書かれています。
これは、インフレ目標を論ずるのであれば、必読であると思います。
フィリップス曲線は、コンピュータサイエンスのセンスでいえば、今だかつてないほど、膨大なバグ補正のためのパッチがあてられたソフトウェアのように見えます。
「パッチあてを止めて、書きなおしたら」と言いたくなります。
筆者には、「フィリップス曲線」が、パッチだらけになった原因は、相関と因果の取違いにあるように感じられます。
「フィリップス曲線と日本銀行」のフィリップス曲線の説明は、英語版のウィキペディアの「フィリップス曲線」の説明に比べると、あまりにナイーブです。
4)因果推論と反事実
RCTを因果推論として発展させるには、反事実、あるいは、「潜在的な結果」が必要です。
前回も、引用したように、パールは、「因果推論の科学」(p.412)で次のようにいいます。(筆者要約)
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ルービン因果モデルでは、変数 Y の「潜在的な結果」は、「X に値 x が割り当てられていた場合、Y が個体 u に対して取る値」です。記号 Yx と記述することで、ルービンは、「X が x であった場合、Y は必ず何らかの値を取る」と主張します。反事実のYは (事実の)Y が実際に取った値と同じ客観的事実です。この前提を受け入れない場合 (ハイゼンベルクなら受け入れないと思いますが)、潜在的な結果を使用できません。また、潜在的な結果、つまり反事実は、母集団ではなく個体レベルで定義されています。
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ポイントは、以下の部分にあります。
<反事実のYは (事実の)Y が実際に取った値と同じ客観的事実です。この前提を受け入れない場合、潜在的な結果を使用できません>
従来の基準では、論文を投稿する場合に、事実で、観察されたデータに基づいて、書きます。
観測されていない反事実に基づくデータに基づく論文は受理されません。
これは、帰納法を採用している学会の典型的な論文の採択基準です。
しかし、「潜在的な結果」とは、反事実のYと、事実のYが、同じ客観的事実と認めることになります。
ルービンモデルによる論文を受理することは、観測されていない反事実のデータに基づく論文を受理していることになります。
パールは、ルービンの「潜在的な結果」の表記を「実に大胆な表記」であると言います。
反事実も、事実と同じ客観的事実であると認めなければ、因果推論が成り立ちません。
アベノミクスの大規模金融緩和は事実です。(with)
アベノミクスの大規模金融緩和がなかった場合は反事実です。(without)
アベノミクスの大規模金融緩和の効果は、「withーwithout」、つまり、「事実ー反事実」になります。
反事実の前提を受け入れなければ、政策効果の計算ができません。
つまり、今まで、政策効果の計算ができなかった原因は、「反事実のYと、事実のYが、同じ客観的事実と認め」なかったためです。
多くの経済学者は、アベノミクスの効果を、アベノミクスまえの、経済のトレンドを延長した値と、アベノミクス実施以降の経済の値の比較で行います。しかし、この方法では、交絡因子が排除できないので、政策効果の推定ができません。伝統的なこの方法は、間違いです。
今までの処理は(交絡因子が排除できていない)間違いなので、全て、計算しなおす必要があります。
消費税増税は、内需を押さえて、経済成長を減速した可能性があります。
この場合、消費税増税の効果は、増税した場合(事実、with)と増税しなかった場合(反事実、without)の差をとればわかります。
増税しなかった場合は、反事実ですが、「反事実のYと、事実のYが、同じ客観的事実と認める」ことで、比較が可能になります。
反事実の前提を受け入れなければ、政策効果の計算ができません。
「因果推論の科学」は、啓蒙書ですが、因果のメンタルモデルがない場合には、理解することは決して簡単ではありません。
パールは、「因果推論の科学」(p.8)で、次のようにいっています。
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数式を書く時はいつも、誰がそれを見るのか明確にわかって書いている。しかし、本書のように科学者でない一般の読者に向けた本を書くときにはそうはいかない。これは私にとってまったく新しい冒険である。
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「因果推論の科学」数式以外の部分は、読者を想定して、何度も調整して書かれています。
しかし、筆者は、「因果推論の科学」を読み込むと一番わかりやすい部分は、数式で書かれた部分のように感じます。
「反事実のYと、事実のYが、同じ客観的事実と認める」には、変数「Y」が出てきます。
そして、わかりやすいのは、こうした数式が入っている部分になっています。
5)因果推論の科学の誤解
EBPM の資料は、ほとんどが、反事実、あるいは、「潜在的な結果」を無視しています。
ほとんどの資料は、間違いです。
ここでは、最初に検索にヒットした資料を紹介します。
この資料は、EBPMを次のように、整理しています。(筆者要約)
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ポイント 1:EBPM では政策介入と政策結果を明確に定義し数量化する
ポイント 2:EBPM では政策介入が政策結果に与える因果関係を推定する
ポイント 3:因果関係を推定するにあたっては、政策介入があったときとなかったときの結果の比較をする。
3 つのポイントに示したように、予算請求の資料につけるエビデンスをより系統だったものとすることが EBPM の従来の政策決定との違いである。政策を実行することで結果が伴うということをより説得力のあるエビデンスを使って示すということであり、説得材料の質を上げることがポイントになるわけなので、今までの政策決定の流れと違いはないともいえる。違いは因果のストーリーをサポートする、データの質、因果推論の質を上げるということであり、地道な取り組みだ。
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<< 引用文献
エビデンスに基づく政策形成と経済学 日本労働研究雑誌 川口大司
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2019/04/pdf/008-012.pdf
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「今までの政策決定の流れと違いはない」という発言には、反事実がありません。
反事実がなければ、因果ではなく、相関になります。
ここで。「エビデンス」といっているものは、「エビデンス」(因果のデータ)ではなく、「ファクト」(相関のデータ)です。
相関のメンタルモデルで、因果を理解することは非常に困難です。(注1)
注1:
林岳彦著「はじめての統計的因果推論」は、日本語で書かれた代表的な因果推論の入門書です。この本は、相関のメンタルモデルで、因果を理解する努力をしています。
その結果、「潜在的な結果とは、反事実のYと、事実のYが、同じ客観的事実と認めること」であるという反事実の説明が回避されています。
筆者は、パールの「潜在的な結果」の定義が、単純でわかりやすいと考えます。
「はじめての統計的因果推論」は、日本語の因果推論の本の典型であり、パールの「潜在的な結果」の定義を採用している本は、例外になっています。