ハドソン・リバー・スクールの研究(3)

4)ハドソン・リバー・スクールと自然保護

 

ハドソン・リバー・スクールと自然保護について、整理しておきます。

 

最初に、アメリカの国立公園局博物館コレクションから、「ランドスケープ アートと国立公園局の設立」から、「ハドソンリバースクール」を引用しておきます。

 

一寸長い引用ですが、大変よくまとまっています。



4-1)ランドスケープ アートと国立公園局の設立

 

ハドソンリバースクール

 

「完全にアメリカ的な絵画の分野は…風景です。民衆の支持率では他を圧倒しており、流派の威厳に達していると言えるだろう。」  ジェームズ ジャクソン ジャーブス、1864 年。

 

ハドソン リバー スクールとアメリカの保護運動は関係が深いため、ハドソン リバー スクールに関連するアーティストによる風景画は特に重要です。1820 年代以前、アメリカの芸術家は重要な歴史的出来事を描いた肖像画やドキュメンタリー作品を描いていました。風景画を試みた画家はほとんどいませんでした。

 

Thomas Cole は、1825 年頃からランドスケープというジャンルを最初に広めました。自然の驚異の景色は、すぐにコレクターに求められるようになりました。コールと彼の模範に従った芸術家たちは、ハドソンリバースクールとして知られるようになりました。彼らは、すべての人工物よりも自然を称賛し、理想化し、寓意を使ってその脆弱性と搾取に対する懸念を表明しました。彼らの風景は、自然界の威厳と精神性を再現し、その美しさへの賞賛を呼び起こすことを目指しました。ハドソン リバー スクールのアーティストの作品は、自然に対する態度の変化と、急成長するアメリカの保護倫理の出現を反映しています。

 

コールの後 1848 年の死後、彫刻家であり肖像画家でもあったアッシャー デュランドは、ハドソン リバー スクールに関連する最も著名な画家になりました。風景画に関する手紙と題された一連のエッセイで、デュランは、風景画家は自然を正確に描写し、決してそれを変更してはならないという彼の考えを述べました。

 

アーティストがキャンバスで自然を称えるようになると、壁に風景画を掛ける都市生活者は、描かれた自然の風景は保存する価値があると信じるようになりました。同時に、ナサニエル・ホーソーン、ヘンリー・デイビッド・ソロー、ラルフ・ワルド・エマーソンなどの作家は、文字を通して自然を崇拝しました。

 

運動の後期には、フレデリック チャーチやアルバート ビアシュタットなどのアーティストが、ハドソン リバー派の画家たちの理想を拡張しました。ビアシュタットは、ヨセミテのドーム、ヨセミテ渓谷、マーセド川などの大規模なキャンバスで、輝く光、輝く空、広大な西部の景色を捉えました。チャーチとビアシュタットは、アメリカ西部と世界中の劇的な自然の風景を巨大なキャンバスに描きました。  

 

アメリカの風光明媚な美しさに対する芸術的、文学的、政治的関心の合流は、最終的に最初の国立公園の創設の基礎を築き、国家的価値としての保護を確立するのに役立ちました。

 

以上です。

 

4-2)国立公園コレクションギャラリーの中の画家

 

デュランは、「風景画家は自然を正確に描写し、決してそれを変更してはならない」と言っています。コールは、理想化された自然を描いています。

 

デュランのもっとも有名な絵であるKindred Spirits(気の合う仲間)でも、風景は理想化されていますので、「自然を正確に描写し」をどこまで正確に見なすべきかには解釈の幅があります。

 

とはいえ、自然を正確に描写した絵は、保全の基準になります。現在のアメリカでは、風景画に描かれた景観を保全する活動が盛んです。

 

風景画が多く残されたハドソン川流域はその中心ですが、国立公園は、公園単位で、残された風景画の作品の情報を管理しています。

 

コレクションギャラリーには、重要な画家の名前がリストされています。

 

例えば、ヨセミテ自然公園には、Yoshida Hiroshi (吉田博)も含まれています。



吉田 博氏(1876年 - 1950年)は、日本の洋画家・版画家で、自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍しました。

 

写真1に、吉田博氏のヨセミテの谷」を示します。

 

4-3)日本の自然保護

 

ハドソン・リバー・スクールでは、風景画家とソローなどの文学者が、自然保護のムーブメントを形成しています。

 

日本の山岳の自然保護には2つの系列があります。

 

(1)山岳信仰マタギの伝統的な文化、入会権、入浜権闘争

 

(2)日本アルプスに見られるような、西洋的な自然観光開発

これには、ウィリアム・ガーランド、ウォルター・ウェストンなどが関与しています。登山家の串田孫一氏は随筆家としても知られていますが、自然保護運動に大きくかかわったとは思われません。

 

4-3-1)画家の活動

 

吉田 博氏は世界的に著名で、風景画家としては、別格と思われます。

 

日本の画家は、ハドソン・リバー・スクールの画家のように細部を写実的に書き込んでいませんので、その風景画を自然保護に使うことは困難です。

 

ハドソン・リバー・スクールの画家のように、自然保護を訴えるという意識を持って、絵を書いている日本の画家も少ないと思われます。

 

写実性の低い日本画はほぼ全滅です。

 

横山大観の絵を元に、景観保全計画を立てることは難しいと思われます。

 

東山魁夷は、昭和を代表する風景画家です。

 

東山魁夷の代表作「緑響く」のモデルとなった長野県茅野の「御射鹿池」は、観光スポットになっています。

しかし、絵の題材が、観光スポットになることと、オックスボーのように、絵によって、環境保護活動を引き起こすのとでは、画家の社会に対する関わり合いが全く違います。

 

4-3-2)公害闘争

 

1971年に、 環境庁ができますが、背景となる法律は1967年の公害対策基本法でした。

1971年には、公害と環境はほぼ、同じ意味で使われていました。

2つの言葉の使用頻度は、公害:環境=8:2くらいでした。

 

公害闘争は、足尾銅山からはじまり、カドミウム公害抗議運動などの歴史があります。

文芸活動では、「苦海浄土―わが水俣病」(1969年、石牟礼道子)が出ています。

 

しかし、あるべき自然に戻すという思想は希薄でした。

 

4ー3-3)尾瀬環境保全運動

 

尾瀬沼の環境細保護の推進者には、平野長蔵氏(1870年-1930年)、平野長英氏(1903年-1988年)、武田久吉氏(1883年 -1972年)がいます。1949年には、尾瀬のダム建設計画に反対する尾瀬保存期成同盟が結成されています。1971年には、車道建設を断念させています。

 

しかし、これらの活動は、自然保護全般ではなく、あくまで、尾瀬沼保全です。武田久吉氏は、尾瀬沼を世界に紹介することで、海外からの圧力によって保全を試みています。

 

4-3-4)まとめ

 

日本は、独自の自然保護思想を生み出してきませんでした。自然保護思想の専門家は、ルソーやソローなどの海外の自然保護思想のヒストリーの専門家になっています。

 

現在のアメリカの自然保護思想は、絵画、文芸だけでなく、自然資本の経済学、リモートセンシングクラウドサービスをつかった環境モニタリングデータベースの構築、こうしたデータをつかったシステム生態学生物多様性の評価などに発展しています。そして、自然はどうあるべきかという環境倫理については、ハドソン・リバー・スクールの思想が生きつづけていると思います。



日本では、山岳信仰マタギの視点は失われています。

こうした独自の環境保全思想を形成できなかったことが、日本の自然保護に大きな問題を引き起こしています。

富士山が意外にも、自然遺産に登録できず、文化遺産になった原因も、このあたりにあるのかも知れません。

環境保全は、戦術ばかりで、戦略が全く描けなくなっています。






引用文献

 

Hudson River School   Landscape Art and the Founding of the National Park Service    National Park Service Museum Collections   

https://www.nps.gov/museum/exhibits/landscape_art/hudson_river_school.html

 

Artists in the Gallery and  in Park Collections National Park Service Museum Collections

https://www.nps.gov/museum/exhibits/landscape_art/Americas_Treasured_Places_artists.html



吉田博 – ヨセミテの谷 (近代風景画の巨匠 吉田博展-清新と叙情より)

https://600dpi.net/yoshida-hiroshi-0001626/

 

尾瀬、自然保護の歴史【前編】ダム、道路開発から尾瀬を護る

https://www.pref.fukushima.lg.jp/w4/oze/column/column004.html



写真1 吉田博 – ヨセミテの谷