イラン・イスラエル危機(12)

1)年表の修正

 

次の文献を参考に、年表を追加修正しました。

 

日本語のウィキペディアの引用文献は、日本語の文献ばかりで、古い文献は、1960年代のものです。1960年頃、日本で、英語の文献を参照することは非常に困難でした。また、第2次世界大戦関連のアメリカの公文書も、まだ、非公開でした。つまり、信頼性の低い文献になりますが、現在でも、引用されています。

 

次の文献は、ポツダム会議の詳細な情報を含んでいます。

 

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PRESIDENT TRUMAN AND (THE CHALLENGE OF) THE POTSDAM CONFERENCE 1945 Col(GS) Uwe F. Jansohn 2013

https://apps.dtic.mil/sti/tr/pdf/ADA584192.pdf

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年表を読む場合の留意点は、以下です。

 

第1に、ヤルタ会談の特殊性です。ヤルタ協定では、南樺太と千島をソ連領にすることが決まっています。しかし、ソ連は、日本との対戦国ではありません。ソ連が、南樺太と千島を日本からとられた状態ではありませんので、これは、非常に不合理な協定です。台湾や韓国のように、日本政府は、南樺太と千島をアイヌから取り上げたので、アイヌに返還するのであればわかりますが、そうした論理ではありません。

 

ポツダム宣言の時には、ソ連は、日本の対戦国ではありませんので、降伏を要求する立場にありません。

 

第2に、対戦国としてのソ連の存在がいつできたかという問題があります。ポツダム会議で、トルーマンとその顧問たちは、東欧におけるソ連の行動をヤルタ協定違反の侵略的な拡張主義と見なしていました。トルーマンは、スターリンに、対日戦線への参戦の意図を確認しています。1945年7月18日に、トルーマンは、ソ連なしの終戦シナリオに変更しています。ポツダム宣言発表の1日前の1945年7月25日に、トルーマンは軍備開始のため原爆投下命令を承認しています。ポツダム宣言は、トルーマンソ連なしの終戦シナリオに基づいています。

 

第3に、日本政府の交渉能力は、とても低いです。1945年6月12日以降、昭和天皇の意向を受けて、日本政府は、ソ連に、和平の仲介を依頼します。1945年7月18日に、ポツダムで、スターリンは、日本の天皇がモスクワ駐在のトルーマン大使に宛てた和平への関心を示す覚書をトルーマンに提示しています。

 

ポツダム会談直前のトルーマン大統領の評価によれば、なお、400万人以上の日本兵が、日本本土、朝鮮半島満州、そして華北を守る準備を整えていると推定しています。

 

1945年6月9日に、中国大陸を視察した参謀総長梅津美治郎は、「在満洲と在中国の戦力は、アメリカ陸軍師団に換算して4個師団程度の戦力しかない」と言っています。

 

1945年6月12日に、海軍の軍事参議官長谷川清大将は「海軍は兵器も人員も底をついている」と報告しています。

 

しかし、ここには、トルーマンのような推定戦力の人員数がありません。

 

インパール作戦も含めて、日本軍には、自軍の戦力を評価するシステムが欠けているように思われます。

 

1945年6月19日に、沖縄における日本軍の組織的抵抗がほぼ終わります。これ以降は、組織的な軍事行動はないと思いますが、そのような視点で、整理した資料は見つかりませんでした。

 

第4に、歴史家のミーは「20世紀の核軍拡競争は、1945年7月24日午後7時30分、ツェツィーリエンホーフ宮殿で始まった」と述べています。つまり、日本への原爆投下は、冷戦の開始の産物であったと考えることができます。原爆をめぐるトルーマンスターリンの駆け引きにはよくわからないところがあります。トルーマンは、原爆ができたので、ソ連の参戦が不要になったとつたえてはいません。逆に、ソ連が参戦する前に、終戦にして、ソ連なしの終戦を目指すのであれば、原爆をスターリーンに秘密しにておくべきであったと思われます。トルーマンは、チャーチルに、「原爆の説明をスターリンにすべきか」相談しています。チャーチルの説明は、「原爆の説明をスターリンにすべき」でした。チャーチルの説明の論旨はわかりませんが、トルーマンは、チャーチルの説明に感心したといわれています。そして、トルーマンは、スターリンに原爆の説明をしています。

 

なお。ポツダム宣言の最後の「我々は日本政府に対し、ただちに全日本軍の無条件降伏を宣言し、その行動における誠意について適切かつ十分な保証を与えるよう求める。日本にとって代替策は、迅速かつ完全な破滅である」は、原爆を指しています。



以下、年表です。



1945年2月に、第二次世界大戦末期のウクライナのヤルタでヤルタ会談が開かれました。アメリカ、イギリス、ソ連の首脳により、ドイツの戦後処理や国際連合の設立などが話し合われ、ヤルタ協定が結ばれました。

 

1945年3月3日に、アメリカ軍は、マニラを占領します。

 

1945年3月10日に、東京大空襲がありました。以降、日本各地で、空襲が続きます。つまり、制空権はなくなりました。

 

1945年3月26日に、アメリカ軍が、慶良間列島に上陸し、地上戦が始まります。

 

1945年3月29日には、アメリカ軍統合参謀長会議が「対日攻撃戦力最終計画」を作成し、日本本土侵攻作戦全体を「ダウンフォール作戦」、九州侵攻作戦(1945年11月)を「オリンピック作戦」、関東侵攻作戦(1946年春)を「コロネット作戦」と命名した。

 

1945年4月5日に、 ソ連は、日本に対して翌年期限切れとなる日ソ中立条約を延長しないと通達します。

 

1945年5月8日に、ドイツは無条件降伏しました。

 

1945年5月16日夜に、マレー半島北西岸、ペナン島沖で、日本海軍とイギリス海軍との間で、ペナン沖海戦が起き、アンダマン・ニコバル諸島の日本軍守備隊は完全に孤立しました。

 

1945年5月25日に、- 日本軍は、南寧を放棄します。

 

1945年6月9日に、昭和天皇は、中国大陸を視察した参謀総長梅津美治郎から、「在満洲と在中国の戦力は、アメリカ陸軍師団に換算して4個師団程度の戦力しかなく、弾薬も近代戦であれば1会戦分ぐらいしかない」という報告を受け、「日本内地の部隊は在満部隊より遙かに戦力が劣るので本土決戦は不可能」と認識します。

 

1945年6月12日に、昭和天皇は、海軍の軍事参議官長谷川清大将から「海軍は兵器も人員も底をついている」「動員計画も行き当たりばったりの杜撰なもの」という報告も受けて、「本土決戦の戦勝による有利な講和」は幻影と認識します。このあと、日本政府は、講和を試みます。

 

1945年6月19日に、沖縄における日本軍の組織的抵抗がほぼ終わります。

 

1945年7月2日に、アメリカ軍が沖縄作戦の終了を宣言します。

 

1945年7月14日に、アメリカ海軍第38機動部隊(空母4隻、艦載機248機)は青函連絡船を攻撃して11隻が沈没し、北海道は孤立します。

 

1945年7月16日にアメリカ・ニューメキシコ州のアラモゴードで原爆の実験に成功しました。

 

1945年7月17日以降、英米首脳は、日本を降伏に追い込む上でソ連の助けは不要と判断しています。

 

1945年7月17日、ベルリン郊外ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿に三大国の首脳、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連スターリン書記長が集まり、ポツダム会談が始まる。会議の目的は、9週間前に無条件降伏に同意したドイツの統治方法の決定でした。

 

トルーマンとその顧問たちは、東欧におけるソ連の行動を侵略的な拡張主義と見なし、それは2月のヤルタ会談スターリンが約束した協定とは相容れないと考えていました。

 

1945年7月17日、トルーマンスターリンから直接、ソ連が依然として対日戦争に参戦する意向であることを確認しました。

 

1945年7月18日 、スターリンは戦車と部隊に東方へ迅速な進撃を命じた。

 

1945年7月18日に、ポツダムで、トルーマンは、中東および極東の当初の戦略を180度転換し、ソ連が東太平洋戦域に介入する前に戦争に勝利する計画に変更する。

 

1945年7月18日に、ポツダムで、スターリンは、日本の天皇がモスクワ駐在のトルーマン大使に宛てた和平への関心を示す覚書をトルーマンに提示した。

 

1945年7月18日に、ソ連は、時間稼ぎのため引き延ばした上で、仲介役とした終戦工作に対して、日本政府に、はぐらかした回答をした。

 

1945年7月24日午後7時30分に、ポツダムで会談後、トルーマンスターリンに「並外れた破壊力を持つ新兵器を持っている」とさりげなく告げ、原爆の秘密を暴露した。歴史家のミーは「20世紀の核軍拡競争は、1945年7月24日午後7時30分、ツェツィーリエンホーフ宮殿で始まった」と述べています。

 

1945年7月25日に、トルーマンは軍備開始のため原爆投下命令を承認しました。

 

1945年7月26日に、アメリカ、イギリス、中国の首脳によって日本の降伏条件を定めたポツダム宣言(Potsdam Declaration)が、発表されます。最後通牒は、日本が降伏しない場合、「即時かつ完全な破滅」に直面するであろうと規定しています。「ソ連はまだ日本との戦争をしていなかった」ので、宣言にかかわる立場ではありませんでした。

 

1945年8月1日にポツダム協定(ドイツの戦後処理)が調印され、翌日に発効する。

 

1945年8月6日午前8時15分、広島市原子爆弾が投下されました。

 

1945年8月8日にソ連が日本に宣戦布告し、翌8月9日早朝(長崎原爆投下の数時間前)から満州南樺太、千島列島などに侵攻を開始します。これは、ヤルタ会談での秘密協定に基づいて行われたもので、日ソ中立条約を破棄しての参戦でした。

 

1945年8月9日午前11時02分に、長崎市原子爆弾が投下されます。

 

1945年8月10日午前2時半、日本政府は御前会議(昭和天皇の参加する最高決定の会議)において「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定しました。

 

1945年8月14日正午前に、御前会議で、天皇の無条件降伏受諾の決断をふたたび仰いで最終的に決定し、「終戦詔勅」に天皇が署名します。

 

1945年8月14日に、天皇は、敗戦の詔勅を録音します。

 

1945年8月15日に、玉音放送天皇の肉声が放送されたこと)が行われます。

 

1945年8月15日に、トルーマン大統領は、日本の降伏を発表し、アメリカ軍に戦闘停止を命じます。

 

1945年8月15日、スターリンは、九州、四国、本州、北海道の日本軍をアメリカ軍に降伏させ、その他はソ連軍に降伏させると伝えてきたトルーマン大統領の電報に対する返信で、北海道北部の占領の許可を求めた。トルーマン大統領はこれを拒否します。

 

1945年8月22日、日本側1018人、ソ連側1567人の戦死者を出した対ソ連戦が日本側の降伏によって終わる。

 

1945年9月2日、東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ号において、日本代表と連合国代表との間で日本の降伏に関する文書が署名され、日本の無条件降伏が確定します。

 

1945年9月5日、歯舞、色丹の占領を終えてソ連軍が日本に対する組織的軍事行動を停止する。