1945年の世界(2)

1)レジームシフトのイメージ

 

野口悠紀雄氏は、次のようにも言っていました。

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私は、⼤学における基礎研究は、社会の実情をそのまま反映したものであるべきだとは思わない。例えば、哲学や⽂学や歴史などの研究は、いつの時代でも必要なものだ。また、整数論など数学基礎論の研究も、天⽂学の研究も必要だ。社会の⻑期的な発展は、基本的にはこうした分野の実⼒によって決まるのだろう。

 

一方、中村智道氏は、次のように言っていました。

写真表現の大量絶滅 に突入している。かつて、絵画は、写真によって大量に絶滅した表現である。絵画は滅びなかった。描写という呪縛から逃れ、その表現は多様化した。世の中は、多くの価値を認めるようになった。

 

この2つの主張は、対照的です。

 

ジームシフトが起きると「社会の実情」が変わってしまいます。

 

野口悠紀雄氏は、レジームシフトの影響を受けない分野があるといいます。

 

中村智道氏は、絵画と写真といったアートの分野もレジームシフトの影響を受けるといいます。

このレジームシフト問題は、日本社会に共通しています。

 

野口悠紀雄氏は、1940年体制が、レジームシフトを阻害する要員であるといいます。



野口悠紀雄氏は、<東大は「AIより農学部」に比重置く“40年前”の状態!新たな学問に配分できない深刻問題 >があるといいます。

 

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東大は「AIより農学部」に比重置く“40年前”の状態!新たな学問に配分できない深刻問題 2025/03/13 Diamiond 野口悠紀雄

https://diamond.jp/articles/-/360922

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野口悠紀雄氏は、次のように原因を説明しています。(筆者要約)

古い分野が合理的な理由によって残っているのではなく、伝統的な部署の発⾔⼒と影響⼒が強いので残っている。新しい学部を作ったり、古い学部を縮⼩したりする提案をしても、伝統的学部が反対すれば、つぶされてしまう。

 

⽇本の⼤学では、このようなメカニズムによって古い学部が残存している。

 

これは、ミクロ問題の原因です。

 

野口悠紀雄氏は、1940年体制というマクロ問題の原因も提示していますが、Diamondの記事では、その問題を扱っていません。

 

1940年体制が崩壊すれば、レジームシフトになります。

 

その場合には、レジームシフトの影響を受けない「いつの時代でも必要なもの」はないと思われます。

 

絵画は、写真によって大量に死亡しましたが、滅びませんでした。

 

「いつの時代でも必要なもの」は、滅びないかもしれませんが、規模が縮小します。

 

江戸時代には、能と狂言は、絶滅寸前まで、規模が縮小しました。

 

主流は歌舞伎でした。

 

その後、主流が、演劇、映画、テレビ、ネット配信に入れ替わります。

 

ジームシフトが起きると、絶滅寸前で、生き延びるものもありますが、絶滅してしまうものもあります。

 

CDとMDが出てきて、LPレコードが絶滅するように見えましたが、2025年現在では、MDは絶滅しました。CDとLPレコードの中では、ネット配信に代替性のないLPレコードの方が、CDより後まで生き残るかも知れません。

 

フィルム式のカメラに人気があるのも、デジタルで代替できないからかも知れません。

 

代替可能なものは、絶滅すると思われます。



2)1940年体制

 

1940年体制(法度体制、日本式経営)が、高度経済成長を支えたという主張が通説です。

 

この仮説は検証されていません。この仮説には、エビデンスがありません。

 

野口悠紀雄氏は、「岸・椎名が目指したのは、日本型社会主義経済の建設が、1940年体制」であると考えます。

 

野口悠紀雄氏は、次のように書いています。

 

一般には、「戦後の民主主義改革が経済の復興をもたらし、戦後に誕生した新しい企業が高度成長を実現した」としています。それに対して、40年体制史観では、「戦時期に作られた国家総動員体制が戦後経済の復興をもたらし、戦時期に成長した企業が高度成長を実現した」と考えます。

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プロローグ(『戦後経済史』全文公開:その1)2019/03/10 note 野口悠紀雄

https://note.com/yukionoguchi/n/n3c9592b1b271

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筆者は、法度体制の史観なので、戦後の民主主義は、GHQが日本を支配した1945年から1952年の間だけ、存在したと考えます。岸信介氏は、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除されます。

 

1953年以降は、野口悠紀雄氏が主張する「戦時期に作られた国家総動員体制」に復帰しています。

 

毛沢東は、1949年に、中華人民共和国を節理しています。

 

1950年6月25日から1953年7月27日まで、朝鮮戦争がありました。

 

日本経済の復興は朝鮮戦争特需に支えられています。

 

中華人民共和国は、実質的には、鎖国政策をとります。

 

1960年頃の大躍進では、多数の餓死者が出て、国は崩壊寸前になります。

 

中国が、国際社会に復帰したのは、1980年代以降です。

 

1940年体制でなくとも、競争相手がいなかったので、経済成長は可能でした。

 

筆者が、1940年体制で、高度経済成長ができたという主張に、納得しない理由は、太平洋戦争は、1940年体制で、敗戦したからです。日本の経済規模は小さかったので、勝算がありませんでした。それでも、インパール作戦のロジスティックの欠如、特攻など、データを無視した作戦が繰り返されました。1940年体制は、データに基づく、合理的な戦術をとれませんでした。高度経済成長期以降も、全総などの社会主義政策が繰り替えされています。それは、バブルの崩壊以前でも、基本的には、失敗の繰り返しです。

 

1950年から、1985年頃まで、中国が鎖国政策をとったことは交絡因子になります。

 

バブル以降、日本経済が停滞した理由は、中国が政策を変えたことにあります。

 

1967年に開通した新幹線は、故障が連発しています。

 

ゴールデン・ゲート・ブリッジ( Golden Gate Bridge)は、1937年に完成しています。橋の設計は、チャールズ・アルトン・エリス氏が、無給で週70時間働き続け、最終的に手計算書10巻を提出しています。エリス氏は、1931年11月に解雇されてしまいます。エリス氏の功績は、2007年5月になってからです。メインケーブルが2011年より約3年をかけて改修されましたが、橋は、88年経って、使い続けられています。

 

アメリカと英国では、橋には、設計者の名前が刻まれます。

 

八潮市で、下水道が崩落しましたが設計者の名前は不明です。

 

1940年体制で作られた公共施設は、維持管理のしやすさ、耐久性において、技術的な間違いをしています。

 

ゴールデン・ゲート・ブリッジの設計は、手計算書10巻で確認できます。

 

政府の政策には、設計書がついていません。

 

1940年体制で作られたモノには、施設でも政策でも、設計書がありません。

 

なので、1940年体制で、高度経済成長ができたとは考え難いのです。

 

1940年体制と高度経済成長の間には、1994年までは、相関関係がありますが、相関が因果ではありません、

 

1995年以降、1940年体制は、経済成長には寄与しなくなります。

 

中国の政策が、日本の経済成長を決めていると考える方が、わかりやすいと思います。

 

たとえば、BYDが成功すれは、ホンダと日産の業績が悪くなります。

 

経済成長するためには、BYDに勝てる技術開発ができる人材を育成する必要があります。

 

政府、経団連、労働君組合は、賃上げをすれば、経済成長するといいます。

 

価格転嫁でして、価格が上がれば、それだけ売れなくなります。

 

ホンダと日産の自動車の価格をあげれば、BYDのEVより、売れるようになるといっています。

 

筆者には、あり得ない推論であると思われます。