テクニシャンとエンジニア(2)

2)教育の問題

 

2-1)ゆとり教育

 

ゆとり教育を決めた審議会で、著名な作家が、自分の経験では、2次方程式を使ったことがない。2次方程式のような数学は、必要がないと主張しました。

 

科学の方法でみれば、ここには、多数の間違いがあります。

 

第1に、経験を元に検討することは、信頼性が低く間違いです。

 

第2に、データに基づかない専門家の意見は、信頼性が低く間違いです。

 

(以上は、エビデンスの階層を参照のこと)

 

第3に、著名な作家は、学力に関する言葉を持っていませんので、学力について考えることができません。

 

文部科学省の官僚も、学力に関する言葉を持っていません。

 

1990年代に入り、若年人口の減少が起こりました。

 

年功型雇用では、以前より学力が低くても、同じポストに就職が可能になりました。

 

日本には、卒業証書という形式はありますが、学力という変数名に対応する値がありません。

 

これは、学力という言葉がないことを意味します。

 

物理と数学をとる学生数が激減しました。

 

多くの大学では、数式を使った授業ができなくなりました。

 

これは、明らかに、学力の低下ですが、学力を表す値がない(学力という言葉がない)ので、検討と議論することができません。

 

学力という値のある言葉があれば、学力について、コミュニケーションして、議論することができます。

 

この状態を学力というメンタルモデルが共有されているといいます。

 

メンタルモデルの共有ができない場合は、バカの壁があって、コミュニケーションできない状態といえます。

 

文部科学省のHPを見ると、審議会の答申がバージョンアップして、教育はひたすら前に進んできたように書かれています。

 

そこには、間違いを訂正して、改善が行われたという記述はありません。

 

文部科学省の学力には、値がありませんので、科学の言葉ではありません。

 

文部科学省の答申は、フィクション(形而上学)であることがわかります。

 

ここには、メンタルモデルの共有がないので、コミュニケーションはありません。







<< 引用文献

経済学はどこに向かうのか 前⽥裕之

https://www.mof.go.jp/pri/research/seminar/fy2023/lm20231102.pdf

>>

 

2-2)探究の学習

 

文部科学省の最近の答申では、探究の学習を進めることになっています。

 

探究の学習が何を指すかは、英語版のウィキペディアで確認できます。

 

その内容は、文部科学省の探究の学習とは異なります。

 

これは、海外の文献を都合の良いように解釈して、引用する手法で、文系の世界ではよく見られる現象です。

 

今回は、この点は、扱いません。

 

探究の学習に関連して、「答えのない問い」という表現が出てきます。

 

これは、そのまま解釈すると、解決不可能の問題になります。

 

科学のメンタルモデルがあれば、「答えのない問い」は取り扱い不可能な事象になります。

 

それでは、先に進まないので、以下では、「答えのない問い」を「解かれていない問題」に置き換えて考えます。

 

文部科学省は、今までは、「解かれていない問題」の解き方を教育する必要がなかったが、今後は、「解かれていない問題」の解き方を教育する必要があると言っていることになります。

 

これは、文部科学省は、今まで、テクニシャン教育をしてきたが、エンジニア教育をしてこなかったと告白していると解釈できます。

 

例えば、ノーベル賞は、解かれていない問題を解いた人に与えられます。

 

テクニシャンは、ノーベル賞を取ることはありません。

 

ノーベル賞の受賞数が、科学技術のレベル評価の基準として妥当ではありません。その理由は、タイムラグが大きすぎる点にあります。

 

とはいえ、教育の目標にエンジニア育成がはいっていなかったことは、異常です。

 

2-3)野口悠紀雄氏の指摘

 

野口悠紀雄氏は、日本の技術が遅れた原因を次のように分析しています。(筆者要約)

日本が新しい技術に対応できなくなった真因

 

高度成長期においては、新しい技術を日本で開発しなくとも、欧米諸国で開発された技術を日本に導入すればよかった。そのために、格別に高度の技術や知識が必要とされることはなかった。

 

オンザジョブ・トレーニングで対応していくことが十分可能であった。このため、日本型の企業体制であっても、新しい技術に対応していくことが可能だったのだ。

<< 引用文献

自動車技術者の年収「日米で最大6倍差」ある真因 2024/09/29 東洋経済 野口悠紀雄

https://toyokeizai.net/articles/-/830282

>>

 

「格別に高度の技術や知識が必要」とされないのは、テクニシャンです。

 

「高度の技術や知識」がなければ、エンジニアになれません。

 

エンジニアの基本は、問題解決に利用可能なツールは何でも使うことです。

 

このツールは、「高度の技術や知識」になります。

 

「高度の技術や知識」を何でも使えなければ、エンジニアにはなれません。

 

「高度の技術や知識」が、大学のカリキュラムにふくまれていない場合でも、必要条件はかわりません。

 

「高度成長期においては、新しい技術を日本で開発しなくとも、欧米諸国で開発された技術を日本に導入すればよかった」という分析は、高度成長期は、日本人の努力によって達成できたという歴史観につながります。

 

しかし、筆者は、「高度成長期」は、朝鮮戦争という幸運、中国が鎖国政策をとったという幸運によるとかんがえます。

 

その後の「安定経済成長期」は、年功型雇用と人口ボーナスと国債の積み増しで、問題を先送りした低賃金によって実現されていたと考えます。

 

さて、野口悠紀雄氏は、日本に、高度技術者がいない理由を次のように分析しています。

 

高度技術者が日本にいない2つの原因

 

第1は、日本の大学では、AIや情報処理技術は、名目的には教育・研究分野になってはいるが、人員も予算も不十分だ。日本の工学部は、いまになっても、ものづくり中心の製造業を支える人材を育成し続けているのである。その反面で、AIや情報関連の高度エンジニアを育成していない。

 

第2は、企業側の問題だ。日本の自動車メーカーも自動運転技術の開発・研究を行っているのだが、そのための投資額は、アメリカ先端的IT企業に比べれば、遥かに少ない。このため、人材が養成できていない。

 

この分析は、経済学の言葉(予算額と投資額)を中心になされています。

 

ここには、技術の言葉がありません。

 

エンジニア育成(教育)がおこなわれなかったという事実が無視されています。

 

エンジニア育成(教育)がおこなわれなくても、自発的にエンジニアになる人はいます。

 

しかし、年功型雇用の日本社会では、エンジニアの居場所はないと推定できます。

 

社会が変わる(デジタル社会へのレジームシフトがおこる)ためには、変化がおこることは、必然であって、それを受け入れることでより豊かになれるというメンタルモデルの共有が必須条件です。

 

「予算額と投資額」では、社会を変えることはできません。

 

野口悠紀雄氏は、「少数与党」では、野党の要求を飲まざるを得ないので、「バラマキ政策連発」になると推定しています。

 

筆者は、その推論は妥当であると考えます。

 

しかし、過去30年の自民党政権でも、「バラマキ政策連発」は続いていたので、大きな変化とは思えません。

 

<< 引用文献

石破自公「少数与党」経済の悲惨な末路…!バラマキ政策連発の放漫財政でインフレが悪化、実質賃金の上昇は不可能に 2024/11/02 現代ビジネス 

https://gendai.media/articles/-/140425

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日本は、与党も野党も、テクニシャンです。

 

エンジニアは、「評価測定項目」を決めて、その項目によって政策評価をします。

 

実質賃金の上昇と赤字国債を「評価測定項目」にふくまれば、選択可能な政策は、きまります。

 

政治家がテクニシャンの場合には、科学的な政策は行われません。