注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。
(32)メンタルモデル
1)「因果推論の科学」のメンタルモデル
「因果推論の科学」では、メンタルモデルの説明は、「マンモス狩りのメンタルモデル」(p.48、第1章)と「ルイスの可能世界」(p.409、第8章)にでてきます。
後者を引用します。
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私たちは、ある可能世界が物理的に存在するものなのか、それとも形而上学的なものにすぎないのか、といったことを特に厳密に考える必要はないのだ。「AはBの原因である」という記述の意味を説明するとき、私たちに必要なのは、人間が頭の中で別の世界をいくつも思い描き、そのうちどれが現実に世界に「より近い」かを判断できると仮定することだけである。さらに、重要なのは、「より近い」と言われて思い浮かべる世界は、ほぼ誰でも同じだということだ。もし、誰かにとっての「現実とよく似た世界」が、別の誰かにとっては「現実からかけ離れた世界」だったとしたら、その二人の間では、反事実についてもコミュニケ―ションは成り立たないだろう。ルイスは(中略)人間が反事実的な可能性世界として思い浮かべるものが驚くほど一様であることに皆の注意を向けようとしたのだ。(中略)(この)一貫性は、私たち全員が一つの同じ世界を経験し、因果構造についてのメンタルモデルを共有しているという事実から来ている。
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「因果推論の科学」では、「メンタルモデル」は、索引検索語にはなっていません。
「メンタルモデル」は、専門用語扱いになっていませんが、疑問もあります。
パール先生は、AIの大家です。AIの世界では、メンタルモデルは常識になっている可能性がありますが、日本の普通の読者の常識ではないと思われます。
英語版のウィキペディアの説明の一部を引用します。
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メンタルモデル (Mental model)
人間の推論に関する 1 つの見解は、それがメンタル モデルに依存するというものです。この見解では、メンタル モデルは知覚、想像力、または談話の理解から構築できます (Johnson-Laird、1983)。このようなメンタル モデルは、その構造が、それが表す状況の構造に類似しているという点で、建築家のモデルや物理学者の図に似ています。これは、推論の形式規則理論で使用される論理形式の構造とは異なります。この点で、メンタル モデルは、哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが 1922 年に説明した言語の絵画理論における絵画に少し似ています。フィリップ ジョンソン レアードとルース M.J. バーンは、推論は論理形式ではなくメンタル モデルに依存するという仮定に基づく推論のメンタル モデル理論を開発しました (Johnson-Laird および Byrne、1991)。
メンタル モデルによる推論
人は、結論がすべての可能性に当てはまる場合、その結論は有効であると推論します。メンタル モデルによる推論の手順では、反例を利用して無効な推論を反駁します。つまり、結論が前提のすべてのモデルに当てはまることを保証することで、妥当性を確立します。
メンタルモデルは、組織学習を理解するための基本的な方法です。一般的な科学用語では、メンタルモデルは「思考と行動の深く保持されたイメージ」と説明されています。メンタルモデルは世界を理解する上で非常に基本的なものであるため、人々はほとんど意識していません。
批判
人間の推論がメンタル モデルに基づいているのか、それとも正式な推論ルール (O'Brien、2009 など)、ドメイン固有の推論ルール (Cheng & Holyoak、2008、Cosmides、2005 など)、あるいは確率 (Oaksford と Chater、2007 など) に基づいているのかについては、科学的な議論が続いています。さまざまな理論の実証的な比較が数多く行われてきました (Oberauer、2006 など)。
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ポイントは、「組織学習を理解するための基本的な方法」と「反例を利用した無効な推論の反駁」(消去法)にあると考えます。
2)メンタルモデルと因果構造
パール先生は、「一貫性は、私たち全員が一つの同じ世界を経験し、因果構造についてのメンタルモデルを共有しているという事実から来ている」といいます。
逆にいえば、「因果構造についてのメンタルモデルを共有していない」場合には、「反事実についてのコミュニケ―ション」ができません。反事実だけでなく、基本的なコミュニケーションが成り立たなくなります。
2003年に、養老孟司氏は、「バカの壁」を書き、話してもわかりあえないことがあるといいました。
養老孟司氏は、「バカの壁」を取り除く方法について、何も語りませんでした。
メンタルモデルが、「組織学習を理解するための基本的な方法」であるとは、「バカの壁」を取り除く方法をさしています。
パール先生は、「一貫性は、私たち全員が一つの同じ世界を経験」することで、成り立つといいます。
これは、義務教育であれば、同じカリキュラムで学習することを意味します。
高等教育や、海外の義務教育であれば、指定されたカリキュラムはありませんが、共通知識になる必読の教科書や文献があります。
メンタルモデルは、アメリカの標準的な考え方なので、パール先生は、メンタルモデルに疑問をいだいていません。
しかし、日本では、メンタルモデルではなく、一芸モデルが採用されることがあります。
「一芸の奥義に到達すれば多芸に通じる」
メンタルモデルは、「反例を利用した無効な推論の反駁」(消去法)をします。
「一芸の奥義に到達すれば多芸に通じる」が正しければ、お習字が上部になれば、AIプログラムが組めることになります。
もちろん、そのような事実は観測されていません。
したがって、一芸モデルは、消去されます。
つまり、メンタルモデルを採用する場合、専門家とは有効なメンタルモデルを構築できている人と言えます。
有効なメンタルモデルを持っている人は、有効が因果推論が出来る人になります。
パール先生は言います。
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わたしは、この一例について(がんの専門家である、筆者注)フリードマンと議論するつもりはない。私は、がんの専門家ではないし、自分の因果ダイアグラムが現実を正確に反映しているかどうかについては、必ず専門家の意見を聞き、それに従うようにしている。実のところ、因果ダイアグラムの良いところは、それを作った人間が何を前提に思考をしているかが可視化されることではないかと思う。そうなっていれば、専門家や政策立案者がそれを見て自分の意見を述べやすくなる。
>(p.350)
専門家の能力があれば、メンタルモデルで作った因果ダイアグラムを評価できます。
教育の効果は、メンタルモデルで計測できることになります。
ジョブ型雇用で、ジョブの専門家を雇用する理由は、メンタルモデルのできていない人は、まともな因果推論ができないので使えないと説明できます。
メンタルモデルが異なった人とは、コミュニケーションが成り立たなくなります。
つまり、メンタルモデルが共有できないと、教育が成り立ちません。
教育とは、教育前のメンタルモデルを、教育後のメンタルモデルにハージョンアップする行為になります。
教育前のメンタルモデルが共有できなければ、教育がスタートしません。
アルゴリズムを教えるとき、プログラムの言語のメンタルモデルが出来ていれば、教育は可能です。プログラム言語の文法を多少わすれていても、プログラム言語とはこんなもので、何が出来て、何が出来ないかを理解していれば、アルゴリズムの教育は可能です。
しかし、プログラム言語のイメージがない学生にアルゴリズムを教えることは不可能です。
これは、カリキュラムの階層性の根拠になります。
文部科学省は、カリキュラムの階層性を無視した履修主義を通しています。
メンタルモデルが理解できていれば、習得主義以外の教育(履修主義)では、コミュニケーションができないことがわかります。
文部科学省は、学習におけるメンタルモデルの共有の効果を理解していません。
曽野綾子氏は、ゆとり教育の導入を決定した中曽根政権における臨時教育審議会(臨教審)のメンバーを務めました。曽野綾子氏は、中学教科書において必修とされていた二次方程式の解の公式を、作家である自分が「二次方程式を解かなくても生きてこられた」「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」と発言しています。
曽野綾子氏は、2013年第二次安倍内閣における教育再生実行会議の第一次有識者メンバーに選任されていました。
曽野綾子氏は、学習におけるメンタルモデルの共有の効果を理解していなかったと思われます。
曽野綾子氏は、教育の専門家のメンタルモデルの持ち主ではなかったと思われます。
政府は、専門家のメンタルモデルの価値を無視して、科学的に否定されている一芸モデルを採用しているように見えます。
パール先生は、専門家のメンタルモデルが、科学の基本にあり、コミュニケーションの基本であると考えています。
文部科学省は、教育の専門家のメンタルモデルの持ち主ではありませんので、ゆとり教育の是非のような教育カリキュラムに関するコミュニケーションは成り立ちません。
3)ルービン流とパール流
一般に、因果推論の科学は、ルービン流とパール流があると言われます。
しかし、日本では、パール流の因果推論の解説書は、パール先生の本を除けば絶無に近いです。
パール先生の弟子の黒木学氏も、あまりのルービン流の普及の大きさに負けてしまい、パール流は、ルービン流とは基本的には同じと言っています。
筆者は、日本で、ルービン流が流行する原因は、メンタルモデルの欠如にあると考えます。
物理学の法則を、ポパーは、今まで使われてきた法則でも、今後、反例が一つでも見つかれば、法則は否定される。検証回数が多いことは、法則が確かであることを保証しないといいます。
パール先生は、因果関係の主観性をベイズ統計になぞらえています。(p.145)
物理学も因果モデルですから、「ポパーが言うように法則はいつ転んでも不思議ではない」と考えるよりも、「物理法則は、主観で正しいと判断している」と考えるほうがすっきりします。
パール先生が言うように、「人間の脳は、原因と結果を扱うためにこれまで作られた道具の中では最高のものであると仮定する」方が、すっきりします。
ポパーが言うように、論理的には、「検証回数が多いことは、法則が確かであることを保証しません」。
しかし、進化の過程では、人間の脳は、科学実験のような十分なデータは得られなかったと思われます。その不十分なデータのなかで、最適な推論をした人類だけが生き残ったと思われます。そのように考えれば、検証回数が多いと法則が確かであると感じる主観には価値があると思われます。
パール先生は、専門家のメンタルモデルのようなまともなメンタルモデルを扱っています。
しかし、世の中には、怪しいメンタルモデルもあります。
例えば、「政治家は、補助金をばら撒くことが政治である」というメンタルモデルを持っているように見えます。このメンタルモデルには、政策の効率性といった要素は含まれていません。このメンタルモデルは、与野党に共通しています。
政治家が高給料亭の会食で話している内容は、このようなメンタルモデルと思われます。
ふるさと納税は、経済学のメンタルモデルではありえない(経済効果のない、理解不可能な)政策です。
しかし、「補助金をばら撒くことが政治である」というメンタルモデルであれば、立派な政策になります。このメンタルモデルには、経済効果は入っていないのです。
有権者の中にも、投票をして補助金を得ることが政治であると考えている人がいます。
筆者は、政治の目的は、有権者を幸福にすること、憲法でいえば、文化的な最低限度の生活ができるように、効率性(経済成長)と平等性(所得再配分)を担保することであると思います。しかし、このメンタルモデルは、政治家には、通用しないようです。
官僚は、官庁内と天下り先のポストをふやし、予算を増額することが仕事であるというメンタルモデルを持っているように見えます。
これらのメンタルモデルは、経済学などの科学のメンタルモデルではありません。
メンタルモデルが異なるとコミュニケーションが不可能になります。
メンタルモデルを共有するためには、教育が必要です。
回帰分析では、交絡条件があり、因果推論になりません。
もっとも簡単に、因果推論のする方法を探索するという視点であれば、ルービン流になります。
しかし、そこには、何を目的にして、因果推論をするかという視点が欠如しています。
「何を目的にして、因果推論をするかという視点」を、パール先生は、メンタルモデルに基づく因果ダイアグラムと答えるべき「問い」に分解しています。
この場合のメンタルモデルの実体は判然しません。しかし、メンタルモデルから、因果ダイアグラムが作られるのですから、メンタルモデルには、因果関係の情報が含まれているはずです。筆者は、日常的に因果推論を試みることで、メンタルモデルが形成されると考えます。
逆に言えば、日常的に前例主義(固執の方法)、権威の方法(上司の指示を無条件に守る)を、形而上学(哲学を使う)などの科学の方法を使っていない場合には、科学的なメンタルモデルは形成されないと考えます。
一芸モデルは、権威の方法で、まともでない(科学的に間違った)メンタルモデルです。
科学の方法を使わなければ、科学的に間違ったメンタルモデルが蔓延します。
科学的なまともなメンタルモデルと、まともでない(科学的に間違った)メンタルモデルの2種類のメンタルモデルを使うと混乱します。
少なくとも、パール先生は、「因果推論の科学」で、まともでない(科学的に間違った)メンタルモデルは想像していないように見えます。
まともでない(科学的に間違った)メンタルモデルは日本固有の現象なのでしょう。
混乱を避けるためには、以下では、まともでない(科学的に間違った)メンタルモデルを法度制度のミームと読んだ方が良さそうです。
スノー氏は、「2つの文化と科学革命」で、エンジニア教育をした国の経済が発展すると主張しました。
エマニュエル・トッド氏は、経済成長は、技術革新によって起こるので、エンジニアの総数が、経済成長を牽引すると主張しました。トッド氏は、当面は、中国の優位はゆるがないと考えています。
スノー氏もトッド氏も、シュンペーター流のイノベーションと経済成長のメンタルモデルをもっています。
文部科学省、財務省、経済産業省、日銀は、このようなメンタルモデルをもっていません。
これは、イノベーションの議論ができないことを意味します。
まともなメンタルモデルの共有が出来なれば、因果推論は、ルービン流一択になります。
しかし、これは、非常にまずい状態であると思われます。