コモンセンス・認知科学・帰納法~帰納法と演繹法をめぐる考察(3)

コモンセンス・認知科学帰納法

1.コモンセンスと帰納法の危うさ

帰納法は、演繹法に比べると、客観的であると思われ、それが、科学において、帰納法が多用される理由にもなっていますが、認知科学的に考えると、そのドグマには、信頼性はあまりありません。

また、民主主義は、コモンセンスを土台としています。簡単に言えば、「常識的な共通認識があるので、話せばわかる。」という原理です。もうすぐ、任期が終わるアメリカのトランプ大統領がこのコモンセンスに疑問を投げつけました。トランプ大統領の発する情報にはフェイクが多いというわけです。

しかし、真実と事実を簡単に区別できる(つまり、コモンセンスが有効である)という前提には、疑問符がついています。

政府は、緊急事態宣言で、20時以降の飲食店の営業自粛を要請していますが、西村経済再生担当大臣は1月12日に、「特に夜8時以降の外出自粛をお願いしているが、昼間もランチは皆と食べてもリスク低いというわけではありませんので、昼間もできる限り不要不急の外出自粛をお願いしたい」といっています。つまり、「20時以降の飲食店の営業自粛を要請」はコモンセンスとして、意思疎通ができていないというわけです。

コモンセンスが有効でなくなると、意思疎通ができなくなるので、民主主義が成り立たなくなります。伝統的な政治哲学は、コモンセンスを根拠に理論構築をしていますので、コモンセンスを疑う認知科学とは相性がよくありません。

コロナウィルス対策も対策を有効にするためには、情報伝達や意思疎通の方法を工夫しないとうまくいきません。この点では、現在の政府の対応は素人芝居を見ているような感じすら受けます。

2.認知科学帰納法の課題

伝統的な哲学は、プラトン以来の伝統なのかもしれませんが、2分法に、こだわりすぎる感じがします。典型的な課題は、普遍論争ですが、計算論的思考では、全ての課題は、検証可能なアルゴリズムに落とし込んで、コーディングできた時点で、初めて検討可能な課題と言えると考えます。以下では、2分法ではなく、最近のIT化の進展が、認知にどのような変化をもたらしているかを考えてみます。つまり、コーディングするための頭の体操といった趣です。

いま、AさんとBさんを想定します。

お母さん

いま、Aさんが、「お母さん」といい、Bさんが「お母さん」といった場合には、ふつうは、「お母さん」は、それぞれ、Aさんの「お母さん」とBさんの「お母さん」の別人を指します。AさんとBさんのお母さんの認識は、それぞれのお母さんに会うことで形成されます。この認識が形成される過程は、過去数万年の間、ほとんど変化していません。

総理大臣

いま、Aさんが、「総理大臣」といい、Bさんが「総理大臣」といった場合には、現役の総理大臣である同じ人物を指すと思われます。しかし、AさんもBさんも、総理大臣にあったことがないのが普通です。つまり、総理大臣のイメージは、テレビの画像や音声、あるいは、新聞などの印刷された写真や文字から、頭の中で再構成されたものです。テレビがこのイメージの再構成の主役になったのは、1960年9月26日の米国の大統領候補者同士のテレビ討論からと言われています。

モナリザ

モナリザは絵画ですので、人物のメタ情報になります。モナリザの絵画の実体は存在しますが、見たことのある人は多くありません。仮に、見たことがあっても、実体を見た時間よりも、写真や映像を見た時間の方が長く、イメージは、写真や映像でできているはずです。Aさんが、「モナリザ」といい、Bさんが「モナリザ」といった場合には、それまで、見てきた写真が違いますから、異なったイメージに対して、同じ名前を付けていることになります。

鬼滅の刃の炭治郎

アニメの主人公です。モナリザと似ていますが、モナリザでは実在のモデルが生きていたと推定されていますが、一方のアニメの主人公は、実在しません。また、メタ情報のモナリザは1枚の絵画だけですが、アニメの場合には、特定の画像に限定されるのではなく、複数の静止画や動画からイメージが構成されます。Aさんが、「炭治郎」といい、Bさんが「炭治郎」といった場合には、二人のアニメファンの程度で、大きく認知が異なります。例えば、Bさんが、アニメに詳しくなければ、アニメのキャラクターの一つといった認識かもしれません。

サツマイモと焼き芋

サツマイモはブログで焼き芋にしています。読者は、写真を通じて料理の過程を見るだけですが、筆者の目の前には、実在のサツマイモがあります。この場合、サツマイモという言葉は、毎回調理するサツマイモを指します。調理して、食べてしまうと、そのサツマイモの個体はなくなりますので、毎回、サツマイモという言葉は、別の個体を指すために使われます。料理人にとっての課題は、サツマイモという言葉が、毎回異なった個体を指すこと自体にあるのではなく、同じ言葉でくくられているサツマイモなのに、うまく調理できる個体と、うまく調理できない個体が混在している点にあります。料理の再現性がないのです。

コロナウィルス

コロナウィルスの言葉に対する認識は、AさんとBさんで大きく異なることが多いと推定されます。例えば、Aさんは知り合いに感染者がいて、Bさんには、知り合いに感染者がいなければ差は大きいです。コロナウィルスを電子顕微鏡の写真で見ることができますが、一般の人は、電子顕微鏡の写真を具体的なイメージに転換することは困難です。おそらく、多くの人がコロナウィルスで認識しているイメージは、鬼滅の刃の鬼と大差がないのではないでしょうか。同様に、「感染拡大」、「医療崩壊」といった言葉も、使う人によって、認知されるイメージに大きな差があるはずです。コロナウィスルのような場合には、「コモンセンスがあるので、言えばわかる」として主張しても通じない訳です。

まとめ

昔は、音楽は生で聞くもので、電気的に再生された音楽は、まれであるか、音の悪いものでした。現在では、クラッシックでもなければ、生演奏のPAを使います。結局、本当の生演奏や、生で人に接することは、少なくなりました。穂積以貫(ほづみいかん)の「虚実皮膜(きょじつひにく)」の論ではありませんが、リアルや真実は定義を失っています。つまり、トランプ大統領流のフェイクが通る理由には、フェイクと事実の区別が、難しくなっているという現実があります。

帰納法は、「事実が何かは明白である」という前提に立っていますが、決して明白ではないのです。AさんのコロナウィルスとBさんのコロナウィスルの認知イメージにどの程度の共通点があるか疑わしいと思われます。コロナウィルスの危機管理は、認知のメカニズムで見れば、非常に、難しい問題を含んでいます。意思疎通は容易ではないのです。

 

  • 普遍論争

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89