0-6)文系と理系
リベラルアーツを論ずるにあたって、日本にしかない文系と理系の区分は無視できません。
日本語のウィキペディアの「リベラル・アーツ」には次のように書かれています。
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現代英語としてリベラル・アーツ(liberal arts)は「一般教養科目」や「学芸、文芸」や「人文科学」を指す。
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一方、英語のウィキペディアのLiberal arts education(リベラルアーツ教育)は、次です。
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「リベラルアーツ」はここにリダイレクトされます。その他の用法については、「リベラルアーツ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
==リダイレクト==
リベラルアーツ (曖昧さ回避)
リベラルアーツは西洋の高等教育における学術プログラムであり、伝統的に自然科学、社会科学、芸術、人文科学をカバーしています
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人文科学と混同しないでください。
リベラルアーツ教育(ラテン語の リベラリス「自由」とアルス「芸術または原則に基づいた実践」に由来)は、西洋の高等教育における伝統的な学問コースです。 リベラルアーツでは、アーツという用語を、特に美術というよりも、学習されたスキルという意味で捉えています。リベラルアーツ教育とは、リベラルアーツ学位コースでの学習、またはより一般的には大学教育を指します。このような学習コースは、主に職業、専門、または技術に関するコースや、宗教に基づいたコースとは対照的です。
教育カリキュラムにおけるリベラルアーツという用語は、西洋の古典古代にまで遡りますが、その意味は大幅に変化し、主に拡張されました。古代および中世の意味での 7 つの主題は、修辞学、文法、論理学のトリヴィウムと、天文学、算術、幾何学、音楽のクワドリヴィウムに分けられるようになりました。この用語の現代的な意味は、通常、自然科学、形式科学、社会科学、芸術、人文科学のすべてをカバーします。
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つまり、英語の「リベラルアーツ」と日本語の文系の「リベラルアーツ」は別のものです。
日本でも、国際基督教大学はリベラル・アーツについて、米国カレッジ・大学協会(AAC&U)による以下の定義をつかっていますので、「西洋の高等教育における学術プログラムであり、伝統的に自然科学、社会科学、芸術、人文科学をカバー」しています。
つまり、文系の専門家は、「リベラルアーツ」から、自然科学を排除したがっていますが、国際基督教大学のように、英語の「リベラルアーツ」が使われている場合もあるので、混乱しています。
「リベラルアーツが有害である証明」の「リベラルアーツ」は、「一般教養科目」や「学芸、文芸」や「人文科学」を指す文系の「リベラルアーツ」です。
簡単に言えば、数学、コンピュータサイエンス、データサイエンスなどの自然科学を含まない「リベラルアーツ」です。
スノーは、1959年に、「2つの文化と科学革命」で、人文科学は、経済成長を阻害すると批判しました。
1959年には、コンピュータは、普及しておらず、計算科学もデータサイエンスもありませんでした。
スノーが、「2つの文化」と表現した理由は、人文科学と自然科学の間に重複する部分がほとんどなかったからです。
2024年の状況は、1959年とは全く異なります。
生成AIにみるように、人文科学と自然科学の間は重複しまくっています。
この重複する部分は、主に、データサイエンスが働いています。
スノーは、1959年に、「2つの文化と科学革命」で、人文科学は、経済成長を阻害すると批判しました。
これを日本に置き換えると、文系(リベラルアーツ)は、経済成長を阻害することになります。
教育カリキュラムが、高等学校から、文系(リベラルアーツ専門)と理系に分離されている国は、世界でも日本だけです。
英語の「伝統的に自然科学、社会科学、芸術、人文科学をカバーする西洋の高等教育における学術プログラムであるリベラルアーツ」には、文系は存在しません。
リベラルアーツの推論は、全て科学的な推論になります。人文科学独自の科学的に間違った推論は否定されています。
以下では、リベラルアーツを、日本独自の自然科学(特に数学)を含まない教育カリキュラムとして扱います。
リベラルアーツが役に立つという主張は、文系の教育カリキュラムは、残す価値があるという主張になります。
リベラルアーツが役に立つという主張は、リベラルアーツの判断は、科学の判断に優るという主張になります。
しかし、「リベラルアーツの判断は、科学の判断に優るという主張」は、リベラルアーツの方法論で主張されています。
この主張には、エビデンス(リアルワールドの測定値)に基づく、検証がなされていません。
「リベラルアーツの判断は、科学の判断に優るという主張」は、形而上学です。
リベラルアーツの方法論は、記憶と科学的に否定された帰納法です。
科学では、帰納法は、推論の方法としては認められていますが、あまりに、非効率なので、推奨はされません。
科学(データサイエンス)では、帰納法は、検証の方法としては、否定されています。サンプリングバイアス等のバイアスが大きすぎて使えないのです。
政府は、生成AIなどのIT技術の不正利用を、リベラルアーツの方法論で防止できると考えています。
これは、形而上学であり、リアルワールドからみれば、妄想にすぎません。
AIは間違いをおかします。しかし、人間も間違いをおかします。
問題は、AIが間違いをおかすことではなく、どちらが、間違いが少ないかです。
その検証は、データなしには、行なえません。
AIは、リベラルアーツの方法論である記憶と帰納法で、人間を凌駕しています。
データ量とアルゴリズムの処理能力からみれば、リベラルアーツは、AIに勝てません。
これは、自動翻訳を例に考えればわかります。
自動翻訳は誤訳をします。
しかし、学生を100人あつめて、学生の翻訳と100台の自動翻訳ソフトとコンペした場合の結果はどうなるでしょうか。
評価は、誤訳の確率と処理速度の双方で行う必要があります。
誤訳の確率については、自動翻訳ソフトに勝てる学生が10人くらいいるかも知れません。
しかし、処理速度で、自動翻訳ソフトに勝てる学生がいるとは思えません。
特定の誤訳例を取り上げて、自動翻訳ソフトは、人間に劣るという主張がなされています。特定の誤訳例を取り上げる方法は、サンプリングにバイアスを与えて、間違った結果に誘導するハッキング手法のひとつで、統計学では、科学的には、禁止されています。
生成AIを考えてみます。
ユーザーは、生成AIに、新しい仮説を生み出すことを期待します。
新薬の開発の場合、今までなかった素材の組合せを越えて、新しい薬になりそうば素材の組合せの推論を期待しています。帰納法を期待している訳ではありません。
吉村洋文氏は、大阪府知事です。総理大臣ではありません。
生成AIが、吉村洋文氏が、総理大臣であると返事をすれば、帰納法が正しいと考えている人文科学の推論をする人は、生成AIは間違いをすると批判します。
しかし、自然科学では、推論と検証は、独立しています。
吉村洋文氏が、総理大臣であるという返事は、将来、吉村洋文氏が、総理大臣になる可能性があるという推論かもしれません。
少なくとも、新薬の開発で、生成AIをつかうユーザーは、既に、薬になっている素材の組合せではなく、新しい可能性のある素材の組合せの推論を期待して、生成AIを使っています。
吉村洋文氏が、総理大臣ではないという帰納法の推論をする生成AIでは、使いものにならないのです。
文系の形而上学が、自然科学より優先することはあり得ません。
再度、英語のウィキペディアのLiberal arts education(リベラルアーツ教育)から引用します。
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現代におけるリベラルアーツという用語の使用は、自然科学、社会科学、芸術、人文科学の 4 つの分野で構成されています。リベラルアーツという用語に関連付けられている学問分野には次のようなものがあります。
ライフサイエンス(生物学、神経科学)
物理科学(物理学、天文学、自然地理学、化学、地球科学)
形式科学(論理、数学、統計)
人文科学(哲学、歴史、英文学、芸術)
社会科学(経済学、政治学、人文地理学、言語学、人類学、心理学、社会学)
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英語のリベラルアーツは、数学と統計を含みますので、データサイエンスは、英語のリベラルアーツの一部です。
文系のリベラルアーツは、世界で、日本だけにしかありません。
文系と理系という区分は、数学や論理学(科学的な推論)を否定しています。
数学を無視した推論は、科学的に間違った推論になります。
文系という学問区分は、日本だけにしか存在しません。