注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。
(35)因果推論の科学が始まるところ
1)従来の科学の終着駅
テキサス州のなフォート ワースは、「西部が始まる場所」と呼ばれています。ここから、西部劇のフロンティアが始まった場所でした。
「因果推論の科学」も、始まる場所があります。
それは、科学の手法が一通り消化できた場所(従来の科学の終着駅)です。
「因果推論の科学」の始まる所がフォートコリンズであるとすれば、現在の日本の科学は、筆者には、まだ、ニューヨークあたりにいるように感じられます。
因果ダイアグラムができる前提は、メンタルモデルが出来ていることになります。
これは、当然の前提なので、パール先生は、この件に関しては多くを語りません。
しかし、よく読むとヒントがあります。
「ある環境で行なわれた研究の結果を、それとは異なる環境での研究成果に置き換える過程は、科学の基礎と言えるものだ。研究室での実験結果を一般化して、現実世界に応用することができなければ、科学の発展はその歩みを止めてしまうだろう。試験管の中だけのものから、動物へ、そして人間へと適用できるものに変えなくてはならないのだ。そのためには、有効な一般化と意味のない一般化を区別する基準が不可欠になる。だが最近まで科学者は、そうした基準を分野ごとに個別に作り上げる必要があった。科学全般に適用できる一般的なトランスポータビリティをあつかう体系的な方法がなかったからだ。」(p.534)
このあとで、パール先生は、因果推論の科学で、科学全般に適用できる一般的なトランスポータビリティをあつかう体系的な方法ができたという説明をします。
引用した部分は、因果推論の科学ができる前の科学の到達した位置(従来の科学の終着駅
)の説明です。
つまり、分野ごとに個別に作り上げられたトランスポータビリティの基準があるのが当たり前になっています。
しかし、トランスポータビリティは、前例主義に対立する概念です。例えば、文部科学省が、探究の学習を採用する場合に、トランスポータビリティが確保されていれば、申し分ないのですが、日本の科学のレベルがそこまで高いとは思えません。
2)大きな問い
パール先生は、AI研究者は、自由意思の問題に取り組む必要があるといいます。(p.551)
「自由意思の問題に関しては、哲学が、古代移行まっく進歩していなにもかかわらず、自由意思を幻想だとして無視することもできない」ので、哲学者のサールは、自由意思の問題を「哲学におけるスキャンダル」と呼びました。(p.549)
自由意思の問題も、トランスポータビリティの基準の問題も、大きな問いで、帰納法では、まったく歯が立ちません。
大きな問いには、完全な答えが見つかることは少ないと思います。
しかし、大きな問いを検討することで、その時までの科学で、解決可能な部分と、今後、研究開発が必要な部分を明確にすることができます。
大きな問いをグループで共有することで、メンタルモデルを共有することができます。
3)事例
具体例を示します。
2013年にアベノミクスが始まりました。
アベノミクスの大きな問いは、「どうして、日本経済の成長を取り戻すか」です。
この大きな問いに対して、関連する専門家は、アイデアを提出して、議論を繰り返せば、相互に理解できる部分と対立する部分が整理できます。
対立する部分については、データを元に整理することができます。
因果推論の科学を使うのであれば、因果モデルを作成して前向き研究でデータを取得する準備をしてから政策に着手すれば、政策に間違いがあったかが、科学的に判定できます。
アベノミクスはこうした科学的な手順を無視していますので、事前に効果が期待できないことが事前にわかっています。
科学者は、研究に公的補助を受けています。大学であれば、運営交付金などの税金が投入されています。
科学者は、その専門知識を国民に還元する倫理的な責任があります。
「因果推論の科学」と読み解くと、このように大きな問いを通じて、メンタルモデルの共有をしたり、研究成果を国民に還元することは、科学研究の基本的なプロセスに含まれていると考えられます。
大きな問いの欠如は、経済政策だけではありません。
少子化対策、年金問題、医療費問題など、大きな問いなる問題は多くあります。
こうした大きな問題の解決に、専門家の知識を総動員すべきです。
大きな問いが設定されれば、まったく役に立たない帰納法による研究は淘汰されるはずです。
科学は、健全な批判精神によって、間違いを修正することで、前に進みます。
大きな問いのない科学には、欠陥があります。
「因果推論の科学」が始まるところに到達するまでには、長い道のりが残っています。
補足:
筆者も長い間、帰納法の呪縛に、囚われていました。
次のような因果ではない図式です。
帰納法<=>観測値<=>科学
帰納法に囚われている人は、自分の発言は、データに基づくので客観的であると考えます。
学会によっては、帰納法は背後に観測値があるので、正しいと考えて、演繹法やアブダクションで書かれた論文を掲載しません。
しかし、検証なしで客観的に正しい仮説は存在しません。
仮説は、演繹法、アブダクション、帰納法の何を使って作っても検証されていない仮説です。
帰納法には、仮説の検証効果はありません。
学会が帰納法の袋小路に入ると、大きな問いをする人はいなくなります。
大きな問いは、帰納法からは生まれないからです。
パール先生は、皆が「3+4=8」であるという幼稚園の例をあげています。(p.129)
集団で間違いをすれば、間違いが訂正されない例です。
実際に、帰納法には検証効果がある唯一の科学的な推論である(「3+4=8」)と考えている学会が多数存在しています。
筆者は、帰納法を使いませんので、演繹法やアブダクションで考えた仮説を書いています。
筆者は、これらの仮説が正しいと主張しません。これらの仮説は、検証するに値すると思っているだけです。
仮説は、検証するまで、正しいか間違っているかはわかりません。
ネットの記事に間違いが多いと主張する人は、科学の検証手続きを理解していない人です。
紅茶のテスターは、紅茶を口に含んで、吐き出し、水で口をゆすぎます。
紅茶を飲んでしまうと、評価ができないのです。
ミシュランの評価は、吐き出さないので、精度は余り高くないと思われます。
客観的な検証には、大きな手間がかかります。