アベノミクスの総括(8)

9)無謬主義と統計的殺人

 

9-1)統計的殺人

 

前にも紹介しましたが、ハーバード大学のジョン・グラハム教授は、<限られた予算で最大限の人命を救い、最大限の環境保護を達成する健全な科学がなければ、「統計的殺人 Statistical murder」に従事していることになる>と述べています。

 

グラハム教授は、ハーバード大学公衆衛生大学院の政策および意思決定科学の終身教授でした。

 

2001年、グラハム教授は、ジョージ・W・ブッシュによって米国行政管理予算局の情報規制問題局長に任命され、米国の最高規制当局者となっています。

 

健全な科学とは、予算配分の科学です。

 

グラハム教授は、予算配分が科学的に行われなければ、それは、「統計的殺人」であると主張しています。

 

健全な科学には、限界があり、改善方法が提案されています。

 

とはいえ、アメリカでは、予算配分は、健全な科学の対象であるというメンタルモデルが共有されています。

 

9-2)無謬主義

 

日経新聞は、「無謬主義」を次のように定義しています。(筆者要約)

 

「無謬主義」とは、「いったん決まった政策は、状況が変わってもなかなか修正されない。データを使って政策効果を検証し、目的に合うよう臨機応変に政策を見直していくことはできない」ことを指します。

<< 引用文献

[社説]霞が関は「無謬主義」から脱却できるか 2022/02/21 日経新聞 

https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK216G80R20C22A2000000/

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予算配分に関する「無謬主義」は、健全な科学を無視した「統計的殺人」になります。

 

(前年度予算をベースにした)前例主義の予算作成は、「統計的殺人」になります。

 

グラハム教授の主張に従えば、窃盗や殺人が犯罪であるのと同様に、「統計的殺人」は、犯罪です。

 

つまり、予算配分に関する「無謬主義」は、犯罪です。

 

9-3)可謬主義

 

英語版ウィキペディアによる「可謬主義」と「無謬主義」の説明の一部を引用します。

可謬主義(Fallibilism)

 

もともと、可謬主義(誤謬主義、中世ラテン語のfallibilis「誤りやすい」に由来)は、命題が決定的に証明または正当化されなくても受け入れられるという哲学的原理である、または知識も信念も確実ではないという哲学的原理である。この用語は、19世紀後半にアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースが基礎づけ主義への応答として作ったものである。

 

カール・ポパーは、著書「科学的発見の論理」(1934年)の中で、科学的知識は帰納的原理ではなく推測の反証から生まれるものであり、反証可能性が科学的命題の基準であると主張した。すべての主張は暫定的なものであり、したがって新たな証拠に照らして修正される可能性があるという主張は、自然科学では広く当然のこととされている。

 

今日の哲学者のほとんどは、ある意味では可謬主義者(fallibilists)である。知識には絶対的な確実性が必要だと主張したり、科学的主張が修正可能であることを否定する人はほとんどいないが、21世紀には一部の哲学者が何らかの形の絶対謬論的知識を主張してきた。歴史的に、プラトンから聖アウグスティヌス、ルネ・デカルトに至るまで、多くの西洋哲学者は、人間の信念のいくつかは絶対に知られていると主張してきた。ジャン・カルヴァンは、他者の信念に対して神学的な謬論を信奉した。絶対確実な信念の有力な候補としては、論理的真実(「ジョーンズは民主党員であるか、そうでないかのどちらか」)、即時の現象(「青い部分が見えるようだ」)、そして矯正不可能な信念(つまり、信じられていることによって真実となる信念、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」など)が挙げられる。しかし、他の多くの人は、これらのタイプの信念でさえ誤りがあると考えている。

 

無謬主義(Infallibilism)

 

哲学において、無謬主義(「認識論的無謬主義」と呼ばれることもある)とは、命題が真実であることを知ることと、その命題が偽である可能性が存在することは両立しないという見解である。これは通常、信念が知識とみなされるためには、その信念が真でなければならない、または同等に、その信念が偽である可能性がまったくないという強力な根拠を証拠または正当化が提供しなければならないことを示していると理解されている。そのような信念の無謬性は、その信念が疑われることさえないことを意味する場合もある。

 

国際標準の「無謬主義」では、「信念が知識とみなされるためには、その信念が真でなければならない、または同等に、その信念が偽である可能性がまったくないという強力な根拠を証拠または正当化が提供しなければならないことを示している」ことになります。

 

国際標準の「無謬主義」と日本の「無謬主義」はまったく別物です。

 

日本の「無謬主義」は、「無謬」ではないので、国際標準にしたがえば、「無修正主義」、プラグマティズムの用語では、「固執の方法」になります。

 

自然科学では、「可謬主義」が、広く当然のこととされていて、「無謬主義」は否定されています。

 

前例主義は科学的な誤りになります。



9-4)「異次元緩和の罪と罰

 

「異次元緩和の罪と罰」は、日銀が、2018年に、2%の目標を中止できなかった理由について次のようにいいます。(p.200)

 

最大の理由は、期待を直接変えようとする政策の宿命として、みずからの読み違いを真正面から認めることに強い躊躇があったからだろう。

 

しかし、2%の目標を中止できなかった理由が、期待を直接変えようとする政策の宿命であるとは思えません。官僚が「無修正主義」が前提と考えれば、類似の現象は多く見られます。

 

9-5)「備蓄米を流通」

 

2024年8月末、大阪府知事は、「備蓄米を流通させてほしい」と政府に要望しました。政府は、「全国的に見て需給は逼迫(ひっぱく)しておらず、備蓄米を開放する予定はない」と回答して、備蓄米の放出をしませんでした。

 

官僚経験のある東京大学の鈴木宣弘教授は次のようにいいます。(筆者要約)

「1993年の大不作をきっかけに政府は、1995年から毎年100万トン程度のコメを備蓄しています。この備蓄米をもっと柔軟に運用すべきでした」

 

「どのような状況になったら備蓄米を放出するのか。数値を決めていれば府知事も国民も納得したはずです」

 

「役所は面子を重んじます。コメは余っていると言い張ってきた以上、放出すると自分たちが間違っていたことを認めることになる。備蓄米を流通させる状況ではないと判断したのでしょう」

<< 引用文献

米不足で露呈した「日本の農政」の異様さ…「日本の米に未来はない」と専門家が断言する、衝撃の理由  2024/10/11 中島 茂信

https://gendai.media/articles/-/138970

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「役所は面子を重んじます。放出すると自分たちが間違っていたことを認めることになる」は、「無修正主義」です。

 

「どのような状況になったら備蓄米を放出するのか。数値を決めていれば」は、条件設定、つまり、エビデンスに基づいて、政策の発動をする方法です。

 

備蓄米では、エビデンスは、無視されています。

 

「どのような状況になったら備蓄米を放出するのか。数値を決めていれば」を、2%のインフレ目標におきかえれば、「評価期間の2年を経過したときに、どのような状況になったら大規模金融緩和を停止するのか。数値を決めていれば」となり、ここには、まったく、同じ、「無修正主義」の構造があります。



9-5)可謬主義の欠如

可謬主義であれば、政策に間違いは付き物ですから。どこかで政策を修正するタイムテーブルと条件を事前に設定することになります。

 

メンタルモデルの共有が出来ていて議論を経た政策であれば、官僚が、間違った政策の責任を問われることはありません。責任を問われるケースは、政策を修正するタイムテーブルと条件を無視した場合になります。

 

ここには、メンタルモデルの共有ができていないという基本的な問題があります。

 

野党が、選挙で支持をうけにくい原因は、可謬主義の欠如にあります。可謬主義では、消費税と法人税を変更して問題があれば、税率を修正すれば、よいことになります。議論すべきは、税率を修正するイムテーブルと条件になります。その場合に、どのエビデンスを指標にとるかは、健全な科学の問題であり、メンタルモデルの共有ができなければ、科学の無視になります。

 

英語版ウィキペディアと日本語版ウィキペディアを比較すると、日本の人文科学と社会科学のレベルは、英語圏とは歴然とした差があります。

 

英語圏の人文科学と社会科学は、可謬主義をとっていて、内容が常に新しいものに更新されています。

 

日本語の人文科学と社会科学は、時間が止まってしまったように、内容が更新されません。これは、日本語の人文科学と社会科学では、「無修正主義」が蔓延していることを意味しています。

 

「異次元緩和の罪と罰」の山本謙三氏も、「備蓄米を流通」の鈴木宣弘教授も、推論の方法は、データに基づく帰納法です。ここには、データに基づく帰納法が正しいという誤認があります。

 

データに基づく帰納法は、検証にならず、間違いです。

 

第1に、ポパーが主張するように、科学的知識は帰納的原理ではなく推測の反証から生まれるものだからです。データに基づく帰納法は、検証ではありませんので、推測の検証(反証)にはなりません。

 

第2に、人工データに帰納法を適用してもなにも得られません。

 

ここに、軽自動車があり、データを集めて、帰納法をつかって、軽自動車の馬力は足りないという結論が得られたとします。この法則は、普通自動車やダンプカーにはあてはまりません。

 

問題は、実態にあるのではなく、実態を生み出した設計図にあります。

 

黒田日銀は、2%のインフレ目標という設計図をつくりました。

 

2%のインフレ目標という設計図より、良い設計図を提案して、その設計図をつかっていた場合の2024年の日本経済と2%のインフレ目標という設計図による2024年の日本経済を比較する必要があります。

 

1995年の回顧録で、マクナマラ氏は、次のように書いています。「私はフォードでマネージャーとして15年間を過ごし、問題を特定し、組織に(多くの場合は彼らの意志に反して)代替の行動方針とその結果について深く現実的に考えるように強制しました」

 

「代替の行動方針とその結果について深く現実的に考える」ことが、問題解決の最短経路です。

 

これは、反事実思考であり、科学の基本ですが、日本の人文科学と社会科学には、「無修正主義」が蔓延していて、帰納法による推論は、「無謬」だと信じられています。

 

反事実思考は、経済モデルや因果推論モデルなどの数学のモデルを使えば、検討することができます。数学なしに、反事実思考をする方法はありません。

 

地球温暖化は、まだ、部分的にしか発生していません。帰納法による推論は、「無謬」であり、計算科学が間違っているのであれば、地球温暖化の議論が起こることはありません。

 

大規模金融緩和の影響は単純ではありませんが、地球温暖化の予測に比べれば、遥かに簡単です。

 

9-6)「アジャイル作業部会」

 

2022年2月に、内閣官房行政改革推進本部事務局に「アジャイル作業部会」が設けられました。

 

アジャイルとは、状況に応じ柔軟に修正しながら完成形をめざすシステム開発の手法で、これを政策立案に取り入れようという試みでした。

 

5回の会合が開かれました。

 

    第1回会合 2022年 2月14日

    第2回会合 2022年 3月30日

    第3回会合 2022年 4月22日

    第4回会合 2022年 4月25日

    第5回会合 2022年 5月18日

 

 2022年5月31日、ワーキンググループは次の提言を取りまとめ公表しました。

アジャイル型政策形成・評価の在り方に関するワーキンググループ提言

~行政の「無謬性神話」からの脱却に向けて~

<< 引用文献

 政府の行政改革トップ 行政改革推進会議 アジャイル型政策形成・評価の在り方に関するワーキンググループ 

https://www.gyoukaku.go.jp/singi/gskaigi/agile.html

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この提言は、フォローアップされていませんので、使われていないと思われます。

 

行政の「無謬性神話」の問題は、統計的殺人であり、統計学と公共経済学の問題であり、そのメンタルモデルで考える必要があります。

 

公共経済学では、効率測定の基本は、費用対便益分析です。

 

問題は、アジャイル型ではなく、費用対便益分析のような効率の計測評価方法にあります。

 

非効率は予算と部門を閉鎖することなしに、行政改革ができるとは思えません。