「因果推論の科学」をめぐって(36)

注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。

 

(36)メンタルモデルと科学の方法

 

1)ブリーフの固定化法

 

「ブリーフの固定化法」はパースの小論文で、プラグマティズムの基礎を構成しています。

 

デカルトが「方法論序説」を書いたときには、「自分は深く考えたので、真理に到達した。自分は真理を知っている」というスタンスをとります。

 

ソクラテスは、無知の知を主張して、自分はまだ真理に到達していないといいます。

 

しかし、ソクラテスを例外として、哲学者は、自分は真理に到達したと主張します。

 

ここに2冊tの数学の本があったとします。(注1)

 

1冊目の本の著者は、自分は真理に到達したので、この本には、真理が書いてあると主張します。

 

2冊目の本の著者は、自分は、無知の知に到達したので、この本には、無知が書いてあると主張します。

 

どちらの本が、読者を獲得しやすいかは明らかです。

 

これから、ソクラテスが、例外になる理由がわかります。

 

どんなに優秀な哲学者でも、著書を書く時点では、その後に起こる事象のデータは入手できません。その結果、その後に起こる事象のデータを無視します。これから、哲学が形而上学(データに依存しない真理が存在するという主張)になる理由がわかります。

 

しかし、データから切り離された主張は、実世界との関連を失ってしまいます。

 

科学は、データに基づいて、推論を点検するので、形而上学とは相いれません。

 

パースは、哲学は、実世界の問題を解決すべきであると考え、形而上学を放棄します。

 

こうしてプラグマティズムが生まれました。

 

プラグマティズムは、形而上学を放棄しているので、厳密には、哲学ではなく、哲学の伝統になります。

 

さて、プラグマティズムは、形而上学ではないので、自分は真理を知っている、自分は真理を発見したというスタンスで書くことができません。

 

形而上学を封印した上で、読者に、プラグマティズムに賛同してもらえる論文を書くことは難題です。

 

ここでパースが使ったロジックは、筆者には、ソクラテスの伝統を受け継いでいるように見えます。

 

ソクラテスの主張は、「間違いはわかるが、真理はわからない」という主張です。

 

これは、操作主義で書けば、間違いを取り除く「消去法(elimination)」になります。

 

無知の知」は、自己矛盾した表現で、まともではありません。

 

このような自己矛盾した表現が通用した理由は、ソクラテスの主張を形而上学の哲学に並べて整理したためと思われます。

 

筆者は、ソクラテスは、形而上学の「無知の知」よりも、形而下学(科学)の操作主義の「消去法(elimination)」で説明する方がわかりやすいと思います。

 

パースは、「ブリーフの固定化法」で、世の中には、4つのブリーフの固定化法があると整理します。4つの方法とは、「固執の方法」、「権威の方法」、「形而上学」、「科学の方法」です。プラグマティズムは、形而上学ではないので、データを無視して、どの方法がよいとも言えません。過去の実績をみれば、「科学の方法」が良さそうですが、形而上学ではないので、実際には、他の方法と比べながら使うことになります。他の方法と比べながら使う方法は、消去法を使う方法になります。

 

「因果推論の科学」では、エスティマンドが求められない場合があります。解けない問題が存在します。これから、科学の方法は、万能ではないことがわかります。

 

たとえば、実社会では、「権威の方法」を使っている場合があります。犯罪を犯した疑いのある人を有罪にするか、無罪にするかといった判断は、「科学の方法」だけではできない場合があります。仮に、犯罪を犯した確率が51%であると計算されたとしても、51%を有罪にするか否かは人間の判断です。2024年時点では、日本では、判決は、裁判官が行なったという権威の方法によっています。アメリカの場合には、陪審員の投票が権威の基礎になっています。つまり、この2つの方法はまったく異なります。陪審員がストレスに耐えられなくなって、サイコロによって、自分の投票を決めることも可能です。この方法は、裁判官が採用することも可能です。カーネマン氏は、「ノイズ」の中で、チューリングテストのように、複数の裁判官が、同じデータから、判決を出した場合のバラツキの研究成果を紹介しています。そのバラツキは非常に大きく、カーネマン氏は、多くの場合、人間の裁判官よりも、単純な(因果)モデルの方が良い成績になると主張します。判決のバラツキを評価基準にした場合、データから、人間が判決をだすメリットはあまり認められないといいます。

 

パースは、「ブリーフの固定化法」で、<「科学の方法」が使えるのであれば、「科学の方法」を使いませんか>といいますが、形而上学ではないので、例外はあります。

 

2)法度主義と特攻

 

脇田晴子氏と水林章氏は、法度制度(天皇制の文化)のミームが、特攻の原因であるといいます。

 

水林章氏は、現在の日本でも、法度制度が生きているといいます。

 

特攻は、人権無視(人命軽視)なので問題になります。

 

しかし、人権問題を脇においても、疑問が残ります。

 

特攻作戦には、合理性がないのです。

 

人命軽視は、コストが異常に高いことを意味します。

 

実際に特攻の戦果のデータは、効果(ベネフィット)がほとんどないことを示しています。

 

日本以外の国が、特攻作戦を採用しなかった理由は、人権問題ではなく、特攻作戦は、費用対効果が余りに低かったためです。

 

費用対効果は、正確には、作戦を実行してデータを得なければ、計算できません。

 

しかし、概算であれば、作戦を実行しなくとも計算できます。

 

日本以外の国が、特攻作戦を採用しなかった理由は、費用対効果の概算で、特攻作戦が、「消去法(elimination)」で取り除かれたためです。

 

間違いを取り除く「消去法(elimination)」が、推論の過程で重要です。

 

消去法仮説:「消去法(elimination)」が行なわれていない(原因)=>科学の方法が使われていない(結果)

 

「消去法(elimination)」は、詳しく書くと「仮説Aと仮説B、あるいは、プランAとプランBを比べて、妥当性の低い方を消去する」方法になります。

仮説Aまたは、プランAが事実であれば、仮説BまたはプランBは、反事実になります。

 

帰納法が科学であると勘違いして反事実を封印してしまうと、「消去法(elimination)」が使えなくなります。

 

「消去法(elimination)」は、実際のデータを取得しなくとも、メンタルモデルの段階で使える手法である点です。

 

丸山眞男氏は、社会科学では、何が間違っているかはわかるが、何が正しいかの特定は困難であると主張しました。

 

丸山眞男氏のいう間違っている仮説を取り除く方法は、「消去法(elimination)」になります。

 

3)競争のメンタルモデル

 

太平戦争は、敗戦になりました。太平洋戦争では、特攻のように、費用対効果を無視した作戦が横行しましたので、戦争に勝てる理由が見つかりません。

 

現在の日本は、武力による戦争には、参加していません。

 

しかし、企業は経済性の競争や、技術開発の競争を行なっています。

 

競争優位なポジションを得ることは、企業が生き残るために、必須な条件です。

 

どうしたら競争に勝てるかという因果モデルを作って、経営に使えば、競争優位になります。

 

どうしたら競争に勝てるかという因果モデルを生み出すメンタルモデルには、戦争のメンタルモデルと共通点があります。

 

これが、経済戦争やハイテク戦争といった言葉が使われる理由です。

 

競争(または戦争)のメンタルモデルの品質が、因果モデルの品質を左右します。

 

まともな競争のメンタルモデルを作るためには、「消去法(elimination)」を活用する必要があります。

 

まともな競争のメンタルモデルを作るためには、実際にデータを集めて、モデルをつくる必要がありますが、それには、コストと時間がかかります。

 

「消去法(elimination)」はメンタルモデルのレベルで活用できますので、コストと時間の節約になります。

 

つまり、「消去法(elimination)」を封印(削除)してしまうと、まともな競争のメンタルモデルが作れなくなります。





「消去法(elimination)」の削除は、2重否定文のようなわかりにくい表現ですが、具体例を考えると理解できます。



太平洋戦争では、特攻のように、費用対効果を無視した作戦が横行しましたので、戦争に負けました。

 

費用対効果は、「消去法(elimination)」の有効なツールです。

 

検討から、費用対効果を追放すれば、「消去法(elimination)」は機能不全になり、競争概念の含まれない「競争のメンタルモデル」になります。

 

経済政策について考えれば、経済政策のメンタルモデルから、「消去法(elimination)」や、費用対効果を追放すれば、政策の効率性がなくなり、競争概念の含まれない「競争のメンタルモデル」が出来上がります。

 

大学の授業料をあげる検討がなされています。

 

しかし、大学の授業料と技術革新のできる人材育成の間には、因果関係はありません。

 

高度な技術革新が出来る人材が養成できるのであれば、授業料を2倍にあげても、教育経済学の社会的なリターンは、プラスになります。カリキュラムを終了しても、技術革新がまったくできない人材が育成される場合には、授業料を半額にしても、社会的なリターンはマイナスになります。

 

費用対効果とは、このような視点になります。

 

費用対効果は、非人間的であるという科学を無視したプロパガンダが行なわれています。

 

しかし、費用対効果を無視すれば、国際的な人材育成競争に、競争概念の含まれない「競争のメンタルモデル」で立ち向かっていることになります。

 

経済戦争やハイテク戦争に負けてしまいます。

 

政策選択に、費用対効果が含まれないと、効果のない(無駄な)政策が横行します。

 

その結果、税金が上がりつつけます。

 

ここには、選択肢があります。

 

第1は、費用対効果を放棄して、上限のない増税を受け入れる選択です。

 

第2は、費用対効果を採用して、増税に上限を設定する選択です。

 

筆者は、第2の選択肢をとります。



社会保険料を含めた実質の税負担は、50%近くなっています。これは、コスト(費用)です。

 

これに対するリターン(効果)は小さくなっています。

 

政府は、費用対効果を封印していますので、リターンは、話題にすらなりません。

 

費用対効果は、非人間的であるというプロパガンダは、特攻は人間的であるというプロパガンダの焼き直しです。

 

費用対効果が表に出ると困る人がいます。

 

それは、利権のために、費用対効果を無視した補助金を配分している人です。

 

太平洋戦争の時に、費用対効果が使われていれば、効果のない間違った作戦を計画・遂行した人は、左遷されていたはずです。こうした能力のない幹部を温存するために、太平洋戦争では、費用対効果が封印されました。

 

現在の日本の政治でも、費用対効果が封印されていますので、太平洋戦争の失敗が繰り返されています。

 

その最大の原因は、科学の方法の基礎である「消去法(elimination)」をメンタルモデルから、追放した点にあると考えられます。



注1:

 

数学は基本的に、形而上学です。体系は演繹法で、前提があてはまれば、推論に間違いはありえません。実用数学は、形而上学ではないので、議論の余地はあります。