モンテネグロ会館(境町)~つくば市とその周辺の風景写真案内(621)

モンテネグロ会館(境町)

境町にある隈研吾氏の設計した建築の最後は、モンテネグロ会館です。

「アルゼンチン 黒船からの縁 」によれば、経緯は、以下です。 これは、当時、99歳であった野本作兵衛氏が書いた記録です。 これを基準にすると、他の情報には、部分的な間違いが散見されます。

なお、改築前のモンテネグロ会館の写真は、「モンテネグロ会館改築 木村 敏夫」で、見ることができます。


1)1853(嘉永6)年にペリーが浦賀に来航した時に、右筆(ゆうひつ、文書管理や記録係)を務めた境町出身の関宿藩士・野本作次郎がペリー提督と共に来航したアルゼンチン人船員と交流したことに始まります。その時の文書は、幕府に納めたはずの重要文書ですが、明治維新の混乱で、野本家の蔵に舞い戻ってしまいます。

なお、関宿藩は、下総国(千葉県野田市)にあった藩で、茨城県境町も関宿藩領でした。

2)日清戦争後、ロシアと日本では建艦競争が行われていましたが、同じ頃チリとアルゼンチンでも建艦競争が行われていました。しかし英国の仲介によりチリとアルゼンチンでは1902年5月28日に協定が結ばれ、建造中の軍艦2隻ずつが売却されることとなり、ロシアと日本で購入競争となります。

先ず、チリがイギリスのアームストロング社に発注したコンスティトゥシオン級戦艦はロシアに売却されそうになり、日本の同盟国のイギリスがやむなく購入します。

1903年明治36年)、アルゼンチンがイタリアのアンサルド社に発注しジェノバ造船所で建造中だったジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦「リヴァダヴィア」と「モレノ」をイギリスが内々に日本に購入を促し、日露開戦直前に日本に売却され「リヴァダヴィア」は春日、「モレノ」は日進と命名されます。

つまり、日本海軍の連合艦隊に編成されて大活躍した「春日」と「日進」の2隻の軍艦は、連合艦隊司令長官東郷平八郎のイギリス留学時代に共に学んだ盟友のアルゼンチンのドメック・ガルシア提督がイタリアに注文していたものを日本に譲ってくれた軍艦でした。

3)1933年ペリー提督の孫であるジェィムズ・ペリー氏が、来日するのを機に、「ペリー来日時の子孫を探している」と言う記事が報日新聞に掲載されます。これを知った野本作次郎氏の孫である野本作兵衛氏は、自ら名乗り出て、グルー駐日大使の立ち合いの元で、ジェィムズ・ペリー氏と会見します。この時に、家宝の日本刀と会見の記録をジェィムズ・ペリー氏に渡します。この会見記事を読んだ、アルゼンチン船員の孫で、アルゼンチン共和国大使館で臨時代理公使であったアルトゥーロ・モンテネグロ氏が、野本作兵衛氏に「私の祖父は、ペリー提督とともに、浦賀に上陸し、ノモトを名乗るサムライに大変世話になった」と書かれた手紙を送ります。

境町上小橋の野本作兵衛氏(当時38歳)は、アルゼンチンに謝意を示すために二振りの日本刀を携え、報知新聞社の口添えによりアルゼンチン大使館を訪ねます。一振りをアルツーロ・アルバレスモンテネグロ氏に、一振りをガルシア提督に送ります。野本作兵衛氏は、その動機を、鈴木貫太郎氏から、日露戦争のときに、アルゼンチンに、世話になったと聞かされていたためといっています。

4)1934年に、モンテネグロ氏が、野本家と長田小学校を訪問することになり、地元は大騒ぎになります。このころ村には、電話はなく、自動車は1台だけだったそうです。

青年団は、道路に砂利をまいて、自動車は1台通れる道をつくります。

1934年2月19日、沿道を人が埋め尽くす中を公使がやってきます。子どもたちは、晴着を来て、万歳の歓声をあげながら、初めて見る外国人を歓迎します。小学校で行われた学芸会を鑑賞した公使は、優秀な成績を収めた卒業生5人に計100円を送る奨学金を約束し、離任までの7年間、約束が果たされます。

最初のモンテネグロ会館は、幕末の曾祖父同士(モンテネグロ海軍武官と関宿藩士野本作次郎)の友情を記念し、1937年に当時のアルゼンチン大使館アルトゥ―ロ・モンテネグロ臨時代理公使が地域の青年研修所として活用して欲しいと建設費600円を援助され、境町野本家の敷地内に建てられます。建物は、木造かわらぶきの20坪の平屋です。

5)アルゼンチンとの交流は、日米開戦まで続きますが、野本氏は、特高警察の執拗な尾行にあい、何度も、取り調べを受けています。

6)戦後、アルゼンチンとの交流が再開されるのは、1965年で、モンテネグロさんに感謝する会が、町役場の協力で開催され、アルゼンチン大使のギジェルモ・カーノさんが、長田小学校に来校します。

7)築後81年が経過した2018年(平成30年)、日亜外交樹立120周年を迎えた年に、アラン・ベロー駐日アルゼンチン共和国特命全権大使が来館し、日亜両国の友好の証としてモンテネグロ会館を遺して欲しいとの言葉をうけ、国の地方創生拠点整備交付金を活用し、改築したものです。 改築にあたっては、地権者の野本勇作氏から、土地を寄贈してもらっています。


1930年頃のデータが見つかりませんでしたが、1913年の一人当たりGDPを1990年のドル換算で比べた推定値では、アルゼンチンは、3688ドルで、第9位です。日本は、1387ドルで、第25位です。恐らく、1930年頃のアルゼンチンは、日本の2倍以上豊かだったと思われます。

写真1が、モンテネグロ会館の全景です。手前は、テラスになっています。

写真2が、モンテネグロ会館の入り口です。

写真3が、モンテネグロ会館の室内です。

現在は、集会場ではなく、chabacoという名前の、茶 cafe & shopになっています。

穴の開いている木は、古いモンテネグロ会館の廃材を再利用しています。 解体と建築は、地元の建設会社が行っています。

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写真1 モンテネグロ会館

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写真2 モンテネグロ会館

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写真3 モンテネグロ会館