コロナ対策とデジタル教科書に見る科学技術立国の終わり(3)

1994年の分岐点(1)教材編

3回目には、研究所の話を書こうとおもっていたのですが、その背景説明を考えているうちに、1994年の分岐点問題を整理しておくべきではないかと考えるようになりました。1994年の分岐点問題は、非常に複雑な問題です。理由は、25年経った現在でもよくわかりませんが、いくつかの分野で、歴史的転換点が、この前後でおこっています。どうして、異なった分野で、不連続とも思われる現象が、同時に発生したのかは、わかりません。ただし、わかっているのは、1994年前後(1990から1995年)が歴史的な分岐点になっているということです。

1994年の分岐点全体をレビューすることは、大きな課題なので、別の機会に譲るにして、ここれは、科学技術立国に関係する部分だけを考えてみたいと思います。しかし、内容に入る前に、分岐点という表現について説明をしておきたいと思います。分岐点といのは道の分かれているところです。道路網が、樹枝状ではなく、網目状をしていれば、分岐点で曲がり間違えても、その先で、正しい方向にハンドルをとれば、そのうちに、正しい道に復帰することができます。しかし、道路が樹枝状であれば、時間がかかっても、間違えた分岐点まで戻ってそこからやり直さない限り、正しい道に戻ることはできません。

1994年というのは、失われた30年の分岐点でもあります。この20年間、失われた10年、20年といわれるごとに、短期的に軌道修正を図る試みがなされ、結果として、それらは、全て失敗しています。全て失敗しているというのは、全数調査をしたという意味ではなく、失われた何十年からの脱却に失敗したという意味です。このことは、問題解決への道は、網目状ではなく、樹枝状であることを示しているように思われます。つまり、1994年の分岐点で何を間違えたかに遡って、道を選び直さない限り、問題解決はおぼつかないということです。

例えば、次年度予算では、小学校の学級規模を小さくすることが決まったようです。1クラスあたりの生徒数が減少します。NHKのインタビューでは、小学校の教師が1クラスの生徒数が減るとテストの答案の採点にとられる時間が減るので、その分を他のことに使えるという応えをしていました。しかし、未だに、紙のテストで、採点をしていることに驚きを隠せません。

小学校の教材がどうなっているのかは分かりませんが、大学レベルの教科書であれば、マグロウヒルなどの出版社は、テキスト、自習書、問題集、教師用ガイドブック、授業用のパワーポイント、教材資料などをセットで販売しています。教科書を採択すれば、教師はパワーポイントデータをダウンロードして、加工してつかうことができます。自習書が電子教科書になれば、自己診断テストの結果は、生徒だけでなく、教師がクラス全体の生徒の到達度を理解し、その結果は、つまずきやすいところ詳しく説明するなど、当年度の補足の参考にしたり、次年度の授業の改善に使えます。クラウド上で実行可能な自己診断テストを作ることは、標準的なプラットフォームが登場すれば、簡単で、現状はそれがクリアされつつあると思います。大学で、教師が英語で授業をしてよいのであれば、教師と生徒は、これらの便宜を受けることができます。しかし、日本語の場合には、テキストしかありません。しかも、紙のテキストしかありませんから、価格を考えて、非常に薄くなっています。英語のテキストは、電子版が標準になってきて、フルカラー1000ページを超えるのが普通になっています。20年前のテキストと比べると、厚くなり、カラーが増え、イラストが多くなっています。電子版では、価格は、テキストのページ数や、カラーページの数に関係がないからです。これから、わかることは、教科書は単独で採択を選ぶものではありません。総合環境としてのサポートを見て、採択を決める必要があります。

翻って見れば、義務教育では、教科書単独で、検定が行われています。これに対して、教師用ガイドブックが準備されていますが、問題集や、自習書は別売りで、紙です。ここで、紙の問題集を使っているとインタビューのような話になります。市販の問題集は、教科書に載っている内容を一律にテストします。到達度評価としては、これが正しいのですが、ワークブックとして、計算練習をするのであれば、躓きやすい問題だけをくりかえし解く必要があります。解ける問題をいくら繰りかえしても、学力は伸びないからです。昔は、市販の問題集はこの点で問題があるとして、独自にワークブックのプリントを作っていた教師もいましたが、現在では、モンスターペアレンツへの対応など、学業以外の仕事が増えて、その余裕のある教師はいないと思います。教科書会社も、ワークブックのデータをCDーROMなどで配布するサービスは行っていますので、WORDなどのデータを編集して使っているのが現状です。しかし、クラウド上の電子ワークブックでは、生徒一人一人の理解度に応じて、出来ない問題だけを繰り返し解くことができます。

まとめますと、欧米の教材のシステムは、クラウドがプラットホームになり、その上の電子教材がスタンダードになっています。高等教育では、英語で授業をすれば、このメリットがつかえますが、日本語では不可能です。筆者には、日本語で、授業をしたいという教師は、時代に取り残されることが気にならない人だと思います。また、教科書の選定は、出版社が提供する総合教材システムに対する評価で決まります。

義務教育では、日本では、紙の教科書を国が検定するという時代遅れのプラットホームが教科書会社を制約して、進歩から取り残されています。1994年の分岐点では、日本の義務教育では、ゆとり教育が採用されました。あまり、議論されませんが、筆者は、教育でも、日本は失われた30年に入ったと思います。1994年はインターネットが始まり、Windows のようなパソコンのインターフェースが出てきた時代です。PCの色表示が、それまでの256色から、1670万色使えるようになり、写真がデジタルで使えるようになります。つまり、デジタル教科書のプラットフォームが形成された分岐点でもあります。PCとインターネットの普及は、データサイエンスの進歩を促し、その成果をつかった教育評価がなされ、教育の効率化が進みます。そこでは、教育の費用対便益が問題にされます。簡単にいえば、学校のクラウド整備にかかる増額コストと、クラス規模を小さくするのに必要な増額コストは、費用対便益で比較され、選択されます。1994年の分岐後に世界の教育で起こった変化はこうしたものです。ゆとり教育を元に戻しても、正しい道に戻れる訳ではありません。

紙の教科書というプラットフォームから抜け出せないのは、コロナ対策で、保健所がファックスシステムから抜け出せないのと同じです。ここでは、紙のプラットフォームという表現をしましたが、これは、科学の世界で言えば、パラダイムに相当します。パラダイムを提唱したクーンが指摘しているように、パラダイムの変更は、啓蒙や教育で実現したことはなく、古いパラダイムの世代がリタイアして、新しいパラダイムで育った世代に交代することによってしかおこりません。そこで問題になるのが、年功序列システムです。パラダイムや、プラットフォームの変更がない時には、このシステムは有効に働きますが、パラダイムやプラットフォームの変更があるときには、発展を阻害します。

バイデン政権の閣僚が次第にわかってきましたが、日本の政権の閣僚が、政治家の年功序列システムで決まっているのとは大きくことなります。日本では、トップは年寄りで、新しいパラダイムやプラットフォームをつぶしています。当人にはその意識はないと思いますが、古いパラダイムやプラットフォームで育った人は新しいパラダイムやプラットフォームを理解することができません。日本では、1994年の分岐点問題がひろく、解決できないのは、組織マネジメントの障害でパラダイムシフトができないこととかかわっています。

閣僚の予算の復活折衝がマスコミで報道されましたが、まだ、こんなことを続けているのかと驚きを禁じえませんでした。予算折衝は、事務次官以下の官僚が全て決めています。そうすると大臣の出番はありません。また、全ての予算を大臣以外の官僚が決めていることが確定してしまいます。これは、都合がわるいので、大臣の出番を官僚が事前につくっておくわけです。復活折衝は大臣がテレビに写ることで、さも仕事をしているように見せかけて、選挙の票をかせぐ以外の意味は全くありません。そもそも、まともに、費用対便益分析で、政策を決めている(すなわち、税金が効率的につかわれる政策が選択されている、税金の無駄遣いが少ない)のであれば、費用対効果の測定項目を含めたプラットフォームの変更が主な政策の論点になるはずです。実態は、政治家の関心は、政治献金が多い業界にどれだけ補助金をキャッシュバックするかに偏っています。官僚の世界も、日本は、実定法ではないので、法律は硬直化して、手が付けられず、予算と組織を獲得することが、出世の条件で、そこには、費用対便益は入っていません。簡単にいえば、こうしたプラットフォームの固定化(規制ともいいます)の結果、世界の進歩から日本だけが取り残されてしまいます。IT化が促進できないのは、IT化を促進すると、費用対効果が改善して、予算と定員が減るため、左遷されてしまうからです。官僚の業績評価のプラットフォームを変えれば、IT化はすぐに実現すると思います。デジタル庁ができるのは、予算と組織(定員)が増えるからで、IT化を促進したいからではありません。

 

長くなりましたので、科学技術の1994年の分岐点問題は、次回にします。