風景写真の遠近法の研究(2)

ミニマリズムの問題

絵画の風景画の構図は、印象派以前と印象派以降で大きく異なります。印象派がそれまでの正統的な絵画の伝統を破壊したところに成立しているため、これは、構図だけではなく、他にも及ぶ特徴です。印象派の絵画には、日本画や浮世絵が大きな影響を与えました。その最大の影響は、それまでの正統的な絵画の枠組みを外れたところでも、絵画が成立するという発見にあったと思います。

 

例えば、尾形光琳の燕子花図(カキツバタ図)では、絵はパターンの繰り返しを多用しています。ここでは、工芸的な繰り返し模様と絵画の境界はなくなっています。実際にも、一部に型紙が反復して利用されています。

一般には絵画におけるミニマリズムは、1950年代後期〜60年代前半に出現し、美術、デザイン、音楽の領域で、起こった運動で、絵画では非本質的なフォルム、特徴、概念を排しするとされるようです。

つまり、光琳カキツバタのような古い時代の非線形なフォルムの繰り返しはミニマリズムではないと考えるようです。筆者はミニマリズムとは同じ信号の繰り返しが脳に引き起こす反応を利用した芸術表現だと思っています(注1)。カーペットの模様や、読経の声は、ミニマリズムだとおもっています。ミニマリズムは催眠的な効果を引き起こします。単純な信号の繰り返しによって、脳の識別能力が麻痺します。たとえば、カキツバタの図は、同じようなパターンの繰り返しなので、どのカキツバタは一番きれいかといった比較は拒否されます。普通の絵画にある注視点と注視点の流れがありえません。注視点は漂い、全体をそのまま受け入れることになります。ここでは、遠近は意味がありません(注2)。

明らかに、印象派の絵画には、こうした従来の遠近法をはみ出した表現が見られます。

例をあげて説明します。

写真1は渓流の写真です。ここには、構図上の遠近はありません。前の水と後の紅葉だけです。この紅葉という注視点はないので、ミニマリズムになっています。

写真2は、渓流の写真で、ここでは、手前の道路と奥の渓流があって、遠近が若干でています。

写真3は偕楽園の梅の木です。右下に杭があります。右上に梅の花の前ボケがあります。

梅の木は、手前の2本が大きく、あとは、同じくらいの大きさです。2種類の木の大きさの違いを見れば、梅の木で遠近感が形成されているといえます。この木の大きさが、あまり効いていないとすれば、梅の木のパターンの繰り返しに見えます。

写真4は梅の花です。一見、同じパターンの繰り返しのように見えますが、花の差が目についてしまいます。

まとめ

ここでは、遠近ではなく、ミニマリズムとしての写真もありうることを説明しました。つまり、あえて遠近感のない風景写真もありうるということです。

恐らく、繰り返しパターンのような中心のない画像には、他に、フラクタルとノイズがあると思いますが、この点は、別に論じたいと思います。今回の画像はフラクタルとも解釈できます。

注1:写真におけるミニマリズムは最小のという意味で用いられることもあります。ミニマル・ライティングのように、最少の機材で撮影する場合でです。今回は、繰り返しパターンの意味でつかっています。

 

注2:カキツバタが完全なパターンの繰り返しになるためには、絵を正面から見ることが前提になります。カキツバタは屏風絵なので、絵は正面から眺められることはなく、常に、斜めから見ることなります。これは、絨毯の模様を斜めにみるのと同じで遠近感がでます。画集ではわかりにくいですが、実際の屏風を見る場合とは大きく違います。この辺りの計算、見る向きで効果が大きく変わるところは、光琳の天才のなす業です。

 

 

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写真1 渓流

 

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写真2 渓流

 

 

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写真3 偕楽園

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写真4 梅の花