「因果推論の科学」をめぐって(44)

注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。

 

(44)期待値問題

 

1)平和宣言

 

8月6日の平和宣言では次のように述べられました。

皆さん、混迷を極めている世界情勢をただ悲観するのではなく、こうした先人たちと同様に決意し、希望を胸に心を一つにして行動を起こしましょう。そうすれば、核抑止力に依存する為政者に政策転換を促すことができるはずです。必ずできます。

 

争いを生み出す疑心暗鬼を消し去るために、今こそ市民社会が起こすべき行動は、他者を思いやる気持ちを持って交流し対話することで「信頼の輪」を育み、日常生活の中で実感できる「安心の輪」を、国境を越えて広めていくことです。そこで重要になるのは、音楽や美術、スポーツなどを通じた交流によって他者の経験や価値観を共有し、共感し合うことです。こうした活動を通じて「平和文化」を共有できる世界を創っていきましょう。特に次代を担う若い世代の皆さんには、広島を訪れ、この地で感じたことを心に留め、幅広い年代の人たちと「友好の輪」を創り、今自分たちにできることは何かを考え、共に行動し、「希望の輪」を広げていただきたい。広島市は、世界166か国・地域の8,400を超える平和首長会議の加盟都市と共に、市民社会の行動を後押しし、平和意識の醸成に一層取り組んでいきます。

<< 引用文献

平和宣言【令和6年(2024年)】

https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/346475.html

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岸田首相は、次のように発言しています。

岸田総理大臣はあいさつで、「現実的かつ実践的な取り組みを進め、核軍縮に向けた国際社会の機運を高めるべく、国際社会を主導していく」と述べました。

 

一方、核兵器禁止条約にはふれませんでした。

 

この中で被爆者団体は「核兵器をなくそうと訴え続けてきたわが国の政府が核兵器禁止条約に背を向けている状況下で、私たち被爆者は海外に出かけて活動することに非常に気後れをして、恥ずかしい思いをしている」と指摘しました。

 

その上で来年3月に、アメリカで開かれる核兵器禁止条約の3回目の締約国会議に、日本がオブザーバーとして参加するよう求めました。

 

これに対し岸田総理大臣は、参加については直接言及せず、核兵器禁止条約と日本政府は同じ目標を共有しているとした上で「核実験や核兵器に使う物質そのものを禁止する具体的な取り組みを、核兵器国を巻き込みながら進めることが日本の役割だ」と述べました。

 

そして「核兵器のない世界に核兵器国を近づける取り組みを進め、核兵器禁止条約に努力している方々とともに核兵器のない世界に向けて、前進していきたい」と述べました。

<< 引用文献

広島 原爆投下から79年 平和記念式典 “核抑止力依存 転換を” 2024/08/06 NHK

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240806/k10014538571000.html

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平和宣言は、「希望を胸に心を一つにして行動を起こす(原因)=>為政者に政策転換を促す(結果)」という因果モデルを述べていますが、マスコミが、この因果モデルでは、岸田首相(為政者)の政策転換が起きてないのではないか(核兵器禁止条約にはふれませんでした)と疑問を提示しています。

 

ウクライナは、核兵器を放棄(事象1)したあとで、ウクライナ戦争(事象2)になりました。

 

事象1と事象2の因果関係は不明ですが、「核兵器の放棄(事象1)が原因で、ウクライナ戦争(事象2)が結果」と考えている人がいます。ウクライナ戦争で親族をなくした人も多数います。

 

そのような人に、「音楽や美術、スポーツなどを通じた交流によって他者の経験や価値観を共有し、共感し合う」といっても、メンタルモデルの共有は困難です。

 

2)ブリーフの固定化の根本問題

 

政治は利権で動いています。

 

最近、派閥論の名著として名高い渡辺恒雄氏の「派閥と多党化時代」(雪華社)が「自民党と派閥」(実業之日本社)として復刊されました。

 

渡辺恒雄氏は、「政界を腐敗させた責任の半分は財界にある…利権を握らぬ政治家は「実力者」になれないという自民党の構造問題」があるといい、次のように発言しています 

このような角度、つまり献金→利権での還元というギブ・アンド・テイクの法則が、政治献金ルートを決定しているのだから、利権を握らぬ政治家は、“実力者”になれず、また利権をにぎった子分に対する統制力を持たぬ実力者は、没落するのである。

 

もし、政治資金が合理化され、たとえば西ドイツのように、国費で負担するとか、あるいは、比例代表制の採用によって個々の議員の出費が少額ですむようになるとかすれば、資金パイプとしての派閥およびその親分の存在理由の大部分は失われ、少なくとも、今日の派閥の持つ機能および実力者の条件、資質は、まったく異なったものとなるであろうし、派閥間の密室政治の中から、実力者の合従連衡によって生み出されて来た総理大臣の性格も異なり、首相になる者の条件と資質は、すっかり変質することとなるであろう。

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政界を腐敗させた責任の半分は財界にある…利権を握らぬ政治家は「実力者」になれないという自民党の構造問題 2024/-6/04  Persdent 渡辺 恒雄

https://president.jp/articles/-/82089

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政治システムの本質は、利権にあり、利権の構造はなくならないと主張する人もいます。

 

その主張が正しいか否かは別にして、「政治は利権の構造である」と主張する人は、利権の構造というメンタルモデル(利権モデル)で政治を見ていることになります。

 

経団連は、政治献金を中止する計画がありませんので、経団連も、利権モデルで政治を見ていると思われます。

 

現在の日本の政治家の大きな部分が、利権モデルで説明できますが、利権モデルには、限界があります。

 

利権モデルでは、経済学の外部経済・外部不経済の問題に対応できません。

 

利権モデルでは、温暖化問題や海洋マイクロプラスチック問題のような外部不経済問題は放置されます。

 

マルクスは、労働者は資本家に搾取されていると言いました。

 

これは、「労働者の搾取」という外部不経済問題が放置されたことを意味します。

 

環境問題を解決する基本は、外部不経済を内部化することです。

 

海洋マイクロプラスチック問題を内部化するには、製品に含まれるプラスチックリスクを表示すればよいことになります。

 

「労働者の搾取」という外部不経済問題を解決するためには、ブラック企業であるリスクを公開すればよいことになります。

 

こうした外部不経済が内部化されれば、消費者や労働者は、エコフレンドリーでない企業や、ブラック企業をさけるようになります。

経団連も、建前上は、SDGsを支持してエコフレンドリーな企業や、ブラックでない企業を目指しています。

 

さて、ここに、1000万円の資金があったとします。この式を政治献金に寄付することもできますし、エコフレンドリーな製品の研究開発に投入することもできますし、エコフレンドリーな活動をするNPOに寄付することもできます。

 

この3つの選択肢は、例示にすぎませんので、何でもかまいません。

 

1000万円は、一括にする必要はなく、半分ずつ、あるいは、3分の1ずつ使ってもかまいません。

 

このような複数の選択肢がある場合のブリーフの固定化問題を「ブリーフの固定化の根本問題」と呼ぶことにします。

 

「ブリーフの固定化の根本問題」が解けなければ、経営や政策選択は、いきあたりになり、パール先生の表現を借りれば「異常事態」になります。

 

筆者には、経団連が、「異常事態」にあるように見えます。

 

3)異常事態の回避の方法

 

政治学者・御厨貴氏は、「自民党と派閥」に関連して、次のようにインタビューに応じています。

 

 企業献金の問題は、渡辺さんが言うように献金を受ける側も問題だけど、出すほうもどうなのということがあります。

 

 いまもおカネを出しているのは基本的に古いタイプの企業、つまりこれまで日本を支えてきた経団連を中心とするような大企業です。

 

 最新のIT企業など、これからの日本、あるいはこれからの世界をつくっていくような企業体がお金を出しているとは到底思えませんからね。

 

――なるほど、確かにそうですね。

 

 だって企業献金して何かいいことありますかと。自民党におカネを出して見返りが得られるとはあまり考えられない。

 

 むしろ、そんなことをしてメディアに暴かれたりすると企業にとってマイナスイメージになりますから、まず出さないと思いますよ。

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岸田文雄のドライすぎる派閥論に番記者が「えーっ!」御厨貴「彼にとって派閥はその程度」2024/071/11 Diamond 田之上 信

https://diamond.jp/articles/-/346821

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御厨貴氏の説明は、筆者の「異常事態」というイメージにあいます。

 

御厨貴氏は、「これからの世界をつくっていくような企業体がお金(政治献金)を出しているとは到底思えません」といいます。

 

これは、「これからの世界をつくっていくような企業体」(以下、先端企業と呼ぶ)は、「ブリーフの固定化の根本問題」を解決していることを意味します。

 

それでは、先端企業は、どのような解決法を持っているのでしょうか。

 

橘玲氏は、「テクノリバタリアン」は、「ごく自然にベイズの数式を呼び出し、それに数字を当てはめて計算し、どのように判断・行動するかを決める」(p.4、「テクノリバタリアン」)といいます。

 

「ブリーフの固定化の根本問題」は期待値の計算なしには、解決できません。

 

プラグマティズムの提唱者のパースは、「プリーフの固定化法」になかで、{ブリーフの固定化には、固執の方法、権威の方法、形而上学、科学の方法あがるので、科学の方法を使うべきである」と主張しました。「科学の方法」は、期待値を計算しましょうと現代風に書き換えることができます。

 

つまり、確率というメンタルモデルがなければ、「ブリーフの固定化の根本問題」を解くことができません。

 

文系の教育には、確率というメンタルモデルがありませんので、文系の経営者は、「固執の方法、権威の方法、形而上学」のどれかを使うことになります。

 

「ブリーフの固定化の根本問題」が解けない場合には、次のような外部不経済が発生します。

 

・経済成長を阻害する経済政策

 

・洪水リスクをます洪水対策政策

 

・漁業資源を減らす水産政策

 

・環境破壊をする環境政策

 

筆者は、これらの問題について、確率というメンタルモデルの共有ができない人と議論することができません。

 

4)科学の役割

 

経団連のように、政治は利権であるというメンタルモデルから抜け出せない人たちがいます。

 

利権のない政治はあり得ないというメンタルモデルの人もいます。

 

しかし、過去に利権を廃止した分野も多くあります。

 

評価に、利害関係者を排除して、透明性をあげている分野もあります。

 

何が、違うのでしょうか。

 

医学の場合には、1990年頃までは利権が横行していました。

 

大病院の外科医であれば、手術をする毎に謝金をもらうことが当たり前でした。

 

謝金のない手術を手抜きしていた訳ではありませんが、無意識のバイアスがかかっていた可能性はあります。

 

現在では、大病院では、謝金を受け取りません。

 

筆者は、その変化には、EBM(根拠に基づく医療)が関係したと推測しています。

 

薬の開発では、プラセボをつかった二重盲検をつかうのが、EBMの世界です。

 

謝金の効果は、プラセボ以上になると予測されます。

 

謝金のデータが入れば、それがノイズになって、手術のどこを改善すれば、生存率があがるかといった科学的な検討ができなくなります。

 

筆者は、それを回避するために、謝金が中止されたと推測しています。

 

政治も医療と同じように、本来解決すべき問題をもっています。

 

利権のために、補助金をばら撒くのが、政治の全てであるという論理は、有権者には通じません。

 

利権と補助金のキャッシュバックが横行すると、データがノイズだらけになって、問題の解決ができなくなります。

 

こうなった原因は、エビデンスに基づく政策選択が行なわれなかったことに原因があります。

 

このエビデンスの単位は、確率になります。

 

「因果推論の科学」の因果(原因=>結果)は、確率です。薬(D)が原因で、寿命(L)が伸びるという因果モデルは、P(L|do(D))のdo演算子で求められる確率になります。

 

橘玲氏は、「テクノリバタリアン」は、「ごく自然にベイズの数式を呼び出し、それに数字を当てはめて計算し、どのように判断・行動するかを決める」(p.4、「テクノリバタリアン」)といいます。

 

しかし、「ベイズの数式を呼び出し、それに数字を当てはめて計算」して求める値は確率です。

「因果推論の科学」以前の統計学では、do演算子がないので、求める確率(期待値)は、条件付き確率P(L|D)になります。

 

これは、科学的なブリーフの固定化法の標準プロセスです。

 

この標準プロセスを、「テクノリバタリアン」であると感じる理由は、文系のメンタルモデルには、数学(確率)が含まれていないためです。

 

確率のメンタルモデルがありませんので、確率を面立つイメージがわかないので、異星人のような「テクノリバタリアン」であると感じています。

 

確率のメンタルモデルのあるエンジニアにすれば、確率(期待値)を計算しないで、問題解決ができるということは理解不可能です。

 

確率がわからなければ、教育の到達度も、政策の達成度も、計算できません。

 

外部不経済も、SDGsも理解できないはずです。

 

1980年以前には、統計学は、正規分布統計学で、数値表をみて、信頼区間の推定をする他には、ほとんど役に立ちませんでした。

 

つまり、統計学の知識は、アイデアはよいが計算できないのでつかいものになりませんでした。

 

しかし、コンピュータの普及で、統計学が進歩して、ほぼ、なんでも確率が計算できるようになりました。

 

アメリカの教育では、統計学の教育に力をいれて、高等学校のカリキュラムに入っています。

 

アメリカでは、人文科学も、社会科学も、科学の方法である統計学を使います。

 

統計学のない文系の人文科学と社会科学は、世界でも、日本にしか存在しません。

 

期待値の計算ができなければ、思考方法は、過去の事例の引用になってしまいます。

 

データは、交絡バイアスを補正する必要があり、そのためには、前向き研究が必要になります。

 

過去の事例の引用は、交絡バイアスが補正されていないので、間違った研究方法になります。

 

日本の大学の定員の7割は文系です。教師が仮に統計学ができて、統計学をつかった人文科学の研究をしていても、学生には、確率のメンタルモデルがないので、実用レベルの統計学を教えることはできません。メンタルモデルが共有されていないとコミュニケーションがとれないのです。

 

問題解決はわかりません。

ともかく、コミュニケーションは不可能です。

 

筆者は、「因果推論の科学」を読むまで、メンタルモデルに注目していませんでした。

 

メンタルモデルの共有ができないと、因果ダイアグラムの共有ができません。

 

メンタルモデルの共有ができないと、コミュニケーションがとれなくなります。

 

「平和宣言」以前のバベルの塔の世界になります。

 

「因果推論の科学」は、do演算子という新らしい数値言語を生み出しました。

 

今後、新しい数値言語の種類が増加すると思われます。

 

メンタルモデルの問題は、更に、重要になります。