「因果推論の科学」をめぐって(45)

注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。

 

(45)プラセボ定理

 

1)メンタルモデルの基本

 

人間は、考える時に、概念を使います。

 

つまり、メンタルモデルに概念として、組み込まれていない要素を考えることができません。

 

つまり、考える前に、冷静になってメンタルモデルの妥当性と限界を考えることが重要になります。

 

メンタルモデルのフレームワークは、意識しないと見えません。

 

日本社会のように組織が縦割りで、少数の同じメンバーとばかり顔を合わせていると、メンタルモデルに著しい偏りと固定化が生じます。

 

科学の世界では、新発見があれば、メンタルモデルは修正されます。

 

その結果、縦割りの世界は消滅します。

 

現在は、物理学、化学、生物学の境界はありません。

 

新発見によるメンタルモデルの修正プロセスは、以前は仮説検証プロセスでしたが、現在は確率値の修正になります。

ベイズの定理を使えば、新しい情報が1つでも追加されれば、確率値は更新されます。

 

ポパーの時代とは異なり、現在では、科学者の検証のメンタルモデルは、確率値の更新になっています。

 

文系のメンタルモデルには、仮説検証も、確率もありません。

 

このため、メンタルモデルの修正ができません。

 

文系の人は、「人材の多様性が重要である」といいますが、この表現は、検証可能な仮説(因果モデル)ではありませんので、科学のメンタルモデルでは意味不明です。

 

そもそも、「人材」と「多様性」の概念が不明です。概念は、メンタルモデルのコンテキストがないと理解できません。

 

「人材の多様性が重要である」が、「メンタルモデルの修正が必要」という意味であれば、検証可能な命題ではありませんが、それなりに理解できます。

 

2)メンタルモデルのレイヤー

 

ここでは、冷静になってメンタルモデルの妥当性と限界を考える手法として、メンタルモデルのレイヤーを取り上げます。

 

世界は、物質とエネルギーの流れでできています。

 

このメンタルモデルは、地球科学のものですが、現在は、地球温暖化問題の研究が進んで、物理層だけでなく、化学層と生物層も、環境問題の基本的なメンタルモデルになっています。

 

なお、生物相のように、相の文字をつかうことが一般的ですが、ここでは、レイヤーモデルを考えますので、層の字を使います。

 

要約すれば、物理層、化学層、生物層をサブレイヤーとする物質とエネルギーの流れのレイヤーがあります。

 

簡単に説明するために、物質とエネルギーの流れのレイヤーを最下層のレイヤーにおきます。

 

この対局には、自由意思のレイヤーがあります。人間の意思(希望、欲望)のレイヤーです。

 

自由意思のレイヤーを最上層におきます。

 

もちろん、自由意思を念じるだけで、世界は変化しません。

 

この2つのレイヤーの間に、複数のレイヤーが存在します。

 

例えば、石油は、物質とエネルギーの流れのレイヤーにありますが、人間にとって意味がある石油とは採掘可能な石油になります。

 

この石油を採掘するためには、技術、道具、資本が必要になります。

 

技術、道具、資本のレイヤーが最下層の上にあることになります。

 

最上層と最下層の間のレイヤーの概念モデルをつくることは大仕事なので、ここでは、行いません。

 

ここでは、メンタルモデルのレイヤーを考えるメリットの例を示します。

 

脇田晴子氏は、天皇制の文化が特攻の原因になったといいます。

 

これは文化のレイヤーのメンタルモデルなので、最上層に近い文化のレイヤーと思われます。

 

一方、戦前の歴史は、利権の政治で動いていたと思われます。

 

太平洋戦争は、植民地支配の利権に乗り遅れないための利権獲得競争でした。

 

太平洋戦争の開戦は、アメリカの利権の獲得競争と日本の利権の獲得競争の衝突の結果、発生したと考えられます。

 

利権は、石油の採掘を含みます。

 

これから、政治(利権政治)のレイヤーは、最下層近くに位置します。

 

政治(利権政治)のレイヤーで、物質とエネルギーの流れを変えることで、戦艦や戦闘機が作られます。特攻兵器も作られました。

 

政治のレイヤーで、戦争がおきなければ、特攻の文化の問題は発生しませんでした。

 

しかし、脇田晴子氏(専門は中世史)のメンタルモデルには、政治のレイヤーがありませんでしたので、特攻の原因は、天皇制の文化になりました。

 

3)プラセボ定理

 

特攻の原因には、利権の政治と天皇制の文化の2つの要因があります。

 

利権の政治(原因)=>特攻(結果)

 

天皇制の文化(原因)=>特攻(結果)

 

因果推論は、各々の原因の影響を評価します。

 

利権の政治(原因)のモデルでは、天皇制の文化は、交絡因子になり、その影響は補正されます。

 

天皇制の文化(原因)のモデルでは、利権の政治は、交絡因子になり、その影響は補正されます。

 

つまり、因果推論だけでは、対立仮説のどちらの原因がより重要かはわかりません。

 

もちろん、因果ダイアグラムには、交絡因子の情報が含まれています。

 

因果ダイアグラムを使わないルービン流の解析では、対立仮説の存在が曖昧になります。

 

一般に、対立仮説の比較検討には、感度分析を使うことができます。

 

しかし、メンタルモデルが階層構造をしている場合には、下層のメンタルモデルに対応する仮説が、より重要で、感度分析は不要です。

 

太平洋戦争が起きなければ、特攻はないので、利権の政治が、天皇制の文化より優先します。

 

天皇制の文化では、飛行機をつくれませんので、最下層の物資・エネルギーのレイヤーに影響を与えない点で、天皇制の文化は、プラセボ効果になります。

 

エビデンスに基づく科学であれば、プラセボ効果は、排除すべきものになります。

 

しかし、ここで、科学ではあり得ない大逆転が起こります。

 

プラセボ定理

プラセボ効果が、エビデンスに基づく効果に優先するというメンタルモデルが形成される場合がある

 

プラセボ定理が成り立っている場合には、科学の方法は封印されています。

 

太平洋戦争は、利権の政治で動いていました。科学的な太平洋戦争のデータは、最下層に近い資本、資源(石油・鉄など)、兵力などレイヤーのデータを見れば、戦争の状態が把握できます。

 

ところが、こうしたデータは、利権の関係者にとっては、公開したくない秘密になります。公開記録には、こうしたデータは出てきません。戦争のデータは、戦闘に勝ったか、負けたかになります。エビデンスに基づく効果を、プラセボ効果が封印すると都合の良い人が出てきます。

 

特攻の原因のうち、天皇制の文化に基づく部分は、プラセボ効果です。

 

太平洋戦争自体が、天皇制のための戦争であるというプラセボ効果の上になりたっていました。

 

ウクライナ戦争の場合にも、最下層のレイヤーに近い情報は、出てこず、最上層のレイヤーに近い情報(民主主義のための戦争)が拡散しています。

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」も文化を問題にしていますので、プラセボ効果を問題にしています。

 

このように、因果ダイアグラムやメンタルモデルのレイヤーを考えることで、プラセボ定理を見つけることが可能になります。

 

プラセボ効果は、人々が、プラセボ効果は重要であると信じることで維持され、強化されます。

 

ふるさと納税も、アベノミクスも、筆者には、プラセボ効果にみえます。




4)まとめ

 

2024年時点で、プラセボ定理が有効な範囲が多くあります。

 

脇田晴子氏は、プラセボ定理が有効な場合が多いので、文化の研究は重要であると主張しました。

 

しかし、エビデンスに基づく統計学(疫学)の立場では、この主張は認められません。

 

つまり、統計学と文化の研究(人文科学)は対立関係にあります。

 

この2者の力関係が変化するとき、社会は大きく変化します。

 

エビデンスに基づく統計学は、コンピュータとネットワークの進歩、衛星やスマホのログのデータによるビックデータの出現によって拡大しています。

 

この傾向は、1990年以降強化され、2020年代には、巨大な影響力を持つに至りました。

 

プラセボ効果(人文科学)は、エビデンスに基づく統計学の侵略をうけています。

 

橘玲氏の「テクノ・リバタリアン」は、その状況を反映しています。

 

プラセボ効果は、人々が、プラセボ効果は重要であると信じることで維持され、強化されます。

 

この強化メカニズムが崩壊するとプラセボ効果は、失われます。

 

天皇制の文化は、年功型雇用で強化されます。給与がポストに対応する合理的な理由はありませんが、人々が、年功型雇用(プラセボ効果)は重要であると信じることで維持されます。

 

人々が、年功型雇用(プラセボ効果)を信じなくなると部下は、無条件には、上司の命令は聞きません。納得できない命令には、表面上は従いますが、実際には、サボタージュします。

 

転職が可能な人は、年功型組織から、ジョブ型組織に転職します。

 

年功型雇用(プラセボ効果)を信じている人は、3年以内の退職が多いとか、公務員になり手が少ないことが問題であると言います。これは、年功型雇用(プラセボ効果)を信じているから問題があるようにみえるだけです。

 

ジョブ型雇用にして、人材が集まるまで、給与の提示額をあげれば、人手不足は生じませんので、年功型雇用(プラセボ効果)を信じていなければ、人手不足問題は存在しないことになります。

 

このような信念が大きく失われると何がおこるでしょうか。

 

中世のヨーロッパでは、キリスト教の文化が、経済と社会を左右していました。

 

キリスト教が世界のすべてであるという信念が失なわれれば、それに付随した文化には、リアルワールドをかえるプラシボ効果はなくなります。

 

スコラ哲学は、哲学史のなかでは、興味深いかもしれませんが、現在の生活にスコラ哲学が影響を与えている(プラセボ効果がある)と考えている人は少ないでしょう。

 

統計学を取り込んだ科学としての人文科学は生き残るかもしれませんが、文化(プラセボ効果)としての人文科学には、人々がプラセボ効果を信じている間という有効期限があります。

 

数学を含まない文系の人文科学は、後者になります。



5)追記

 

以上の考察では、まだ、理解できない点があります。

 

ロイターは次のように伝えています。

アメリカ政府は8日、新疆ウイグル自治区少数民族の強制労働に関与し、人権を侵害しているとして、新たに中国企業5社からの輸入を禁止すると発表した。

<<

米、新たに中国5社に輸入禁止措置 ウイグル強制労働関与で 2024/08/09 ロイター

https://jp.reuters.com/markets/commodities/GK7HDHJEYFK4ZAOUJFW27HQHGE-2024-08-08/

>>

 

アメリカ政府のこの決定が、公式見解のように人権に基づくのか、あるいは、別の利権が関与しているのかはわかりません。

 

この決定は、将来の輸入の禁止に関するものなので、反事実を扱っていることになります。帰納法では、このような決定を出すことはできません。

 

日本政府は、天安門事件のときも例外ではなく、中国の将来の輸出入に対して、規制をかけたことはないように記憶しています。

 

日本政府は、反事実的思考ができないように見えます。



時事通信は、次のように伝えています。

2024年7月末に追加利上げを決めた後、金融市場で歴史的な株価下落や急激な円高に見舞われた日銀。これを受け、内田真一副総裁は2024年8月7日の記者会見で、早期の再利上げを封印しています。

<< 引用文献

日銀、利上げ戦略に誤算 株安・円高に直面 2024/08/09 時事通信

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6510172

>>

 

しかし、これは、奇妙な決定です。

 

アメリカ政府が、「新たに中国企業5社からの輸入を禁止すると発表」した場合、「輸入禁止(原因)」に伴う影響(結果)の予測(因果モデルの予測)をしているはずです。

 

予測が大きく外れた場合には、因果モデルの修正を行ないますが、それ以外の場合には、変化は、予想済みになります。

 

野口悠紀雄氏の解説が簡略なので引用します。

今後を考えるには、何が暴落の原因だったのかを明らかにしておく必要がある。考えられるものとしては、つぎの3つがある。

 

1) 日本銀行による利上げ

2) FRBアメリ連邦準備制度理事会)による利下げ予告

3) アメリカ景気指標の悪化

 

結論を言えば、1、2ではなく、3が主因だった。ただし、それが直接に影響したのでなく、「それによって、FRBの利下げ幅が大きくなり、円高が進む。それが日本企業の収益を低下させる」という予想が広がったためだと考えられる。

 

ここで重要なのは、「何が予想外のニュース(サプライズ)だったか?」という点だ。予測されていたことは、すでに株価に織り込み済みになっているはずだからである。株価を動かすのは、予想外のニュースだ。

<< 引用文献

日経平均の大暴落は「超円安」依存経済への警鐘だ…!市場を大パニックに陥れた「予想外の原因」2024/08/06 現代ビジネス 野口悠紀雄

https://gendai.media/articles/-/135083

>>

 

日銀は、「日本銀行による利上げ」の影響が限定的であると予測していたはずです。

 

つまり、科学的に考えれば、「早期の再利上げを封印」する理由はありません。

 

しかし、プラセボ効果は違います。

 

追加利上げ(原因)が、金融市場で歴史的な株価下落や急激な円高(結果)の原因であるというプラセボを信じている人がいます。

 

こうしたプラセボを普及させる人は、追加利上げで損をする利害関係者である可能性があります。

 

いったんプラセボが普及してしまうと、政治家はプラセボを封印しないと次の選挙に勝てないと考えるようになります。

 

経済政策は、どうでもよいので、早急に、プラセボを止めろという政治主導の判断が働きます。

 

このように、プラセボは、本来の治療(経済政策)を放棄させてしまいますので、劇薬になります。

 

ここでも理解できない部分は、日銀が、プラセボ効果が生じるリスクを考えて、先手を打つ発想にならない理由です。

 

たとえば、前向き調査研究のデータがあれば、プラセボ効果はかなり封印できたはずです。

 

プラセボを放置すれば、経済政策は崩壊してしまいます。