日本では、地域おこしの観光に関心がもたれていますが、実体は金太郎飴にちかいものです。
随分以前に、マレーシアのランカウェイとペナン、マラッカ、シンガポールにいったことがありますが、その時の印象は、昔の植民地で、架橋の人の多い街というイメージでした。
最近、これらの街は、プラナカン文化として統一した観光のスポットになっていることを知りました。
安里陽子氏によると 1900 年に、シンガポール・プラナカン協会が、会員800人で創設されます。当時のプラナカン共同体は15000人でした。シンガポールの独立後急速に協会が力を失い、1994 年には会員数がわずか 300 人あまりにまで落ち込みます。そこからリー氏らの尽力により、2000 年には 1,500 人を超えています。
奥村みさ氏のよると2008年に、プラナカン・ブームになったようです。
プラナカンの中心は、マカオ、ペナン、シンガポールですが、ブームになって、解釈は拡大しました。
タイ国政府観光庁は、3種類のブックレット「ASEANヘリテージトレイル」日本語版を作成していますが、そのうちの1冊は、「プラナカン カラフルな文化」です。
「プラナカン カラフルな文化」は、プラナカンを次のように説明しています。
説明は、「現在では、ASEAN諸国のプラナカン人口は、フィリピンおよびボルネオ島で暮らすコミュニティーも合わせ、800万人から900万人と推定されています」と書いていますが、観光資源としてのプラナカンはブームですが、コミュニティーが継続しているとはいえないところも多いようです。
日本にも、廻船がありましたし、河川沿いには、舟運の文化もありましたが、ストーリーとして、体系化できていないので、観光資源になっていない気がします。
「プラナカン カラフルな文化」の説明を引用します。
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プラナカンのヘリテージトレイル、
東南アジアの歴史と文化が融合する物語
東南アジアのどこを見回しても、プラナカンの歴史と文化ほど東南アジアの本質を余すところなく体現しているものはありません。
その理由は、プラナカンが、いくつもの多彩なアジアの文化が融合したもので、それが東南アジアに息づき、独自の生活様式を生み出しているからです。プラナカン(Peranakan)という言葉は、子孫や末裔を意味するマレー語から来ています(語中のanakは、マレー語とインドネシア語の両方で子どもを意味します)。正確には、中国南部からマレー半島のアンダマン海沿岸に住み着き、そこからシャムの沿岸の町に広がっていった中華系移民を主に指しています。中華系移民は、船でスマトラ島やジャワ島にも渡りました。そこで現地の人と結婚するというのが一般的な流れでした。そうしてできたコミュニティーは現地の風習を身に付けながら、移民たちが持つ中国の伝統と融合していきました。これがプラナカンコミュニティーの誕生です。
プラナカンの商人は当初ペナン、マラッカ、シンガポール、ジャワ島沿岸部に移住しましたが、その後は錫の産出で栄えていたシャム南部のプーケット、パンガー、ソンクラーを目指して北へ向かう流れと、スマトラ島に渡り主にメダン、パダン、スマトラ南部に進出していく流れができました。さらに言えば、プラナカンとは、中華系移民が婚姻を通じて現地の人々に強力に溶け込んでいったコミュニティーを指しています。そのため、プラナカンコミュニティーはフィリピン、ボルネオ島、インドネシアのスラウェシまで広がっているのです。
プラナカンの人々は、マレーシアやシンガポールでは海峡華人(Straits Chinese)と呼ばれることが多く、タイ南部に暮らす人々を含むプラナカンコミュニティーでは自分たちをババやニョニャと呼んでいます(ババは男性、ニョニャは女性)。例えばプーケットでは、地元のプラナカンの人は自分たちを「プーケットのババ」と呼んでいます。
現在では、ASEAN諸国のプラナカン人口は、フィリピンおよびボルネオ島で暮らすコミュニティーも合わせ、800万人から900万人と推定されています。
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引用文献
再構築される歴史とプラナカン概念 安里陽子 同志社グローバル・スタディーズ 第 4 号
https://global-studies.doshisha.ac.jp/attach/page/GLOBAL_STUDIES-PAGE-EN-147/139606/file/vol4_3.pdf
シンガポール・プラナカンのエスニック・アイデンティティと文化継承 奥村みさ
file:///C:/Users/oiras/Downloads/asiabunka55_001-020.pdf
マレーシアのガイドはこちらです。
https://www.tourismmalaysia.or.jp/pamphlet/pdf/Penang&Malaca_View.pdf