訓詁学と研究アーキテクチャ
(英語圏では、原典主義が人文科学のアーキテクチャではありません)
1)原典主義と訓詁学
今まで、アーキテクチャは、ビジネスやデジタル社会との関係で論じてきました。
筆者は、アーキテクチャの問題は、科学や、生物多様性においても重要な役割を果たしていると考えます。
ここからは、この面も考えてみます。
日本では、人文科学系の研究では、原典主義が採用されていると信じられています。
しかし、これには、疑問があります。
自然科学系の研究では、原典主義は採用されません。
物理学者で、ニュートン力学を使ったことのない人はいないでしょう。
しかし、物理学者で、プリンキピアを原書で読んだことのある人は少ないです。
プリンキピアには数式は出てきません。ニュートン力学を数式で表現したのは、オイラーで、現在では、オイラーの使った数式をより簡単なテンソル表記で表すことも多いです。
物理学を学習するには、物理学の教科書を読めばく、プリンキピアを読む必要はありません。
最近、マックス・ヴェーバーが研究で、実は、最新の研究手法を使っていたという本を読みました。研究内容は、非常に、立派なものです。しかし、研究のまとめ方には、違和感を覚えました。
たとえばなしをあげてみます。仮に、マックス・ヴェーバーが研究で、ニューラルネットワークを使っていたとします。その場合に、該当するマックス・ヴェーバーの研究内容は今までの文章をつかった回りくどい表記から、ニューラルネットワークの数式をつかった表記に改められます。これが出来れば、今まで、マックス・ヴェーバーに触れることのなかったAI研究者も、マックス・ヴェーバーの研究成果を簡単に活用することができるようになります。
ところが、読んだ本の研究のベクトルは逆向きなのです。マックス・ヴェーバーの論文の1文1文を分析して、それがニューラルネットワークのアルゴリズムに対応しているかをチェックしています。その結果、この論文の成果は、AI研究者には、読めないものになります。
筆者には、原文を1文1文チェックする原典主義には、原典の正しい理解のモデルが欠けているように思われます。その結果、情報は汎用性を失っていると思います。
原文を1文1文チェックする方法は、訓詁学です。これは、そこには、絶対に正しい内容が書かれていると考える知識のモデルで、宗教の経典でよく使われます。しかし、科学では、知識は更新され、バージョンアップされます。
物理学の理解のモデルはアーキテクチャと数学です。質量、加速度は、数学の概念ではなく物理学の概念になります。この概念の間の関係はアーキテクチャで記述できます。物理学では、アーキテクチャが同じであれば、文字面が異なっても、同じ内容を表していると判断されます。ですから、ニュートンのプリンキピアのアーキテクチャを正しく表現できていれば、文字や数学の記号が変わっても同じ内容が表されていると考えます。理解が正しいかどうかは、物理学問題集を解いてみればわかります。
物理学の教科書を何回読んでも、問題集を解く練習をしておかないと、普通の人は、試験問題を解くときに躓いて落第してしまいます。数学がとんでもなく得意で、練習問題集を解かずに、ぶっつけ本番で試験問題が楽に解ける人がいる可能性はありますが、例外でしょう。
問題を解くという作業は、アーキテクチャの理解を確認していることになります。
2)ウィペディアの問題
筆者は、学問の本質はアーキテクチャにあると考えています。
例には特に制限がありません。今まで説明してきた内容のクーンのパラダイムを取り上げまそ
訓詁学では、エラーの再生産が簡単に起こります。
これは、最初の出典を正しいと仮定してコピーを繰り返すことで発生します。
欧米では、最初の出典に問題があった場合、誰かが、パッチあてやバージョンアップを提案します。
そしてバージョンアップされた知識が、up-to-dateとして流布しているのが普通です。
日本のように、原典主義が行き過ぎると、バージョンアップが否定されてしまいます。
この2つの姿勢は、ウィペディアに反映されていません。
クーンのパラダイムに限りませんので、同じ用語の日本版と英語版を比較していただければ、5割以上の確率で、次の傾向が確認できます。
英語版は、用語が最初に使われた時間と場所の記載はありますが、その後の変遷を経て、現在使われている用語の意味が記載されています。
日本語版は、用語が最初に使われた時間と場所の記載と原典での意味が書かれています。その後のパッチ、現在の用法の記載はありません。
これから、日本語の研究アーキテクチャは訓詁学になっていることがわかります。
このことがわかったので、最近では、次の2つの中では、(2)を使っています。
(1)ウィペディアの日本語版
(2)ウィペディアの英語版をGoogle翻訳で日本語にしたもの
結論からすると、日本語の人文科学の研究アーキテクチャは、英語圏とは異なること、筆者のニーズは後者だということです。