アーキテクチャ(3)

4)反西洋哲学

 

ルネサンスを経て、スコラ哲学は、ほとんど顧みられなくなりました。

 

それには、ラテン語で書かれているという問題もあると思われます。

 

4-1)二つの文化と科学革命

 

チャールズ・パーシー・スノーは、1959年5月7日にケンブリッジ大学で「二つの文化(The Two Cultures)」 と呼ばれる講演をします。

 

スノーの講義は、ビクトリア朝時代より自然科学教育を犠牲にして人文科学(特にラテン語ギリシャ語)に過剰な報酬を与えたとして、英国の教育体系を非難するものでした。簡単にいえば、理工系の講座の定員を増やすべきだという主張です。

 

ところが、この講演は、イギリスにおける科学的文化と人文的文化の隔絶と対立が、正常な社会の進歩を阻害しているという主張に拡張して読み替えられます。

 

この読み替えでも、隔絶と対立が正常な社会の進歩までをも阻害しているという表現に止まります。しかし、第2次世界大戦後は、科学が大きな成果をあげている時代ですから、対立ではなく、人文的文化自体が、正常な社会の進歩を阻害している可能性を連想させます。

 

このため、二つの文化と科学革命は、大きな論争を巻き起こします。

 

しかし、スノーの次の発言(筆者の要約)をみれば、視点がずらされていると思われます。

 

現代の物理学の偉大な体系は進んでいて、「質量、あるいは加速度とは何か」という簡単な質問は、「君はものを読むことができるか」というのと同等な科学上の質問になっています。しかし、西欧のもっとも賢明な人びとの多くは「質量、あるいは加速度とは何か」に答えられず、物理学にたいして新石器時代の祖先なみの洞察しかもってません。

 

この発言には2つの視点があります。

 

(1)物理学の体系が理解できるように、理工系教育を充実すべきです。

(2)科学には、体系(アークテクチャ)があり、アーキテクチャとそれに基づく基本概念が理解できないと科学は理解できません。

 

4-2)科学革命の構造

 

トーマス・クーンは、1962年に、科学革命の構造(The Structure of Scientific Revolutions、 University of Chicago Press)を出版して、「パラダイム」概念を使ってコペルニクスからボーアまでの科学の歴史に展望します。



クーンは、パラダイムとは広く人々に受け入れられている業績で、一定の期間、科学者に、自然に対する問い方と答え方の手本を与えるものだといいます。科学の歴史を、思考の枠組みのパラダイムを打破し、自然の異なった見方を導入する「パラダイム・チェンジ=科学革命」の歴史と捉えました。従来の累積的・連続的な科学史観は否定されています。

 

クーンは、自然科学には明確なパラダイムがあるが、人文・社会科学にはパラダイムがみられない(不連続は発展は見られない)と述べました。 

 

クーンのパラダイムは提案者の元を離れて、拡大解釈され続けます。このため、クーンは、改訂版に、元の意味を表す言葉として、専門母型(disciplinary matrix)を追加しますが、この言葉を聞いて、パラダイムのことと理解できる人はいないでしょう。クーンが何をいったかより、パラダイムがどのような意味で使われてきたかを考えることにします。

 

クーンのパラダイムモデルは、「古いパラダイムは打破」されると考えますが、マイクロソフト研究所の「第4パラダイム:データ集約型の科学的発見(The Fourth Paradigm: Data-Intensive Scientific Discovery、2009)」では、パラダイムは、併存すると理解されます。

 

これは、どのパラダイムを使うかは、データ依存になるためと思われます。

 

このようにパラダイムの用語には、混乱が多いので、対象別に考えてアーキテクチャと呼んだ方が混乱が少ないと思われます。

 

4-3)西洋哲学のパラダイム

 

クーンは、人文・社会科学にはパラダイムがみられない(不連続は発展は見られない)といいます。 

 

しかし、反スコラ哲学の時代には、それまでのスコラ哲学を否定しています。



スノーやクーンの著著が、売れたのは、それまでの人文・社会科学のパラダイムを否定しているように思われたからと考えられます。

 

人文・社会科学のパラダイムは、交替したのでしょうか。

 

パラダイムアーキテクチャと読み替えれば、経済学では、アーキテクチャの更新が著しく進んでいます。

 

また、心理学は、日本では、人文・社会科学ですが、アメリカでは、自然科学に分類されることも多いです。心理学、認知科学脳科学の間は、ボーダレスになっていて、アーキテクチャは常に見直されています。

 

こうした分野では、既に、アーキテクチャの更新が進んでいますので、「パラダイムは、交替したか」という質問は出ません。

 

この対極にある学問は、西洋哲学ではないでしょうか。

 

反スコラ哲学のように、反西洋哲学があるという話は聞きません。

 

1995年に物理学者がインチキ論文を作成して掲載されるソーカル事件が起こります。人文科学の一部は、ナンセンスなことが暴露されます。

 

ソーカルは、1997年の「知の欺瞞」で、思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用していると批判しています。

 

ソーカル事件も、スノーや、クーンと同じように、「人文的文化が、正常な社会の進歩を阻害している可能性を連想させた」と思われます。

 

しかし、ソーカルの「思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用している」と、スノーの「賢明な人びとの多くは物理学にたいしていわば新石器時代の祖先なみの洞察しかもっていない」は、同じことを指しています。

 

数学や物理学の用語は、アーキテクチャの中で概念を構成しています。概念を理解するには、アーキテクチャの中で、概念を操作して確かめます。物理学の概念を化学で使う場合には、アーキテクチャの違いを意識して、必要であれば読み替える必要があります。エネルギーの保存則は、生態学では、食物連鎖のエネルギー収支に、展開されます。生態学のこの部分は、基礎を物理学によっています。生態系のアーキテクチャは、物理層、化学層、生物層からなると考えます。

 

スノーも、クーンも、ソーカルも、問いかけたのは、次の2点です。(2点目は、類推)

 

(1)物理学を典型に多くの科学は、アーキテクチャと中心的な概念で構成されます。そのことを理解しないと科学は理解できません。

 

(2)アーキテクチャと中心的な概念は、非常に強力なツールなので、人文・社会科学でも取り入れるべきと思われますが、取り入れている分野が限定されているのはなぜでしょうか。

 

西洋哲学を例に考えれば、デカルトは、身体の2分論というアーキテクチャを提案しています。このアーキテクチャが、医学の進歩に寄与したことは確かですが、医学の世界では、アーキテクチャは更新されています。

 

物理学が自然哲学から分岐したように、身体論は、哲学から医学や脳科学に分岐してしまったのでしょうか。

 

筆者には、正解はわかりませんが、アーキテクチャを問題にすれば、正解が見えてくるように思われます。