7)賃上げ論争と日本の労働市場問題
(賃上げ問題は、アンシャンレジームを考えると、よくわかります)
7-1)前提の整理
日本の労働市場問題は混乱しています。
筆者は、混乱の原因は、次の前提の混乱にあると考えます。(注1)
これは、モダンレジームに対応します。
日本は、資本主義で、市場経済をとっています。
戦時中は、お金があっても、配給切符がないと、購入できない商品がありました。
戦後も、米、塩、タバコ、酒などは、専売制度がありましたが、規制緩和で、専売制度がなくなりましたが、大きな問題は起こっていませんので市場経済でよいと思われます。
市場経済が導入されていない分野もあります。医療や教育の分野です。この2つの分野では、問題の現状分析すら、十分に行われていない気がしますが、複雑なので、今回は扱いません。
(2)雇用の維持を優先して市場経済を無視するのは当然(社会主義労働経済)
日本は、年功型雇用をとっているので、雇用の維持を市場経済より優先するという考え方で、筆者は、社会主義労働経済と呼んでいます。
これは、アンシャンレジームに対応します。
次に、解雇が起こるといけないので企業は潰してはならないことになります。
次に、労働者を解雇しなければ、製品を作り続けます。
なので、市場に関係なく作った製品は売れなければならないことになります。
もちろん、過剰生産ですから、市場経済では、価格を下げないと売れません。
そこで、販売価格が下がり、作れば作るほど赤字になります。
企業は、技術開発投資をしませんので、労働生産性があがりません。これは、過剰労働力を抱えているので、レイオフできなければ、技術開発投資は赤字を拡大するだけなので、当然の判断です。しかし、競合する海外企業は、技術開発投資をして、労働生産性をあげてきますので、日本企業の価格競争力は急速に低下して、最後は、撤退して企業を売ることになります。
M&Aされた企業は、実質レイオフに近いことが多いですが、新規に人員募集をしますので、レイオフ禁止条項には抵触しません。
レイオフされた労働者は、非正規雇用になり、給与はグレードダウンします。
こうなることは、事前にわかっていますので、まともな経営であれば、アンシャンレジームの一種の社会主義労働経済を採択するはずがありません。
しかし、「忠誠心の競い合い」以外に特技のない幹部が蔓延していますので、その場合には、アンシャンレジームは止まりません。
注1:
沈聯濤氏と蕭耿氏のように、この2つの労働市場に、ハイエクとポランニーを引用することは可能です。
以下に、沈聯濤氏と蕭耿氏の論旨をかなり自由に要約します。
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(1)ハイエク型の自由市場
フリードリヒ・ハイエクは、1944年に「隷属への道」で、中央計画経済と国有化は必然的に苦難と抑圧、専制につながると警告し、自由市場はおのずから福祉全般を最大化させると論じました。
欧米は、ハイエクが唱えた自由主義秩序を基本的に採用しています。
(2)ポランニー型の社会の規制と政治を通じて大転換をとげた市場
カール・ポラニーは1944年に「大転換」で、市場原理と社会は一種の闘争状態にあると主張しました。資本家は自由市場を通じて社会を搾取し、社会が規制と政治を通じて反撃するという構図を提示しました。
中国はポラニーの「大転換」理論におおむね倣い、世界最大の経済大国(購買力平価に基づく)になり、貧困をほぼ撲滅しました。
ただし、中国の大転換は、経済開放と市場主導の改革なしには不可能で、そのプロセスを可能にし維持する上でアメリカは重要な役割を担っています。(つまり、中国の大転換には、ハイエク型の自由市場が関与しています。筆者補足)
インドやインドネシア、ブラジルといった新興の大国は、富の不平等、環境汚染、生物多様性の消失、地球温暖化など、市場経済による失敗の結果への対処に苦慮していて、ポラニーの議論が当てはまると思われます。
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沈聯濤氏と蕭耿氏の論旨には、大きな問題はないと考えます。
両氏には関係ないことですが、強欲資本主義論争に見られるように、「日本は、ハイエク型の自由市場であるから、貧富の差が拡大している」という主張が横行しています。FDIなどのエビデンスをみれば、日本は、中国以上に、ポランニー型の規制だらけの市場です。
日本は、貧富の差が拡大しているから、ポランニー型の規制を導入すべきだという論者は、アンシャンレジーム派に、洗脳されているように見えます。
労働市場が、ハイエク型の自由市場であれば、賃金は能力に応じて支払われます。つまり、年功型賃金体系は、完全にポランニー型の市場です。
以上のように、混乱を招きやすいので、ここでは、ハイエクとポランニーは、引用しません。
引用文献
破滅の加速か、世界秩序の統合か──「大転換」した中国と紛争を避けるには? 2022/0/8/10 Newsweek 沈聯濤(シエン・リエンタオ、香港大学アジア・グローバル研究所特別フェロー)、蕭耿(シアオ・ケン、香港国際金融学会議長)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/08/post-99305_1.php
7-2)賃金が上がらない原因の現状分析
7-2-1)小幡 績氏の分析
2022/08/06の東洋経済の小幡 績氏の分析を、要約して引用します。なお、書かれていませんが、「voice or exit」の出典はハーシュマン(Albert Otto Hirschman、Exit, Voice, and Loyalty: Responses to Decline in Firms, Organizations, and States、Harvard University Press、 1970)なので、ハーシュマンに合わせて、ステップに分けて、かなり自由に要約しています。
タイトルは、「『賃上げ』という考え方そのものが間違っていることに気づかない日本人 」です。
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ステップ1:voice or exitの説明
株主は、株主総会で声をあげるか(voice)、経営が気にいらなければ、市場で株式を売って、株主であることを辞める(exit)選択肢があります。
労働者は、賃金の増加の声をあげるか(voice)、賃金が安くて気にいらなければ、企業を辞める(exit)選択肢があります。
ステップ2:労働者の課題
労働者のexitの力が弱いことが、日本の賃金が上昇しない、唯一、最大の理由です。
ステップ3:経営者の課題
経営者は「事実上首を切れないから、新陳代謝が進まない。だから、生産性も上がりにくいし、労働市場のダイナミズムも働かない」という。
それはウソだ。例えば、社長が欧米人に替わった日本の製薬会社は管理職の「大幅リストラ」を行った。そもそも日本の外資系企業がリストラできるのに、日系ができないなどという理屈はない。同じ日本の法律の下にあり、裁判所に服しているではないか。
唯一の理由は、日本の経営者の怠慢だ。社員に首と言えない、嫌われたくない、恨まれたくない。円満に社長ポストの任期を満了したい。
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ステップ1は、voice or exitの説明なので、コメントはありません。
ステップ2は、労働者批判ですが、「(1)資本主義経済は市場経済の前提
」で、議論しています。
ステップ3は、経営者批判ですが、「(1)資本主義経済は市場経済の前提
」をとるべきであるが、実態は、「(2)雇用の維持を優先して市場経済を無視するのは当然(社会主義労働経済)」になっているといっています。
そして、その原因は、「日本の経営者の怠慢だ」といっています。
ステップ2の労働者批判ですが、実態が、「(2)雇用の維持を優先して市場経済を無視するのは当然(社会主義労働経済)」になっていれば、労働市場がありませんので、労働者批判は当てはまらないと思います。
ステップ3は、経営者批判では、「日本の経営者の怠慢」に原因があると、小幡 績氏は指摘しますが、筆者は、経営者は怠慢ではなく、自分の利益を守るために、アンシャンレジームに精を出していると考えます。小幡 績氏は、「そもそも日本の外資系企業がリストラできるのに、日系ができないなどという理屈はない」といいますが、その理屈こそがアンシャンレジームだと筆者は考えます。「事実上首を切れないから、新陳代謝が進まない」という年功型雇用の維持は、アンシャンレジームのための理屈にすぎません。年功型雇用の維持は、社長が欧米人に替わって管理職の大幅リストラを受けないための隠れみのです。管理職の給与は、年功型の年齢と社内ルールの経験の多さに基づいているため、実績評価になれば、管理職の大幅リストラにかかってしまいます。このためには、M&Aを排除することが必要で、その結果、FDIのGDP比率が北朝鮮以下の最下位になっているわけです。強欲資本主義は、M&Aを排除するためのキャンペーンです。
引用文献
日本人の「賃上げ」という考え方自体が大間違いだ 給料を決めるのは、政府でも企業でもない 2022/08/06 東洋経済 小幡 績
https://toyokeizai.net/articles/-/609671
「賃上げ」という考え方そのものが間違っていることに気づかない日本人 2022/08/06 東洋経済 小幡 績
https://news.yahoo.co.jp/articles/c60ae8e541bc5e33c31cfdbc4f2076fc3963bb73?page=1
7-2-1)かんべえの分析
実は、小幡 績氏の分析は、かんべえ氏の分析を受けて書かれています。
そこで、かんべえ氏の分析も見ておきます。
かんべえ氏は、「われらが日本社会においては、『恐怖の5段活用』みたいなことになると『安定を守る』ことが金科玉条とされる」といいます。
かんべえ氏は「恐怖の5段活用」を、次のように見える現象と定義しています。
(1)新型コロナウイルスによるパンデミック(感染爆発)は3年目になっても終息せず、
(2)40年ぶりのインフレが世界各地で猖獗(しょうけつ)を極め、
(3)アメリカのFRB(連邦準備制度理事会)は全力で金融引き締めに当たっている。
(4)ウクライナにおける戦争は開戦から5カ月を過ぎても終結が見通せず、
(5)西側諸国が仕掛けた対ロシア制裁はあまり効果を上げていない
そして、かんべえ氏は、「日米の政策の違いは、アメリカは労働者を守り、日本は企業を守ったということになる」としています。
「『安定を守る』ことが金科玉条」ことと「企業を守る」ことは、アンシャンレジームに他なりませんので、かんべえ氏の分析は、未だ、アンシャンレジーム健在なりということになります。
引用文献
異常な日本はいつまで経っても賃上げできない 「恐怖の5段活用」で浮き彫りになる日米の違い 2022/07/30 東洋経済 かんべえ(吉崎 達彦)
https://toyokeizai.net/articles/-/607835
7-3)賃上げ論争と日本の労働市場問題のまとめ
賃上げ論争は、2種類の労働市場問題、言い換えれば、モダンレジームとアンシャンレジームの問題に帰結します。
岸田改革が成立当時、岸田首相は、所得倍増計画を提案しましたが、すぐに、取り下げています。
実は、戦後の池田内閣の時を除けば、現在ほど、所得倍層計画が容易にできるチャンスは、ありません。日本を除くOECD諸国は、現在、所得倍増計画を邁進中です。
例えば、アメリカの場合、2000年の1人当たりGDPは、36,312.78ドルですが、2020年には、63,078.47ドルになっています。率にして1.74倍です。
これは、今までのデジタル社会へのレジームシフトがゆっくりしていた時期の話です。
今後は、レジームシフトが加速しますので、所得が2倍になる時間は、今までより短くなると考えるのが自然です。
次回は、所得倍増計画が容易な理由を説明します。