2025年の展望(5)

 

5)日本語と法度体制

 

水林章氏は、法度体制が、日本語に組み込まれていると主張しています。

この問題を考えます。

 

5-1)日本語の問題

 

Kazumi Kimura氏とMasako Kondo氏は、日本語の文章単位である段落と英語の文章単位のパラグラフは異なると言いいます。

 

段落には、構造がなく、文章単位の目的は、共感を得ることです。

 

パラグラフには、簡単な論理構想があり、文章単位の目的は、論理的な理解をえることです。

 

Kazumi Kimura氏とMasako Kondo氏は、日本語でも、パラグラフを書くことは可能であると言います。

 

<< 引用文献

Effective writing instruction:From Japanese danraku to English paragraphs Kazumi Kimura and Masako Kondo 

https://pansig.org/publications/pansig/2004/HTML/KimKon.htm

>>

 

段落による作文教育のルーツは、1910年前後の「綴り方教育」に遡ります。

 

1945年の敗戦によって、「綴り方教育」を含む戦前の教育は否定されました。

 

1951年1月から4ヶ月間、GARIOA(占領地域救済政府資金)による奨学金により米国国語教育を視察した倉沢栄吉氏は、1952年に、「作文教育の大系」を書き、その中で、パラグラフによる作文教育をすべきであると主張しました。

 

1951年に中学校教師の無着成恭氏が「山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録」を刊行して、ベストセラーになって、段落による作文教育が復活します。

 

山びこ学校は、43人のクラスの生徒全員の学級文集です。

 

つまり、段落の作文のモデルは、手を入れない生徒の作文です。

 

手を入れたとしても、誤字の修正であって、段落の構文の修正ではありません。

 

これは、教師は、生徒の作文に手を入れるなという作文教育の否定になっています。

 

倉沢栄吉氏のパラグラフによる作文教育が普及することはありませんでした。

 

誤字の修正は、漢字書き取りの課題であって、作文教育ではないからです。

 

こうして、1952年には、教師が、生徒の作文に手を入れるという意味での、作文教育が消滅しています。

 

1945年にいったん追放された法度体制は、1950年代に入ると復活しています。

 

1945年に法度体制が、いったん追放されたされた時に、何が起こったかは、法度体制の問題を考える上で、重要なポイントです。

 

なぜなら、そこには、法度体制の問題を解決するヒントがあるからです。

 

「1945年に法度体制が、いったん追放されたされた時に、何が起こったか」を、ここでは、1945年問題と呼び、後で、検討します。

 

共感を中心においた段落は、「無謬性のロジック」に触れることはありません。

 

渡辺雅子氏は、2024年の著書で、次のように言います。

日本の作文教育では、どんなにお金を積んでも、そして戦略的なプロジェクトを実行しても達成することができない価値あるものが育まれ、その作文の論理が社会を支えていることが分かるだろう。(中略)日本では決められたルールよりも、「その場の要請」を感じ取って場にふさわしい言動を取ることが求められる傾向が強い。

<< 

渡辺雅子「論理的思考とは何か」(p.ix)

 

これは、現在でも、日本の作文教育が、段落の教育をしていることを示しています。

 

筆者には、「どんなにお金を積んでも、そして戦略的なプロジェクトを実行しても達成することができない価値あるもの」が全く理解できません。

 

<決められたルールよりも、「その場の要請」を感じ取って場にふさわしい言動を取ること>を指しているのかもしれませんが、これは、法度体制の教育であり、特攻の再現につながります。

 

水林章氏が指摘するように、法度体制は、民主主義の否定です。

 

「集団の意見に従うべきだという考え」は、段落(共感)のメンタルモデルであり、パラグラフ(論理)のメンタルモデルではありません。

 

パラグラフ(論理)のメンタルモデルの教育ができれば、特攻は起こりません。

 

<「その場の要請」を感じ取って場にふさわしい言動を取ること>は、クリテキカル・シンキングの否定であり、科学の否定になります。

 

段落の教育で、科学を否定することが、作文教育の目的になっています。

 

この先に、理論科学のメンタルモデル、相関のメンタルモデル、因果のメンタルモデルがあります。

 

メンタルモデルのグレードアップには、科学的な方法を理解する教育が必要です。

 

ここで、以前に書いた図をグレードアップしておきます。

 

法度体制=>戦陣訓=>必勝の精神=>無謬性のロジック=>段落(共感)の作文教育



5-3)二つの文化

 

1959年に、スノーが「二つの文化と科学革命」を出版し、古典教育が中心の人文科学ではなく、自然科学(エンジニア)教育をしなければ、国の経済が傾くと主張しました。

 

スノーは、エンジニア教育の拡大に貢献しています。

 

スノーは、自然科学のメンタルモデルのない、人文科学のメンタルモデルでは、問題解決ができないと主張しました。

 

日本では、「二つの文化と科学革命」は、段落(共感)の問題として理解されています。

 

和訳の出版元のみすず書房のHPには、次のように書かれています。

スノーの講演の題名は「二つの文化と科学革命」だった。彼が認定した「二つの文化」とは、(彼の呼び方によれば)「文学に造詣の深い知識人」の文化と自然科学者の文化であり、彼は、両者の間には深刻な相互不信と無理解が見られ、それが今度は世界が抱える問題の軽減のために科学技術を応用しようという展望に害を及ぼす結果をもたらすのだ、と主張した。スノーは実際には、自分が認定したと信じた二つの文化の関係はどのようなものであるべきかを問いかける以上のことを行なっていたからであり、さらに両部門の知識を人々に適切に教育するには小中高等学校や大学のカリキュラムをどのように整えるべきかを問いかける以上のことまでも行なっていたからだ。〉(S・コリーニ「解説」)

 

自然科学と人文科学、各々の知的・精神的風土の乖離と無理解がもたらす社会的危機を訴え大論争を巻き起こした書。科学と文化を語る必須文献で、科学社会学が精緻化された現在も、常にルーツとして参照される名著。原書1993年版にもとづき70頁余の新解説を付す。

<< 引用文献

二つの文化と科学革命【新装版】みすず書房

https://www.msz.co.jp/book/detail/09010/

>>

 

前半のコリーニの「解説」は、スノーが「科学技術を応用しようという展望に害を及ぼす結果」が問題であると主張したという説明です。

 

スノーの関心は、「科学技術を応用しようという展望」、つまり、エンジニア教育にあったことがわかります。

 

スノーは、エンジニアのカリキュラムを拡大しました。「二つの文化の関係はどのようなものであるべきかを問いかける以上のこと」と「カリキュラムをどのように整えるべきかを問いかける以上のこと」は、スノーは、問題提起をしたのではなく、エンジニアのカリキュラムの拡大という問題解決に踏み出したことを指しています。

 

後半のみすず書房の解説「各々の知的・精神的風土の乖離と無理解がもたらす社会的危機を訴え」では、「二つの文化と科学革命」は「問いかけ」になっています。

 

日本では、みすず書房型の「問いかけ」の解釈が広まっています。

 

例えば、WEBでは、次のような説明が見つかります。

スノーは科学的文化と人文的文化の深刻な隔絶と対立を問題にし、正常な社会の進歩を阻害しているとする。

 

人文科学のメンタルモデルと自然科学のメンタルモデルが、相互理解することはありません。

 

メンタルモデルの共有ができないので、コミュニケーションが成り立たず「相互不信と無理解」が発生します。

 

これは、養老孟司氏の「バカの壁」に相当します。

 

数学の証明の正しさは、数学の言葉(数式)のメンタルモデルがなければ理解できません。

 

これは、「バカの壁」であって、解決方法はありません。「社会的危機」ではありません。

 

数学の言葉を学習する理由は、数学の言葉が大変便利で、数学の言葉を使うと、今まで解けなかった問題が簡単に解けるからです。

 

数学の言葉をつかうことが、一番楽な方法だからです。

 

変数を使えれば、連立方程式が解けます。

 

変数が使えなければ、鶴亀算を使うしか方法がありません。

 

鶴亀算より、連立方程式の方が遥かに簡単で便利です。

 

数字を使えなければ、鶴亀算もつかえず、鶴亀算の問題は、解決不可能になってしまいます。

 

数字と変数を拒否した人文科学と連立方程式が使える自然科学の間には、「相互不信と無理解」が発生します。

 

しかし、この「相互不信と無理解」は、連立方程式を学習すればなくなります。

 

この「相互不信と無理解」は、「社会的危機」ではありません。

 

「両部門の知識を人々に適切に教育する」「小中高等学校や大学のカリキュラム」とは、連立小方程式を必修にすればよいと言えます。

 

実際に、スノーはエンジニア教育を拡充しています。

 

こんな当たり前のことを無視して、「社会的危機」と騒ぐ人がでる原因は、段落の教育にあります。

 

自分が共感できないことは、「社会的危機」に見えるのです。

 

5-4)政府の対応

 

土居丈朗氏は、「わが国特有の状況として、EBPMを推進する前に行政の無謬性へのこだわりをやめさせることが必要だ」と結論づけていました。

 

法度制度の流れ図を参考に、この問題を考えます。

 

法度体制=>戦陣訓=>必勝の精神=>無謬性のロジック=>段落(共感)の作文教育

 

さて、日本政府のEBPMが、骨抜きになっている実態を説明します。

 

アジャイル型政策形成・評価の在り方に関するワーキンググループ提言」では、「組織文化の構築・定着」が必要であるといいます。

 

これは、メンタルモデルの共有ができていないことを意味します。

 

つまり、EBPMを理解できる因果のメンタルモデルがないと言っています。

 

<< 引用文献

アジャイル型政策形成・評価の在り方に関するワーキンググループ提言

https://www.gyoukaku.go.jp/singi/gskaigi/agile.html

>>

 

アジャイルは、EBPMとは関係がありません。

 

EBPMの実現には、「無謬性のロジック」を捨てて、クリティカル・シンキングをする必要があります。これが、最低限のメンタルモデルになります。

 

クリティカル・シンキングとは、段落(共感)をすてて、共感より論理を優先するパラグラフを採用することです。

 

しかし、官僚は、「無謬性のロジック」を捨てることを拒否しています。

 

そこで、論点をすり替えるために、アジャイルPDCAサイクルが取り上げられています。

 

こうしたキーワードは、EBPMが、非効率な行政事業の中止や廃止に踏み込むことのないためのバリケードです。



EBPMガイドブックには、次のように書かれています。

おわりに

「なるほど、これならやってみようか」と共感できた点はあったでしょう

か?

もし共感できた点があったなら、まずは「やってみる」ことです。

<< 引用文献

EBPMガイドブック~政策担当者はまず読んでみよう!行政の「無謬性神話」からの脱却に向けた、アジャイル型政策形成・評価の実践~

https://www.gyoukaku.go.jp/ebpm/img/guidebook1.1_230320.pdf

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これは、言うまでもなく、段落(共感)のメンタルモデルです。

 

EBPMは科学なので、共感は不要で、論理が理解できないとスタートできません。

 

アジャイルや政策サイクル(PDCA)は、因果推論とは関係がありません。

 

「無謬性のロジック」、つまり、「権威による議論」は、「論理的誤謬であり、この方法で知識を得ることは誤り」です。

 

「無謬性のロジック」は、論理的誤謬です。