2025年の展望(4)

4)無謬性の原則

 

行政の継続性の根拠は、無謬主義です。

 

なぜならば、行政施策が間違っていても、行政の継続性が担保されるとは思えないからです。

 

行政の無謬主義は、日本にしかない思考法で、法度制度の一部であると思われます。

 

今回は、無謬主義について考えます。

 

4-1)行政の無謬主義

 

水野和夫氏は、「シンボルエコノミー」(p.39)で、次のように言います。

「異次元金融緩和」の目的はあくまで消費者物価上昇を2%の軌道にのせ、実質GDP成長2.0%をサポートすることでしたから。正直に答えれば「失敗」だったと言わざるを得ないのですが、それでは、無謬性を信条とする官僚のプライドが許せなかったのでしょう。

 

官僚の無謬性の信条は、「無謬主義」、「無謬性のロジック」、「無謬性の原則」などと言われます。

 

水野和夫氏は、「無謬性の信条」を、無条件に受け入れています。

 

日経新聞は、「無謬性の原則」を次のように説明しています。

日本の政府や大企業の官僚組織でほとんど無意識のうちに前提とされているのが、「無謬(むびゅう)性の原則」である。「ある政策を成功させる責任を負った当事者の組織は、その政策が失敗したときのことを考えたり議論したりしてはいけない」という信念だ。

 

たとえば、次のようなものだ。政府は財政再建に責任があるのだから、それが失敗したときに起きる「財政破綻後」を考えてはならない。

<< 引用文献

無謬性の原則と全体主義 2018/05/22 日経新聞

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO30783840R20C18A5EN2000/

>>

 

林慶一郎氏は、「無謬性のロジック」について、次のように述べています。

財政は破綻しない?――日本を蝕む無謬性のロジック

 

私は財政破綻が近いと言いたいわけではない。しかし、「最悪の事態を想定することをタブー視して、誰もそれを語らない」という現状は、政策論議のあり方としてきわめて不健全である。最悪の事態を想定しないという日本の政策論争の特徴は、日本の大組織に典型的にみられる「無謬性のロジック」によって生み出されている。すなわち、「失敗してはならないのだから、失敗したときのことを考える必要はないし、考えてはならない」。こういう理屈だ。

 

しかし、少し考えれば、このような「無謬性のロジック」がまったく道理に合わないことはすぐにわかる。いくら政府が財政再建しようとしても、人間がやることなので失敗する可能性はある。失敗したときに起きる最悪の事態(財政破綻)が具体的にどういうことで、そのとき善後策として何ができるのかを検討することは政策論として重要だし、政府が当然やるべきことだ。

 

本来は、巨大地震対策や原子力発電所の過酷事故対策と同じように、政府が各省庁の専門的な知見を結集して、財政破綻が国民生活にどのような影響を与えるか検討し、国民への被害を最も小さくするための危機対応プランを考えておくべきなのである。

 

さらに言えば、日本の組織に蔓延する「無謬性のロジック」は、戦時中の日本軍が最悪のケースに備えた兵站の必要性を否定し、無謀な作戦を実行したときの「必勝の精神」のロジックと同じものである(必ず勝つのだから負けたときのことは考えなくてよい)。つまり、一見、理屈に合っているように見えて、実はまったく不合理な日本的思考なのである。

 

ちなみに、これとまったく同じロジックが、国会答弁や記者会見でよく耳にする「仮定の質問には答えられない」という言葉だ。不測の事態を想定し、さまざまなプランを考えて、それを実行することがリーダーの仕事なのだから、仮定の質問になぜ答えられないのか、またこの返答になぜ質問者や我々国民の多くは納得し沈黙してしまうのか。「無謬性のロジック」の恐るべき根深さである。

<< 引用文献

財政破綻という最悪の事態に備えを 2018/09/14 東京財団 小林 慶一郎

https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=79

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小林 慶一郎氏は、「無謬性のロジック」は、「必勝の精神」と同じ不合理な日本的思考であると言います。

 

陸軍省は、「戦陣訓」を1941年(昭和16年)1月7日に制定、上奏し、翌8日の陸軍始の観兵式において陸訓第一号として全軍に示達しました。

 

この「戦陣訓」の本訓(其の一)第七が、「必勝の精神」です。

 

水林章氏は、次のように言います。

徳川権力は、それに代わって、上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従する垂直構造(「将軍→大名→家臣→領民」)を本質とする法度体制を作り上げた。そしてこのような非同輩者的=命令的・隷従的秩序が、実は、それを否定しているはずの、日本国憲法最高法規とする今日の政治体制においても生き残り、社会の根幹を特徴づけているのである。

<< 引用文献

日本語と遍在的天皇制――『日本語に生まれること、フランス語を生きること』をめぐって(2)2023/10/19 

https://book.asahi.com/jinbun/article/15025329

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つまり、ここには、以下の流れがあります。

 

法度体制=>戦陣訓=>必勝の精神=>無謬性のロジック

 

つまり、日本政府と日本の大企業の意思決定(ブリーフの固定化法)は、プラグマティズムの科学の方法ではなく、法度体制の権威の方法になっています。上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従する垂直構造になっています。

 

過去30年の日本企業のパフォーマンスは、アメリカ企業のパフォーマンスに劣ります。これは、S&P日経平均を比べれば自明です。過去30年の日本の一人当たりGDPの伸びは、アメリカの一人当たりGDPの伸びに劣ります。そこには、太平洋戦争で日本軍がアメリカ軍に負け続けたことと同じ科学を無視した法度体制があります。GDPの伸びの違いは、政策決定に、EBPMをつかうか、「無謬性のロジック」を使うかの違いで説明できることがわかります。

 

なお、<国会答弁や記者会見でよく耳にする「仮定の質問には答えられない」という言葉>は、反事実を拒否していますので、因果推論を拒否する非科学的な態度になります。簡単に言えば、「エビデンスを無視します」といっています。

 

土居丈朗氏は、 行政の無謬性とEBPMについて、次のように論じています。(筆者要約)

社会保障改革を今後進めてゆく上でも、EBPM(Evidence-Based Policy Making:証拠に基づく政策立案)は重要だ。安倍晋三内閣の「骨太の方針2018」でも、歳出改革等に向けた取組の加速・拡大として、「各府省は、全ての歳出分野において行政事業レビューを徹底的に実施するとともに、EBPMを推進し、人材の確保・育成と必要なデータ収集等を通じて、予算の質の向上と効果検証に取り組む。」と明記した。

 

これまでのわが国における政策立案では、経験や前例が重視され、科学的な根拠のあるエビデンスは軽視されてきた。科学的根拠に基づき、政策目的にふさわしい政策手段が示されていても、担当部局にとって不都合ならば、その根拠を黙殺することさえあった。経験や前例を重視すると、既得権益が温存されがちで、改めるべきものも改められないことになる。

 

現政権では、EBPMを推進すべく、体制整備に着手した。内閣官房行政改革推進本部事務局に、EBPM推進委員会を設置し、EBPMを推進するための人材の確保・育成、EBPMに資する統計等データの整備や利活用などについて、着々と進めている。

 

しかし、今のままわが国でEBPM推進の体制整備を進めたところで、EBPMは形ばかりに終わる可能性がある。それは、わが国の中央省庁で導入した費用便益分析の現状からも想起される。

 

費用便益分析も、EBPMに資する。費用便益分析で費用便益比(B/C)を推計しても、B/Cの活用のされ方が恣意的になれば、B/Cというエビデンスは形ばかりになってしまう。将来的に費用が予定以上にかかるリスクがあるから、公共事業の採否の決定において、他の先進国では(費用便益比に)1よりも大きく上回る閾値(4という国もある)を設けている。しかし、我が国では、B/Cが1をわずかでも上回ってさえいれば科学的根拠がなくとも公共事業が採択される。

 

わが国の現状をみれば、数値を根拠として示すだけでなく、科学的根拠の数値を持って政策選択ができて初めて、EBPMといえる。

 

行政当局は間違わない、間違ってはいけない、という前提に立つと、EBPMは行政当局にとって不都合なものに成り下がる。

 

わが国特有の状況として、EBPMを推進する前に行政の無謬性へのこだわりをやめさせることが必要だ。

<< 引用文献

EBPMの前にすべきことがある 行政の無謬性をどう克服するか 2018/10/10 東京財団 土居 丈朗

https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=2934

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土居丈朗氏は、「わが国特有の状況として、EBPMを推進する前に行政の無謬性へのこだわりをやめさせることが必要だ」と結論づけています。

 

費用便益分析とEBPMは、政策の優先順位を決めます。

 

「各府省は、全ての歳出分野において行政事業レビューを徹底的に実施する」とは、非効率な行政事業を中止することが、EBPMの主たる目的であることを示しています。

 

「無謬性のロジック」を日本経済新聞は、「ある政策を成功させる責任を負った当事者の組織は、その政策が失敗したときのことを考えたり議論したりしてはいけないという信念」であるといいます。

 

「無謬性のロジック」では、行政事業には撤退はないので、非効率な行政事業の中止を目的とするEBPMは骨抜きにされます。

 

文部科学省のHPをみれば、中教審の答申は、ホイッグ史観になっていて、過去の間違いはなく、ひたすら良い方向に進んできたと書かれています。

 

中教審の答申には、分数のできない大学生問題も、教育不足の問題もありません。

 

もしも、これらの問題の原因が、中教審の答申の間違いにあるのであれば、中教審の答申は、過去の間違いを訂正してバージョンアップしているはずです。

 

しかし、それは、「無謬性のロジック」に反するので、中教審の答申には、分数のできない大学生問題も、教育不足の問題も書かれていません。

 

行政の無謬性へのこだわりは、法度体制のメンタルモデルが作り上げています。

 

水林章氏は、法度体制を、上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従する垂直構造(「将軍→大名→家臣→領民」)であるといいます。

 

「無謬性のロジック」あるいは、「必勝の精神」は、「下位者が上位者に隷従する垂直構造」と同じです。

 

「無謬性のロジック」を放棄するには、下位者が正しく、上位者が間違ってることを認める必要があります。

 

教育現場の教師の発言が正しく、中教審が間違っていたことを認める必要があります。

 

英語版のウィキペディアには、「無謬性のロジック」という見出しはありませんが、「権威による議論」という見出しがあります。

 

日本語の「無謬性のロジック」は、英語の権威による議論(rgument_from_authority)に相当します。

 

権威による議論(Argument_from_authority)

 

権威による議論とは、権威ある人物(複数可)の意見を議論を裏付ける証拠として用いる議論の形式である。

 

権威による議論は論理的誤謬であり、この方法で知識を得ることは誤りである。

 

認知バイアスの根源

 

権威からの議論は、人は権威とみなされるものや権威ある集団の意見に従うべきだという考えに基づいており、心理的認知バイアスに根ざしている。

 

「集団の意見に従うべきだという考え」は、共感のメンタルモデルです。

 

4-2)クリティカル・シンキング

 

「無謬性のロジック」とは、「失敗の事態を想定することをタブー視して、誰もそれを語らない」ことで成り立ちます。

 

英語版のウィキペディアクリティカル・シンキングCritical_thinking、批判的思考)には、次のように書かれてます。(注1)

クリティカル・シンキングとは、入手可能な事実、証拠、観察、議論を分析して、健全な結論や情報に基づいた選択を行うプロセスです。これには、根底にある仮定を認識し、アイデアや行動の正当性を示し、さまざまな視点との比較を通じてこれらの正当性を評価し、それらの合理性と潜在的な結果を評価することが含まれます。クリティカル・シンキングの目標は、合理的、懐疑的、かつ偏りのない分析と評価を適用して判断を下すことです。クリティカル・シンキングは個人の知識基盤(knowledge base)に依存しており、個人が従事できるクリティカル・シンキングの優秀さはそれに応じて異なります。

 

英語版のウィキペディアの「知識基盤(knowledge base)」(コンピュータ・サイエンス)には、次のように書かれています。

知識基盤システムは、世界についての事実と、それらの事実を推論して新しい事実を推測したり矛盾を指摘したりする方法を表す知識ベースで構成されています。

 

これは、コンピュータ・サイエンスの用語ですが、クリティカル・シンキングの「知識基盤」も、メンタルモデルを指すと思われます。

 

つまり、クリティカル・シンキングがなければ、科学が成り立ちません。

 

クリティカル・シンキングがなければ、EBPMが成り立ちません。

 

クリティカル・シンキングは、「失敗の事態を想定することをタブー視して、誰もそれを語らない」こと(無謬性のロジック)の対極にあります。

 

土居丈朗氏は、「わが国特有の状況として、EBPMを推進する前に行政の無謬性へのこだわりをやめさせることが必要だ」と結論づけています。

 

これは、「無謬性のロジック」(失敗の事態を想定することをタブー視して、誰もそれを語らない)を破壊して、クリティカル・シンキングを実現する手順を踏まないと、EBPMは達成できないと言いかえられます。

 

注1:

エビデンスと同様に、日本語のクリティカル・シンキングの説明は、ほとんどが間違っています。その間違いが、引用されて、間違いが拡散しています。

 

筆者は、こうした場合には、英語版のウィキペディアで、正しい用語に戻ることにしています。

 

4ー3)契約の罠

 

冷泉彰彦氏は、日鉄とUSスチールのバイデン大統領の告訴についてコメントしています。(筆者要約)

日本企業がバイデン大統領を訴えても、国家間の争いになる危険や、報復の危険があるという心配は無用です。日鉄は大統領個人を訴えたわけではなく、連邦政府の1つの機関としての大統領に対して民事訴訟を提起しただけです。

 

アメリカの場合は、刑事裁判のタイトルとして「合衆国対被告」の裁判という表記をします。一方で、民事裁判の場合は「原告対被告」として表記します。どちらの場合も、2つの相対する利害を調停するのが裁判という考え方です。そこに上下関係はありません。今回の場合は「原告対合衆国」ということになりますが、それぞれが弁護士を立てて争う通常の裁判になります。

 

報道によれば仮に買収が破談となった場合には、日鉄には6億5600万ドル(約890億円)の違約金支払いが発生するそうです。

 

これはUSスチールと日鉄という民間企業同士の合意事項です。取引の当事者がコントロール不能なリスクについては、折半が大原則です。最終的に、日鉄が、違約金負担に追い込まれた場合には、日鉄が、契約の罠にはまったと言えます。

 

かつて東芝アメリカの原子炉メーカーのウェスティングハウスを買収した際に、原子炉販売後に規制が厳格化された際の対応コストを全額負担するという条項にサインしていました。この契約条項は、後に福島第一の事故を契機に施行された規制を受ける中で、実際に発動されました。そして、最終的には東芝本体も事実上の債務超過に追い込むほどのインパクトを持ちました。

 

日本独特の「誠実協議条項」、つまり契約に定めのない事項や解釈について疑義が生じた場合は、当事者は「誠意をもって協議し解決する」という甘えた文書表現に慣れた中で起きた「隙(すき)」が背景にありました。契約書というのは交渉の結果であり、買収や取引の交渉とは知的な格闘技だというカルチャーにまだ日本経済が慣れていなかった時代の出来事かもしれません。

 

リーガル・マインドとは、実定法に形式的に従うということではなく、法律というインフラを手段として使いながら、自らの利害を守っていく知的ゲームです。

<< 引用文献

日鉄はUSスチール買収禁止に対して正々堂々、訴訟で勝負すればいい 2025/01/08 Newsweek  冷泉彰彦

https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2025/01/us.php

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冷泉彰彦氏は、「日本企業がバイデン大統領を訴えるというと、国家間の争いになる」という法度制度の解釈を否定しています。「原告対合衆国」の間には、上下関係はないといいます。

 

冷泉彰彦氏は、日本企業が契約の罠に嵌る原因は、日本独特の「誠実協議条項」にあるといいます。

 

冷泉彰彦氏は、「リーガル・マインドとは、自らの利害を守っていく知的ゲーム」であるといいます。

 

自らの利害を守っていく知的ゲームに勝ち残るために必要な推論は、言うまでもなく、クリティカル・シンキングです。

 

クリティカル・シンキングが出来ていれば、東芝本体が事実上の債務超過になることはありませんでした。

 

林慶一郎氏は、「無謬性のロジック」を捨てて、「政府が各省庁の専門的な知見を結集して、財政破綻が国民生活にどのような影響を与えるか検討し、国民への被害を最も小さくするための危機対応プランを考えておくべき」といいます。

 

財政破綻が国民生活にどのような影響を与えるかの検討」は、クリティカル・シンキングになります。

 

日本政府が、クリティカル・シンキングを封印すれば、日本が事実上の債務超過になる可能性があります。あるいは、既に、日本が事実上の債務超過になっている可能性もあります。

 

「無謬性のロジック」のもとの均衡財政主義は、クリティカル・シンキングを封印しているので、全く無意味です。

 

これは、均衡財政主義の下では、費用便益分析とEBPMに基づく、歳出の削減が一度も行われていないことで確認できます。

 

歳出の削減をしない均衡財政とは、歳入の拡大になります。

 

つまり、均衡財政主義は、名ばかりで、実態は、歳入拡大主義、増税主義になっています。

 

効果のない、あるいは、非効率な歳出を削減しないで、増税を繰り返せば、経済は破綻します。

 

4-4)アカデミズムの闇

 

セキュリティの専門家の一田和樹氏は、次のように言います。(筆者要約)

偽・誤情報に関するさまざまな分野の専門家が集まったある省庁の方が参加する非公式の勉強会に参加した時のことだ。

 

私は、「なぜ、効果が検証されていない対策を行うんでしょう?」と聞いた。

 

私のこの質問は、「おそらくもっとも言ってはいけない質問だった」と思う。

 

省庁の方は、私と、数回、やりとりしたあとで出席していた他の専門家の方々に話しを振った。

 

名指しされた気鋭の若手研究者は、「効果についてはともかくとして、記録を残すという意味でやる意義はあると思います」と言った。

 

いま行っている偽・誤情報に関する調査研究や対策が、ほんとうに効果がある、役に立つ、と思っている専門家は、ほとんどいないと思う。

 

多くの専門家は偽・誤情報関連の施策に危惧を抱きつつも、予算を割り当ててもらった自らの調査研究のみに没頭しているのではないか?

 

もちろん、その専門家の方を責める意図はない。特に日本では、多くの専門家は政治とは距離をおいて、自身の研究を中立的に進めようとしており、その方もそうだったにすぎない。日本では、私の空気を読まない態度を責められるべきなのだろう。

<< 引用文献

「偽情報・誤情報」研究が直面する5つの課題 2024/12/29 Mewsweek 一田和樹

https://www.newsweekjapan.jp/ichida/2024/12/5.php

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「無謬性のロジック」は、「失敗してはならないのだから、失敗したときのことを考える必要はないし、考えてはならない」と言います。

 

「なぜ、効果が検証されていない対策を行うんでしょう?」という質問を「おそらくもっとも言ってはいけない質問だった」と思う判断基準は、この質問が、「無謬性のロジック」に違反しているからです。

 

一田和樹氏は、「いま行っている偽・誤情報に関する調査研究や対策が、ほんとうに効果がある、役に立つ、と思っている専門家はいない」と考えています。

 

「無謬性のロジック」に違反する研究ができない問題は、「偽・誤情報に関する調査研究や対策」に限定されません。

 

例えば、過疎問題や少子化対策の専門家も、「いま行っている調査研究や対策が、効果がある、役に立つ、と思っていない」可能性があるはずです。

 

「日本では、多くの専門家は政治とは距離をおいて、自身の研究を中立的に進めようとしている」は、名指しされた気鋭の若手研究者は、御用学者ではないという説明です。

 

御用学者は、「無謬性のロジック」にどっぷり浸かっていますので、「調査研究や対策が、効果がなく、役に立たない」のは、当然です。

 

しかし、一田和樹氏は、<「無謬性のロジック」の影響は、御用学者にとどまらず、広く、観察されている>と言っています。

 

例えば、過疎の問題を考えます。

 

過疎の実態をいくら調べても、問題解決にはならないので、役に立ちません。

 

これは、病気にかかった人をいくら調べても、治療法がわからないのと同じ構造です。

 

問題解決の基本は、反事実にあります。

 

今までの行政政策を事実とすれば、仮に、今までとは違った行政施策(反事実)が行われていた場合を想定します。

 

複数の反事実の中から、有望な行政施策を抽出します。

 

これは、個人の知識基盤を使ったクリティカル・シンキングです。

 

反事実を検討することで、問題解決への糸口が見つかります。

 

次のステップは、仮説を立てて、エスティマンドを作成することです。

 

反事実を扱えば、因果推論になり、前向き調査研究で、介入時に得られたデータがエビデンスになります。

 

しかし、反事実は、「無謬性のロジック」に触れます。

 

そこで、過疎対策が効果を発揮していると思われる先進事例地区を調査して、先例主義で、その手法をコピーします。

 

しかし、先進事例地区と、対象とする問題解決地区では、地形、人口構成、産業構造などの交絡因子がまったく違います。

 

論理的に考えれば、先進事例地区の手法のコピーは、最初から失敗することがわかっています。

 

その理由は、交絡因子の違いが無視できる場合は、基本的にないからです。

 

問題解決には、反事実を使った因果推論が不可欠です。

 

反事実を使った因果推論は、「無謬性のロジック」に触れるので、封印されています。

 

こうして、効果がないことが自明な政策が繰り返され、税金は、無駄に消費されて行きます。

 

一方、アカデミズムは、この問題をとりあげません。

 

効果がなく、役に立たない調査研究や対策が繰り返されています。

 

こうなる理由は、相関と因果の区別ができないか、一田和樹氏が指摘しているように、「無謬性のロジック」に触れることを回避しているかの、何れかと思われます。

 

後者の場合は、土居丈朗氏の「わが国特有の状況として、EBPMを推進する前に行政の無謬性へのこだわりをやめさせることが必要だ」という結論に、一致しています。