Purposeとmissionについて、もう少し、自分の頭で、考えてみます。
Purposeとmissionの違いは、レゾンデートル、存在理由そのものにあると考えます。
Purposeとmissionについて、論ずる前に、確認しておくべき視点は、因果モデルです。
アングロサクソンは、ニュートンに見られるように、因果モデルで物事を考えてみます。
数学的には、一部の法則は、ケプラーの法則と等価なのですが、ケプラーは、因果モデルで世界を見ていませんでした。
1)原因と結果を区別する
平等について、よくなされる説明は、機会の平等と結果の平等があるという説明です。
最近、ニュースに取り上げられている10万円の配布は、結果の平等です。
一方、米国では、教育機会の平等、就業機会の平等が重視されます。
職員の採用にあたっては、人種や年齢を聞くことは、機会の平等に反するとして、排除されます。
日本では、結果の平等と機会の平等は、同じカテゴリーの選択の問題のように、取り扱われますが、因果モデルでは違います。
「機会の平等=原因、結果の平等=結果」です。結果を手当しても、原因を直さなければ、問題は解決しません。
つまり、10万円配布は、緊急避難としてはありうる手段ですが、本来、検討すべきは、就業機会の平等問題である「正職員と非正規職員の差別、年功型賃金体系に見られる年齢や継続勤務年数による差別」問題の解決です。
機会の平等の議論を放置して、結果の平等を論ずれは、原因が放置されますので、組織はつぶれます。
2)組織運営の原因
因果モデルでは、組織を運営するためには、原因(mission)が、必要と考えます。
これは、キリスト教的な世界観かもしれませんが、組織や個人は、何のために生きるのかという目的(mission)が、必要です。
マッウスウェーバーは、プロテスタントの倫理と資本主義の発展に、関係があると主張しています。
つまり、資本主義には、missionが必要だという訳です。
ヒューリスティックは、missionがない場合に、繰り返されます。
例えば、義務教育のmissionは、何でしょうか。
一時期、分数のできない大学生が話題になったことがあります。
分数は、中学校までに、学習が完結します。
つまり、中学校の卒業証書は、分数ができることを保証するはずです。
でも、実態は違います。
そうなると、中学校の数学の授業のmissionは、何でしょうか。
2020/09/24に、文部科学省は、高等学校について、次のようにいっています。
スクール・ミッションの再定義/スクール・ポリシーの策定
各設置者が、各学校の存在意義や期待される社会的役割、目指すべき学校像をスクール・ミッションとして再定義。
各学校は、スクール・ミッションに基づき「卒業の認定に関する方針」「教育課程の編成及び実施に関する方針」「入学者の受入れに関する方針」の3つのスクール・ポリシーを策定・公表し、カリキュラム・マネジメントを通じて教育活動を一貫した体系的なものに再構成。
これが、正しければ、「卒業の認定に関する方針」には、分数の習得は、含まれていないことになります。
3)ブルシットジョブ
デヴィット・グレーバーは、ブルシットジョブが、蔓延していることを指摘しました。
大学で、学生に、授業をします。分数のできない学生がいる場合もあります。
授業をして、出席をとり、学生が、試験に合格すれば、卒業証書は出せます。
もちろん、試験に分数をだしてはいけません。
落第が多くなると、大学は、文部科学省から、クレームをつけられます。
親切な教員が、大学で、分数を教えると、カリキュラムが、大学にふさわしくないと、文部科学省から、クレームをつけられます。
もちろん、この状況は、大学に限ったことではなく、高等学校でも、中学校でも、繰り返されている風景です。
このタイプの授業は、どうみても、ブルシットジョブです。
なぜ、ブルシットジョブが発生するかといえば、missionが形骸化して、守られないからです。
日本では、missionは、社会的な批判に対する免罪符のように、扱われます。
しかし、欧米のように、世界を因果モデルで考えれば、実効のないmissionは、失敗の原因の作成であり、あってはならない事態になります。
4)組織の改廃ーmissionからpurposeへ
さて、以上は、missionについての考察です。それでは、なぜ、missionが、purposeになったのでしょうか。
筆者は、そこには、デジタル化社会が、影響していると思われます。
コダックという会社は、かつては、世界最大のフィルムメーカーでした。missionは、カメラに、良く写るフィルムを提供することでした。
しかし、フィルムカメラがなくなって、コダックは、倒産して、現在は、ありません。
「カメラに、良く写るフィルムを提供する」というpurpose「レゾンデートル、存在理由」がなくなってしまったからです。
2015年に、英オックスフォード大学のマイケル A. オズボーン准教授とカール・ベネディクト・フレイ博士は、10~20 年後に、日本の労働人口の約 49%が就いている職業は、人工知能やロボット等で代替可能になると予測しています。
これは、労働人口の予測ですが、恐らく、今後、半分の企業は、コダックと同じように、purpose「レゾンデートル、存在理由」がなくなってしまう可能性があります。
ですから、問題は、missionではなく、purposeに置き換えねばなりません。purposeがなくなってしまえば、企業は存続できなくなりますので、purposeを書きかえて、労働者を入れ替えて、存続するか、廃業するかの選択をしなければなりません。
missionがあっても、いつまでも、そのmissionが未達であれば、やはり、purpose「レゾンデートル、存在理由」がなくなってしまうので、存続はできなくなります。
DXをすすめて、生産性を上げれば、企業が生き残ると考えることは、因果モデルを無視しています。DXは、purposeに強く、作用します。
50年前の、インターネットも、電子書籍もなかった時代であれば、図書館が充実した学校にいって学習することが、もっとも効率のよい学習方法でした。
現在は、ネットワークとクラウドで、学習に必要な大抵のものは、非常に安いコストで手に入ります。
藤井聡太氏は、将棋の最年少記録を更新していますが、彼の学習法では、コンピュータや、インターネットも活用されています。
同様に、学校の授業は、最も効率のより、学習の場というpurposeを失っています。コンピュータや、インターネットの方が、効率的な場合も多いのです。
学校は、purposeを書きかえて、教員を入れ替えて、存続するか、廃業するかの選択をしなければならないわけです。
学校は、一例にすぎません。企業や、公務員などの組織、専門職も、同じように、purposeを書きかえるか、廃業するかの選択をせまられるわけです。
筆者は、missionからpurposeへというキーワードの切り替えは、こうしたDXの状況に対応したものであると考えます。
https://www.mext.go.jp/content/20200917-mxt_kyoiku01-000009959_2.pdf