11)形而上学とドキュメンタリズムの構造
官僚が、無謬主義を実現するためには、形而上学のエビデンスに基づかない政策を遂行する必要があります。
このための装置がドキュメンタリズムになります。
ここでは、ドキュメンタリズムの具体例をあげます。
11-1)マイナンバーカードの場合
ベータテストの結果に不備があったか、ベータテストの方法に不備があったことがわかっています。
エビデンスに基づく政策を行った場合、政策効果は、マイナンバーカードなしとマイナンバーカードありの効果(結果)の差になります。
エビデンスに基づく政策では、霞が関には、この効果のデータを収集して評価する義務が生じます。
ベータテストはその一部に含まれますので、エビデンスに基づく政策が行われた場合には、デジタル庁、総務省の担当者の責任問題になります。
これは、世界標準の科学的な政策執行の手順です。
しかし、こうすると、官僚の責任問題が生じ、無謬主義がくずれます。
これを避けるためは、政策を、形而上学のドキュメンタリズムにする必要があります。
仕様書には、ドキュメンタリズムで、精神論を書き、エビデンスをフィードバックさせないようにします。
こうすることで、責任は、発注側にはなく、全て、受注側に押しつけることができます。
ここでは、無謬主義のために、エビデンスに基づく科学的手法ではなく、ドキュメンタリズムが採用されます。
マイナーバーカードの不備は、最初から予想されていたので、霞が関は、ドキュメンタリズムで、責任が及ぶことをブロックしています。
不具合の原因は、孫請けにありましたが、責任は、受注側が負う構造になっています。
11-2)ビッグモーターの場合
エビデンスに基づく政策を行っている場合には、マイナンバーカードと同じように、実際の保険料の支払い実態のデータを計測して、霞が関にフィードバックする必要があります。
しかし、このループを作ると、不正があった場合には、霞が関の担当者は、責任をとることになります。そこで、ドキュメンタリズムを使います。
BMには、損保会社から天下りがいます。
つまり、間接的には、BMと霞が関は利益相反になり、中立な行政指導はできない可能性があります。
BM事件については、BMへの損保会社への天下りと損保会社の責任が問われています。
利益相反から、考えれば、損保会社への霞が関からの天下りと霞が関の行政指導担当は、倫理的な責任があります。しかし、それは、ドキュメンタリズムでブロックして、表面化しないと思われます。
11-3)教師不足問題
ここでも、政策評価のために教育現場のエビデンスデータを文部科学省がモニタリングすることはありません。
文部科学省は、適切なドキュメンタリズムを実施しているので、問題がないという主張です。
文部科学省の指示や指導は多種多様です。例えば、カリキュラムは、その一部です。
科学的な視点で見たカリキュラムの良し悪しは、「生徒の理解が進む割合が最大であるカリキュラム」が良いカリキュラムです。つまり、Δ理解度を計測して、それに、あわせせて、カリキュラムをチューニングする必要があります。
理解度を計測すると、文部科学省や中央教育審議会の責任問題が生じます。これをさけるために、ドキュメンタリズムをつかった精神論が横行します。
カリキュラムは適切に書かれているので(ドキュメンタリズム)、問題は、教育員会か、学校長にある、ということになります。
つまり、ドキュメンタリズムとは、問題が起こった場合に、問題を解決するのではなく、トカゲのしっぽ切りで、責任を回避する装置と言えます。
11-4)介護施設の事故
エビデンスベースであれば、厚生労働労働省は、介護施設の介護のエビデンスを計測して、フィードバックする必要があります。予算は、介護の質を最大化するように改善される必要があります。
しかし、そうした場合、厚生労働省の担当者には、責任が生じます。そこで、エビデンスは集めずに、精神論のドキュメンタリズムを押し通します。
モノをつくる工場では、エビデンスを計測して、品質管理を行わなければ、規格外の不良品が発生します。もちろん、どの工場でも、不良品の発生をゼロにすることはできません。しかし、不良品の発生を最小限にするシステムがなければ、品質管理の放棄になり、商品になりません。
介護施設では、品質管理は放棄されています。
つまり、介護施設で、過去に起きた、イジメや最悪の場合の殺人が起こるリスクは、予見可能でした。いつ、どこで、起こるかは不明ですが、品質管理をしていないので、いつか、どこかで、問題がおこる、高いリスクは、予見されていました。
厚生労働省は、ドキュメンタリズムで、この点には、責任はないという主張です。
つまり、問題が生じた場合には、県の担当部署と介護施設が責任を取ることになります。
11-5)構造
ここにあげた例は一部ですが、行政指導と補助金の配布のあるシステムは、すべて、ドキュメンタリズム(形而上学)の問題を抱えています。
共通の「Aー>Bー>C」構造があります。
リアルワールドが、Cに接しています。ここにエビデンスがあります。
科学の方法では、Cのエビデンスを「Cー>Bー>A」と逆順にフィードバックします。
Cのエビデンスが実現したい結果です。原因(補助金)は、Aー>Bー>Cの順に流れます。
Cのエビデンスに問題がある場合には、原因を改善する必要があります。これが、科学の因果モデルです。
エビデンスに基づく政策決定とは、政策(原因;補助金の配分の仕方)を変化させて、Cのエビデンス(結果)を最適化する政策を選択するプロセスになります。
欧米では、2000年頃から、これが標準的な政策選択の手法になっています。
「文部科学省ー>教育委員会ー>学校長」の場合には、正確には、「文部科学省ー>教育委員会ー>学校長ー>担当教員ー>生徒」の構造になります。「生徒の理解」(結果、エビデンス)は、「担当教員ー>生徒」の部分で生じます。
「生徒の理解(結果)」に問題があった場合には、「担当教員」または、「生徒」に問題があったことになります。しかし、どのような担当教員がいるか、どのような生徒がいるかというファクトのデータは計測されていません。つまり、末端まで、形而上学になっています。形而上学は、リアルワールドとは関係がありませんので、いつか、どこかで、破綻します。現実に学校は破綻しています。
11-6)まとめ
前回、「科学の方法よりも、政治決断の方が優れている」という判断基準であれば、エビデンスはどうでもよいので、ポストや予算を増やせば、よいことになりますと書きました。
「政治家と霞が関の官僚は、ポストや予算を増やせばよいという政治決断の方が、エビデンスに基づく科学の方法よりも優れていると考えている」という政治判断優先仮説を採用すれば、現在起こっていることは説明可能です。
科学の方法では失敗は付き物です。
科学者の実験は、殆どが失敗です。
エジソンが、白熱電球を発明したときには、テストした素材の99%以上は失敗でした。
科学の方法を受け入れるために、失敗に耐えるマインドが必要です。
科学の方法では、失敗の責任を問われることはありません。
問題は、失敗から学んで、失敗のリスク(確率)を減らす努力をしないことです。
この場合には、説明責任が生じます。
人間の脳は環境に左右されやすく、年功型組織に10年以上いると失敗に耐えられなくなります。
大学の業績もドキュメンタリズムで、論文の本数になっているので、事例報告のような失敗のあり得ない論文ばかりになっています。
医師が患者を治療するとき、助からないで死亡する患者が必ずいます。
これは、医療の失敗ですが、医師は失敗の中でもベストをつくすという目標を持っています。
教育の場合には、履修主義であれば、学力が身につかなければ失敗です。分数のできない大学生ができるのは失敗です。
どんなに努力しても、分数の出来ない大学生をゼロにはできないと思われます。しかし、医師と同じように、分数の出来ない大学生を最小にする努力は可能です。
現在の文部科学省は、科学の方法ではなく、形而上学のドキュメンタリズムに走っています。文部科学省は、履修主義で、分数のできない大学生の存在を計測しません。
授業を所定時間だけ聞けば卒業できる方法で、学力は問いません。学力不足の学生を進級させないと学校は、文部科学省や教育員会から指導をうけ、大学の学長や校長は左遷されます。
これは、政治判断優先仮説からみえば、適切な政治判断になりますが、筆者は許容する気にはなれません。