呪文と政治・文学
今回の内容は、書きながら、自分でも、混乱していると思いますが、混乱の状況を記載してみます。
発端は、遠藤誉氏の記事です。記事は、尖閣諸島問題について、次のように書いています。
日本は「遺憾である」といった、言っても言わなくても同じ効果しか持たない「呪文」のような言葉を口にするだけで、言動が一致していない。
この「呪文」という部分が気になりました。なぜなら、この「呪文」と前に書いたブログ「権力とアナウンス効果」(2021/03/01)が、似ていると思ったからです。つまり、遠藤誉氏は外交について「呪文」と言っていますが、「言っても言わなくても同じ効果しか持たない『呪文』のような言葉を口にする」ことは、別に、外交に、限らないと思うわけです。
「呪文」で検索すると古市憲寿氏の記事が、引っ掛かりました。
この「呪文」に対する見解は、遠藤誉氏とは逆のように思われます。
考えてみれば、文学作品に感動するのも「呪文」効果かも知れません。
一時期、文学部廃止論が出ていましたが、税金を投入して「呪文」の研究をしても始まらないということかもしれません。
冒頭、「自分でも、混乱していると思う」と、書きましたが、筆者の立場は、文学部廃止論の前に、人文科学は、認知科学の進歩に対峙する必要があるというものです。認知科学の進歩により、認知バイアスの存在が明らかになりました。言葉で考える手法には、認知バイアスによる誤認のリスクがあります。この問題に対峙するには、人文科学の方法論を変える必要があります。方法論を変えた人文科学は、人文科学ではないかもしれませんが、方法論を固定した学問は、存続することはありえないと考えます。
というわけで、筆者は、政治は、言葉(呪文)ではなく、社会経済の実態を変えるべきであると思います。しかし、呪文による認知バイアスをつかって、社会を変える手段が存在しないとは言えません。トランプ前大統領のツィッターは、非常に有効な「呪文」でした。日本の政府の要人の発言には、トランプ前大統領のツィッターのような「呪文」効果はありません。しかし、効果のない「呪文」を唱えるだけで、他に、何もしなければ、遠藤誉氏が、外交で心配しているように、政治一般でも、結局は、手遅れになります。それは、古市憲寿氏の言うように、「悲しむべきことではない」と開き直って良いとはとても思えません。
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コロナ対策の成否とリーダーへの評価は比例せず 政治家の言葉は“呪文”か ;古市憲寿;
デイリー新潮;2021/01/28
https://news.yahoo.co.jp/articles/a5ba256fa5fd6563a633ce194430031b0bb6134e
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権力とアナウンス効果(Critical Thinkingの例題)2021/03/01
https://computer-philosopher.hatenablog.com/entry/2021/03/01/000000_2