県営大角豆(ささぎ)アパート~つくば市とその周辺の風景写真案内(135)

県営大角豆(ささぎ)アパート

県営大角豆(ささぎ)アパートは山下和正の1980年の作品です。既に紹介した、パークサイドつくば松代は1993年の山下の作品ですから、10年以上の開きがあります。

つくば研究学園都市への国の研究機関の本格的な移転は1978年に始まり1980年に完了します。それ以前に先行して移転していた機関は、筑波大学などごく一部です。1978年には筑波大学への移転完了に伴い旧東京教育大学は閉鎖されます。1978年時点では、大通りの建設も並行して進められていました。筑波大学移転時点では、道路は旧道だったのです。

1976年には大高正人の設計で「筑波新都市記念館」が竣工していますが、これは例外で、1980年までは、国の研究機関の建物とそこで働く職員のための団地(公務員住宅)の整備と移転が急速に進められます。公務員住宅で一番古かったのは竹園団地で、公団住宅の設計そのものでした。それ以降の公務員住宅は、若干間取りに修正が加えられますが、設計思想は、公団住宅とかわりません。このため、この時期の住宅建築で、見るべきものはありません。また、現在は、公務員住宅は取り壊され、用地が払い下げられて、民間の団地開発が進んでいます。今から、考えると学園都市と理想をあげながら、その当時の公務員住宅計画は、かなり貧相でした。しかし、1980年頃は、日本人の一人あたりGDPはまだ低く、特に、住宅環境は劣悪でした(注1)。

1980年に公務員住宅ではなく、本格的な民間の団地計画を始められたという点で、県営大角豆(ささぎ)アパートは重要な第一歩であったと思われます。とはいえ、許された予算制約もきつく、自由度が大きかったとは思われません。このあとで紹介する予定ですが、デザインの上では、内井昭蔵の設計で1985年に完成した県営小野崎アパートとは類似点も多くあります。違いの半分は、設計者の頭の中にあり、残りの半分は5年の間の貧しさの違いにあったと思います。

この団地は並木ショッピングセンターに隣接しています。並木が新住所で、大角豆(ささぎ)は旧の字(あざ)ですが、要は同じ場所です。団地全体は、敷地をロの字に取り囲むように住宅が建てられ、更に、その中に対角に一列住宅が建てられています。真上から見ると2つの三角形が合わさった形です。囲まれた内側のスペースは外からは見えません。この団地は、主要なバス亭である学園並木バス停に行くときにかならず前を通り過ぎるので、つくば市の住民であれば、一度は見たことのある団地です。今回、筆者は、写真を撮るために、はじめて内側に入って、いつも見ている外側と違うことに驚きました。

写真1の左側が対角に建築された部分の住宅、右側が団地の敷地を囲むように建てられた部分の住宅です。開かれた空間での意味では、左側が表、右側の階段のある入り口側が裏と思われます。階段側に入り口があるので、玄関がある点では表なのです、ここでは玄関は配慮していません。写真1では、駐車禁止のプレートが目につき、駐車場問題が解決していないことがわかります。

写真2は、写真1の左の対角にある住宅の裏側です。ここでも駐車場に苦慮していることがわかります。特に、駐車場の中にぽっかり滑り台が浮かんで見える風景は異様です。隣接する並木ショッピングセンターの隣りに、広大な並木公園があるので、この滑り台を使う必要性は高くないとは思いますが、設計時にはどのようなイメージだったのでしょうか。

写真3が入り口の階段の部分です。すでに、40年が経過しているので、階段のコンクリートが痛んでいます。右の手前が2階の住宅、奥が、1階の住宅の入り口と思われます。これだけ、段があると1階でも車いすでの利用は難しいと思われます。

 

注1:

住宅環境が劣悪になった主要因は、貧困ではなく、地価の上昇に伴う利益を、地権者と折半できなかった行政の責任です。住宅が狭いことが、地価下落後の内需を増やせない主要な要因でもあります。

 

 

 

f:id:computer_philosopher:20200813171950j:plain

写真1 県営大角豆(ささぎ)アパート

 

f:id:computer_philosopher:20200813172016j:plain

写真2 県営大角豆(ささぎ)アパート

 

f:id:computer_philosopher:20200813172038j:plain

写真3 県営大角豆(ささぎ)アパート

 

山下和正 wiki

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%92%8C%E6%AD%A3