8-4)行動変容の方法
8ー4-1)事実推論の特性
「8)事実推論の課題」では、事実推論には、次の特性があることを前提に論じています。
第1に、事実推論は、1項演算子で、因果などの複数のイベントが連携している(独立でない)点を無視しています。
第2に、事実推論は、言語化されていない暗黙知なので、言語を使った概念によるメンタルモデルが共有されることはありません。これは、事実推論では、コミュニケ―ションと議論ができず、同じ間違いが永久に繰り返されることを意味します。
西洋の民主主義は、議論を前提とします。これは、言語化された知識が、言語化されない暗黙知に優るというコンセンサスを社会が受け入れていることを意味します。
たとえば、言語化された論文の積み重ねで構成される科学が、暗黙知の(言語化されない)呪術に優るというコンセンサスです。
科学は極度に言語化された知識です。科学の言語には、数式、プログラムコードが含まれます。言語化された自然科学の知識は、感情を除外しています。医学では、感情は、プラセボ効果として、排除されます。
経済学の合理的期待形成仮説は、感情(プラセボ効果、暗黙知)を扱っています。
文学、宗教などの形而上学の主題は、感情です。文学、宗教などの形而上学は、言葉を使って書かれますが、1項演算子の事実推論の場合は、言語化された知識ではなく、暗黙知になります。それ故に、文学では、行間を読むという、言語化された知識ではあってはいけないことが正常であると判断されます。
行間を読まなければ、文章が理解できないのであれば、それは、書き手の失敗です。試験問題では、「それ」といった指示代名詞が何を指すのかという問題が出されることがあります。プログラマーは、「それ(it)」という変数は使いません。クラスに同じ太郎という名前の生徒が2人いれば、プログラマーは、この2人をTARO-AとTARO-Bというように区別します。指示代名詞をつかったプログラムは、動きません。
次に事実推論の使われ方を例示します。
第3に、基本的な事実推論は、こどもがあのおもちゃが欲しいという推論です。
これが前例主義です。
横並び比較も表現は異なりますが、同じ推論です。
テレビの宣伝では、商品(言葉)と感情(美味しい、気持ちよい)を結びつけた事実推論が多用されます。
商品は、言葉などのコードですが、感情は暗黙知になります。
この事実推論は、製造・販売する企業の論理でつくられます。
企業の事実推論の論理が受け入れられて、その商品が売れることもありますが、他の企業の事実推論の論理が優勢になることもあります。
ともかく、世の中には、事実推論が蔓延していますので、科学の方法(2項演算)のリテラシーがないと心理バイアスから抜けられなくなります。
有権者と政治家の関係でいえば、事実推論とは、パンとサーカスの論理です。
有権者が欲しいものがあるといいます。
政治家は、欲しい物をあげるといいます。
フリーランチはありませんので、有権者は、政治家に、欲しいものをねだることによって、実際には、大きな経済的ダメージを受けています。
しかし、有権者の推論が暗黙知に依存する1項演算子の事実推論である場合には、有権者は、経済的なダメージに気付くことはありません。
第4に、前例主義が行き詰ることがあります。この場合には、問題が起こってから、部分修正をします。これも、事実推論の一部と考えられます。
第5に、事実推論では行動変容はおきません。
その理由は、事実推論には、2項演算である反事実がないからです。
8-4-2)事実推論と行動変容
ある知識人は、次のように言います。
<
言うのは簡単ですが、実際には「世の中を変える」のが簡単ではありません
>
この知識人の推論は事実推論です。
因果モデルで考えれば、「世の中を変える」ために、必要な条件は、レジームシフトすれば、所得が劇的に増える条件を整備することです。
レジームシフトすれば、所得が劇的に増えるというメンタルモデルを共有することが出来れば、良いことになります。
これは、加工貿易の理論で、高度経済成長時期に行なわれた方法です。
事実推論では、解雇規制の解除の問題は、経営者の都合で、労働者の希望に反して、解雇を強制する問題になります。
加工貿易の理論では、農業からの解雇が進みました。
農業からの解雇が進んだ理由は、農業をやめて、工業で働くと収入が確実に増えたからです。
解雇規制の解除は、経営者が、労働者に解雇通知をすれば、できる訳ではありません。
労働市場がなければ、再雇用は困難です。その場合には、強い反対がおきます。
一方、より労働条件のよい働き口があれば、自己都合で、転職する労働者が多発します。
年功型雇用では、若年者は、労働価値に比べて給与が低くなっています。
年功型雇用では、高齢者は、労働価値に比べて給与が高くなっています。
若年者が、転職しない理由は、次の2点です。
第1に、転職できる労働市場がありません。
第2に、ポストが上がれば、給与があがるという期待があります。
しかし、第1に、高度人材を中心に転職市場ができてきています。
リモート勤務のパートタームであれば、海外企業も選択できます。
第2の、将来の給与期待は、企業がつぶれてしまったり、担当部する部門が閉鎖されれば、絵にかいた餅になります。
このことから、若年層にとって、年功型雇用で働くことは、リスクになります。
一方、高齢者にとっては、年功型雇用は、労働価値以上の給与をもらえるので、メリットがあります。しかし、このことは、年功型雇用は、市場経済ではなく、中抜き経済になっているという事実を示しています。
バブルの頃の、退職年齢は、55歳でした。バブルの頃までは、工業が産業の中心であり、知識の変化速度もゆるやかでした。
1990年以降、世界は、デジタル社会へのレジームシフトを進めましたが、日本だけは、逆走して退職年齢を引き上げ、経済的な価値のない工業社会の経験に合わせて、賃金を定めたので、日本だけが取り残されています。
因果推論のアブダクションは、ホームズが犯人を探す推理(推論)であると言われます。
アブダクションは、結果から、原因を探索します。
ここで、結果に、日本が、デジタル社会へのレジームシフトに失敗した、あるいは、デジタル新興企業が生まれなかったことを設定します。
次に、原因を思考実験で、探索します。この場合の推論は、反事実推論になります。
ホームズが推理する場合には、最初は、犯人の候補が複数います。
ホームズは思考実験によって、可能性の低い犯人を除外して、犯人の絞り込みをします。
ここでは、反例を使った絞り込みが有効になります。
年功型雇用は、日本経済停滞の原因の候補になります。
エンジニア教育の軽視は、日本経済停滞の原因の候補になります。
言語化された知識の欠如は、日本経済停滞の原因の候補になります。
しかし、メンタルモデルの共有の視点でみれば、言葉化された知識の欠如が最大の原因と思われます。
なぜなら、この条件が満たされない場合には、他の全ての原因の除去が不可能になるからです。
行動変容の視点で考えれば、最優先課題は、メンタルモデルの共有になります。
情報産業に転職すれば、所得が増えるというメンタルモデルの共有ができれば、ハードルの1つはクリアできます。
しかし、「情報産業に転職すれば、所得が増えるというメンタルモデルの共有ができる」ためには、転職先の情報産業による雇用が必要です。
これが、2つ目のハードルです。
30年前であれば、ビル・ゲイツ氏やジェフ・ベゾス氏のように、ゼロから雇用を創り出すベンチャーでも、よかったかも知れません。この場合には、2つ目のハードルはありません。しかし、日本は、既に、デジタル社会へのレジームシフトに乗り遅れていますので、最短の時間で、産業構造の転換を行なわなければ、途上国とのDX競争にも負けてしまいます。つまり、2つ目のハードルを取り除くことが必要になります。
2つ目のハードルでは、年功型雇用で、労働価値に比べて給与が高くなっている高齢者に退場してもらう必要があります。これは、年齢による差別であってはいけないので注意が必要になります。デジタル社会では、工業社会の高齢者の経験は価値がありません。年齢ではなく、反事実推論で問題解決を提案する能力を評価することになります。この基準で判断すれば、高齢者は、全員失格にはなりませんが、8割程度は退場になると思います。
野口悠紀雄 氏は、次のように指摘しています。(筆者要約)
<
運転手不足と医療や介護の分野の人手不足問題は、ライドシェアと自動運転車、オンライン診療によって、技術的には可能であるにもかかわらず、タクシー会社と医師会の利害関係者の反対と抵抗で実現できない。
>
<< 引用文献
人手不足でも技術活用進まない「日本の不合理」 2024/09/15 東洋経済 野口悠紀雄
https://toyokeizai.net/articles/-/827387
>>
この問題は、上記の2つのハードルの視点で整理すべきです。
第2のハードルである「転職先の情報産業による雇用」問題は、DXの根本問題です。
政治は利権であるとしても、この問題を見逃すことはできません。この問題を見逃せば、日本は、DXが進まず、科学技術の進歩から取り残されます。生産性はあがらず、給与はあがりません。医療保険は破綻して、医師は所得を得ることができなくなります。
医師会は、この程度の因果モデルの推論ができません。
医師会は、事実推論から抜けられなくなっています。
AIが普及してきたときに、なくなる可能性のある職業があります。
このように聞くと、AIの普及を止めて、今ある職業がなくならないようにすればよいと考える人がでます。しかし、この反応は、事実推論の暗黙知によっています。
反事実推論をすれば、「AIの普及を止めて、今ある職業がなくならないようにすれば」、AIを受け入れた場合より、更に、悲惨な未来が待っていることが分かります。
例えば、世界で日本だけが、自動車の自動運転が禁止されて、人間が運転しなければならない場合を考えてみてください。
世界で、日本だけが、AIによる自動診療も、遠隔診療も禁止されて、医師が対面で診察しなければならない場合を考えてみてください。
総医療費の制約のために、ホームドクター制度をとっているイギリスでは、診療待ちが数か月先になることもあります。このような場合、AIによる自動診療で、軽症の患者をスクリーニングできれば、待ち時間を減らすことが可能です。
日本の診察待ちが、イギリス以上になる可能性があります。
医師会が因果推論をできない理由は、メンタルモデルの共有ができていないためです。
その理由は、事実推論は、暗黙知であって、言語化された概念によるメンタルモデルの共有ができないので、コミュニケーションが成り立たないのです。
なので、一番目のハードルが、最大の難関になります。
8-4-3)メンタルモデルの共有に向けて
筆者は、暗黙知がゼロになるとは主張しません。ヴァイオリニストとピアニストは、著名な演奏家と教師に、対面で学習します。これは、ビデオを使えば、対面で学習しなくとも、学習可能な暗黙知が増えました。それでも、ビデは、暗黙知を100%カバーできないためです。料理も同じで、ビデオを使えば、本を読むよりも、対面で学習しなくとも、学習可能な暗黙知が増えました。しかし、ビデオには、嗅覚と味覚データはないので、対面の学習が有効な暗黙知があります。しかし、これは、長期間の修行が必要なことを意味しません。ヴァイオリニストとピアニストが、著名な演奏家と教師に、対面で学習する時間は様々です。サマースクールやカザルスなどが主催した音楽祭に参加した場合には、学習期間は数週間にすぎません。
言語化、ビデオ化が困難で、暗黙知が残る部分がありますが、その部分を過大評価して、暗黙知が、言語化されて知識に優ると考えるべきではありません。
2006年4月5日の入学で、当時の東京大学総長小宮山宏氏は次のように言っています。
<
細分化が進んだ今日の学術の世界でも、「一芸に秀でる者は多芸に通ず」と言えるのでしょうか。 私は言えると思います。
>
<< 引用文献
平成18年度 東京大学大学院入学式総長式辞 2006年4月5日 東京大学総長 小宮山宏
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message18_01.html
>>
小宮山氏は、本心でこのように発言したのか、文学系の学生と教員に配慮して発言したのかは不明です。
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」という表現には、暗黙知(一芸)が、言語化された知識に優るという暗黙の了解があります。
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」という表現は、検証可能な仮説ではありません。
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」という表現が、検証可能な仮説であるとすれば、オリンピックで金メダルが取れれば、物理学の難問が解けることになります。
つまり、思考実験で、反例を考えれば、エビデンスがないことは自明です。
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」は、メンタルモデルの共有を否定しています。
物理学の難問を解くためには、物理学に方程式の概念がイメージできるメンタルモデルの共有が必要で、そのためには、物理学の学習が必要です。
政治家は、政治の権力闘争のプロであって、一芸に秀でています。
しかし、経済政策を考えるためには、便益などの経済学の基本概念の理解が必要です。
経済学のモデルは、微分方程式で書かれているので、微分方程式のメンタルモデルが共有できている必要があります。
微分方程式でつくったモデルでは、コンピュータ上で実行するには、数値解析やコンピュータのメンタルモデルの共有が必要になります。
政治家が経済政策を理解するためには、最低限の経済学のメンタルモデルの共有ができていることが必要になります。
今回の自民党の総裁選挙でも、最低限の経済学のメンタルモデルの共有ができていない候補者が、経済政策を論じています。
経済政策が、事実推論でない点を確認するには、政策が因果推論になっているか、問題の原因を想定しているかをチェックすれば、わかります。
政治家が、産業経済大臣などの要職を経験しているか、いないかは、経済学のメンタルモデルの共有とは関係がありません。
かつて、中央教育審議会の委員に、著名な小説家がなったことがあります。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」が正しい(暗黙知が言語化された知識に優先する)のであれば、その人事には問題がありません。しかし、教育を科学の方法で行なうのであれば、心理学、経済学、数学(統計学)などのメンタルモデルの共有ができない人が委員になった場合には、コミュニケーションが成立しません。提言は、因果関係のない、インスタンスが不明なキーワード(オブジェクト)の羅列になり、科学的には、理解不可能なものです。
メンタルモデルの共有は、ジョブ型雇用では、必須の条件になります。
また、DXやAIを受け入れる場合に必須の条件になります。
DevOps(デブオプス)は、「開発(Development)」と「運用(Operations)」を組み合わせた造語で、「開発担当と運用担当が連携してシステム開発を行う手法」を指します。
DevOpsを実現するためには、開発担当と運用担当がメンタルモデルを共有する必要があります。メンタルモデルの共有ができないと、開発担当と運用担当の間で、コミュニケーションが成り立ちませんので、連携できなくなります。
年功型組織のように、前例主義と企業内文化の暗黙知で、経営をしている場合には、DevOpsは不可能です。