1)世界の幻滅
世界の幻滅(世界の魔法を解く、Entzauberung der Welt)という概念は、マックス・ウェーバーの「職業としての科学」の一部です。
「職業としての科学(Wissenschaft als Beru)」は、日本語では、「職業としての学問」と訳されていますが、Wissenschatの英語は、scienceなので、ここでは、「職業としての科学」と訳します。
ドイツ語のウィキペディアの「職業としての科学」の位置づけの説明は以下です。
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「職業としての科学」は、社会学者で経済学者のマックス・ウェーバーによるエッセイです。これは、マックス・ウェーバーが 1917 年 11 月 7 日に「自由学生協会」主催の会議の一環として行った講演に基づいています。バイエルン地域協会」は、ミュンヘンの書店シュタイニッケのアートホールで連続講演会「職業としての知的労働 Geistige Arbeit als Beruf」を開催しました。 ウェーバーはラウエンシュタインの文化会議で若者たちにインスピレーションを与えることができる講演者であることを証明し、テーマ別の接点があった後、この講演テーマを提供しました。また、話題は「彼の心に近い」ものでした。この講義の増補テキストは 1919 年 7 月に出版されました。
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ドイツ語版のウィキペディアには、世界の幻滅(Entzauberung der Welt)の見出しがあります。次の「世界の幻滅」は、「職業としての科学」の中の重要な概念です。
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世界の幻滅は、経済学者で社会学者の マックス・ウェーバーが、特に後に発表した1917年の講義「職業としての科学」の中で引用した概念であり、この概念で彼は、発展に伴う知的化と合理化から生じる発展を要約しています。科学の発展は密接に関係していますが、すでにユダヤ教、特に旧約聖書の預言者から始まっています。
ウェーバーは「職業としての科学」の中で次のように述べています。
知的化と合理化が進むということは、自分が置かれている生活条件についての一般的な知識が増えるということではありません。むしろ、それは別の何かを意味します。つまり、それについての知識またはそれに対する信念です。つまり、望めばいつでもそれについて知ることができ、原則として、それに役割を果たす神秘的で予測不可能な力は存在しないということです。むしろ、すべてのことは - 原則として - 計算によって習得できると知ることができます。しかしそれは、世界の幻滅を意味します。もはや、そのような力が存在していた未開人のように、霊を制御したり霊に訴えたりするために魔法の手段に頼る必要はありません。これは技術的手段と計算によって達成されます。
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最後の部分の「すべてのことは - 原則として - 計算によって習得できると知ることができます。しかしそれは、世界の幻滅を意味します。もはや、そのような力が存在していた未開人のように、霊を制御したり霊に訴えたりするために魔法の手段に頼る必要はありません。これは技術的手段と計算によって達成されます」は、筆者には、計算科学とデータサイエンス(AIの基礎)の出現を予言しているように読めます。
「すべてのことは - 原則として - 計算によって習得できると知ることができる」という主張は、evindence baseの信念です。
つまり、「職業としての科学」の従来の日本の解釈には、バイアスがかかっていた可能性があります。
筆者が、「職業としての科学」を調べた問題意識は、次にあります。
2)科学者のルール
一般には、映画「オッペンハイマー」のように、科学者は、倫理のルールの問題に直面します。
生成AIの開発について、倫理条件が必要かといった議論です。
しかし、科学は、バージョンアップします。
WidowsのようなOSや、アプリの古いバージョンを使い続けることによる問題は、次の2点です。
第1に、便利な新しい機能が使えません。
第2に、セキュリティの脆弱性が増します。
しかし、古いバージョンのソフトウェアを使い続けることは、決定的な間違いではありません。
政府は、紙の保険証を、マイナンバーカードに切り替えるといいます。
しかし、納得できない人もいます。その理由は、古いバージョン(紙の保険証)を使い続けても、合法であるからです。
それどころか、政府(役所)は、常日頃は、行政の継続性という科学的に間違った主張をして、バージョンアップを拒んでいます。
鹿児島市では、マイナンバーカードをスマホに紐つけて、スマホがあれば、マイナンバーが不要になるサービスを始めています。しかし、そこまで、バージョンアップしている自治体は他に例がありません。
科学は、バージョンアップします。
科学者は、バージョンアップに対応しないことは許されません。
サリドマイドは1950年代末から60年代初めに、世界の十数カ国で販売された鎮静・催眠薬でした。
あるときに、この薬を妊娠初期に服用すると、胎児の手/足/耳/内臓などに奇形を起こす(催奇形性)ことが、確認されました。
それまでは、サリドマイドは、安全な鎮静・催眠薬と考えられていました。しかし、催奇形性の確認によって、サリドマイドは、妊婦には処方してはいけないと、知識をバージョンアップする必要が生じました。
科学では、常に、「古い間違った知識を、バージョンアップするルール」になっています。
「古い間違った知識を、バージョンアップするルール」は、仮説の検証過程に対応していて、科学の方法論の基本を形成しています。このルールは、倫理のルールより優先します。
「古い間違った知識を、バージョンアップするルール」は、権威主義と訓詁学と対立します。
例えば、ダーウインが進化論を提案した時には、遺伝子はまだ、発見されていませんでした。ダーウインの提案した進化論で、遺伝子に関係した部分は、当然、間違っています。
だから、「進化論は間違いである」という主張も、ダーウィンは権威であるから、「進化論は正しい」という主張も、間違いです。
これらの主張には、「古い間違った知識を、バージョンアップするルール」が、含まれていないので、科学のルールに、違反しています。
ここで、言葉がなければ考えられない点に注目すると、「古い間違った知識を、バージョンアップするルール」が必要であるかを容易に判定できます。
例えば、ダーウィンの場合には、「遺伝子」という言葉の有無が、決定的なポイントになります。
現代の進化論は、ダーウィンの進化論を「遺伝子」の言葉を使って、バージョンアップしたものになっています。
青山士氏(1878年 - 1963年)は、日本の伝説的な土木技術者で、パナマ運河建設、荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路の改修工事にかかわっています。
しかし、青山士氏の時代には、生物多様性などの生態学の言葉(概念)はありませんでした。青山士氏は、生態学の言葉をもっていませんでしたので、青山士氏の担当した工事は、十分な生態学の配慮をしたものではありません。
筆者は、科学のルールに従えば、青山士氏の担当した土木工事が、生態学の言葉を使って、バージョンアップしたものになっているべきであると考えます。ここでは、その判断は保留します。しかし、少なくとも、現在の河川工事で使われている生態学の言葉は、エコシステムエコロジー以前の、種の保存の古いバージョンに止まっています。言葉がないのです。
さて、筆者の関心は、ウェーバーが、「職業としての科学」のなかで、科学者のバージョンアップルールに言及していたかにあります。
3)職業としての科学
ウェーバーは「職業としての科学」の内容を、ウィキペディアで確認します。
第1は、ドイツ語版(Wissenschaft als Beruf)です。
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内容
ウェーバーは講義の中で、まず科学者としてのキャリアの長所と短所についての立場をとります。彼はドイツとアメリカの大学制度、講師の昇進の機会と給与を比較し、すべての科学者のキャリアにおいて無視できない役割を果たす偶然の要素を強調します。彼はまた、個人としての科学者と科学一般との関係、およびそれらが持つべき前提条件についても考察しています。科学のために、そして科学から生きていかなければなりません。
ここで彼は、科学的成果は専門化によってのみ達成できる という立場をとります。
「厳密な専門化を通してのみ、科学者は人生で一度、そしておそらく二度とないであろう完全な感覚を実際に得ることができます。私はここで永続的な何かを達成しました。」
–マックス・ウェーバー著「職業としての科学」セクション: 科学者の個人的要件としての情熱
彼はまた、「科学の価値」の問題も扱っています。科学には新しい発見や立場に到達するためのツール(方法)がありますが、なぜそれらが表現する価値があるのかを直接推測することはできません。意味するのは、倫理や哲学とは対照的に、より狭い範囲の自然科学です。後者は価値の問題を検討することに専念しなければなりません。
前提条件のない科学はなく、前提条件が否定されると科学の価値は失われます。
「すべての自然科学は、生命を技術的に習得したい場合はどうすればよいかという質問に対する答えを与えてくれます。しかし、私たちがそれを技術的に習得する必要があるのか、そして習得したいのか、そしてそれが最終的に実際に意味があるのかどうか: - 彼らはそれを完全にオープンのままにするか、自分たちの目的のためにそれを想定します。
–マックス・ウェーバー「職業としての科学」セクション: 科学の基礎としての「究極の」理由の欠如
人生の意味の問題は、たとえあったとしても、自然科学だけでは答えられません。
最後のセクションでウェーバーは、講堂(教室)に「政治」を持ち込むべきではないと強調しています。
「講堂(教室)では、(教師は)聴衆(生徒)の向かい側に座っているので、聴衆(生徒)は黙っていなければならず、教師は話さなければなりません。学生が昇進するために教員大学に行かなければならないのは無責任だと思います。これに批判で反論する人は誰もいないが、それは彼の仕事であるように、彼の知識と科学的経験を聴衆に役立てるためではなく、彼の個人的な政治的見解に従って聴衆(学生)に太鼓判を押すためです。
–職業としての科学におけるマックス・ウェーバー、セクション: 科学的研究の文脈における個人的信念の抑制の公準
解釈
伝統的な解釈によれば、ウェーバーの講義は価値のない科学の概念に向けられている、とハンス・ウルリッヒ・グンブレヒトは「今日の人文科学の課題」と題した2004年の論文でコメントしています。そして彼は、対照的に、ウェーバーの議論ははるかに複雑であるという彼の評価を説明しています。グンブレヒトによれば、ウェーバーは主に科学の目標である革新的な思考に関心を持っています。ウェーバーは、アイデアの革新的な価値とその実用化を区別することを提案しています。この二つの間には偶然の関係があるだけです。グンブレヒトは、学者が大学特有のルールに従って「不快な真実」を生み出すこと、そして大学の社会的有効性は変化の可能性にあるということを意味しているとウェーバーを解釈しています。
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ドイツ語版は、他の言語版にはない「世界の幻滅(Entzauberung der Welt)」と「ハンス・ウルリッヒ・グンブレヒト」氏の解釈を紹介している点で貴重です。
しかし、Google翻訳の精度が悪い点もありますが、それ以前に、内容がこなれていません。
次は、日本語版です。
日本語版(職業としての学問)
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まず、講演の前段では、アカデミックな職業人生に伴う現実的な問題を明らかにする。
たとえば、学者を志す者が、果たして将来教授などのポストを得られるか、それともそうはならずに人生を棒に振ってしまうかということは、そのほとんどが、その人の研究成果ではなく、運や偶然で決まってしまう。また、運よく大学教員になれたとしても、研究者としての評価と教育者としての評価の乖離の問題などを説明することで、ウェーバーは、大学教員としての人生について学生が抱く幻想を打ち砕く。
次に、本段では、学問の動向を踏まえて、学問にできることと学問にはできないことについて説明し、学問をすることの意味に対して疑問をつきつける。
近代の自然科学では、主知主義化や合理化が行われた("脱呪術化"・"魔術からの解放")。また、学問の専門領域が分化した("神々の闘争")。そのため、「真なる存在への道」という理想は失ってしまっており、もはや生の意味を学問に求めることなどできはしない。したがって、学問はもはや人々に価値を示すことはできず、究極的には学問をする意味などない。
また、それと関連して、学問と政策の峻別をすべきである。したがって、教師は自身の講義の中で、学生に自己の主張を説いたり、それを強制したりしてはならない(価値判断の回避("価値自由"))。
また、学生をはじめとする若者が何らかの体験を得ようとするために結社の類を作ろうとする場合、そのような行為は、結局は小さな狂信的集団に陥るとも述べている。
最後に、講演の結びでは、学問が前段に述べられているようなものでしかないことを踏まえつつ、それでも敢えて学問に意義を見出そうとするならば、それは個人が「自己の立場の明確化」を助けることになるという。しかし、学問に伴う宿命、つまり自らが主体であり続けるということに耐えるという宿命を受け入れられないような人は、おとなしくキリスト教への信仰に戻り、非アカデミックな職業に就いて、そこで日々求められる役割を果たし、人間関係の中で生きるべきであるとする。
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筆者は、この解説では、ウェーバーの主張が散漫になっていると感じます。
「まつき」さんも要約を書いています。
最後の結論の部分は、以下です。
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ウェーバーは学問が持つ意義を物事の考え方とそのための用具と訓練を与えるものと定義しました。即ち、ある対象物に対して特定の論理法則にしたがい、体系だった論理構成のもと事実を示すということが役割だという立場に立ちます。
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<< 引用文献
要約≪職業としての学問≫ 02023/03/19 まつき
https://note.com/matsu805/n/nc70b10ecad90
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「まつき」さんの要約は、日本語版のウィキペディアより正確です。
最後は、英語版です。
英語版(Science as a Vocation)
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ウェーバーは著書「職業としての科学」で、大学で科学や人文科学を学ぶ学者としてのキャリアを選択することの利点と欠点を比較検討した。ウェーバーは「科学の価値とは何か」という問いを探求し、科学者としてのキャリアの根底にある倫理の本質に焦点を当てている。ウェーバーにとって、科学は説明の方法と立場を正当化する手段を与えるが、そもそもその立場を保持する価値がある理由を説明することはできない。これは哲学の仕事である。いかなる科学も仮定から自由ではなく、仮定が否定されると科学の価値は失われる。
講義の中で、ウェーバーは芸術家の仕事の性質を科学者のそれと比較しています。芸術家の仕事は達成できるが、科学者の仕事は、その性質上、超えられるよう設計されていると彼は主張しています。
ウェーバーは、科学は、人々に、どのように生きるか、何を大切にするかといった人生の根本的な問いに決して答えることはできないと論じている。価値は宗教などの個人的な信念からしか得られないと彼は主張する。さらに彼は、理性と信仰はそれぞれの分野で独自の位置を占めているが、交差すると機能しないとして、理性と信仰を分離すべきだと主張している。
ウェーバーは政治においても事実と価値を区別しています。教師は生徒に知識を与え、問題を論理的に明らかにする方法を教えるべきだ、たとえ政治問題であってもです、しかし教師は教室を利用して自分の政治的見解を教え込んだり説教したりしてはならない、と彼は主張しています。
ウェーバーは研究と教育についても実際的なコメントをしています。優れた学者が劣った教師になることもあり、優れた学者や優れた思想家となるための資質が必ずしも優れたリーダーや模範となるための資質と同じではないと指摘しています。
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英語版のウィキペディアには、感心させられることが多いですが、今回も脱帽です。
「科学者の仕事は、その性質上、超えられるよう設計されている」は、科学では、常に、「古い間違った知識を、バージョンアップするルール」になっていることに対応しています。
「ウェーバーにとって、科学は説明の方法と立場を正当化する手段を与えるが、そもそもその立場を保持する価値がある理由を説明することはできない。これは哲学の仕事である。いかなる科学も仮定から自由ではなく、仮定が否定されると科学の価値は失われる」は、「エビデンスの階層」の出現を予言しています。
つまり、「エビデンスの階層」は、ウェーバーの考えでは、「哲学」になります。ウェーバーは、「哲学」と「哲学の伝統(プラググマティズム)」を区別していませんが、厳密には、「エビデンスの階層」は、「哲学の伝統」になります。
表1 エビデンスの階層
階層 内容
EBL4 メタアナリシス
EBL3 RCT(ランダム化比較試験)エビデンスに基づく研究
EBL2 観察研究
ウェーバーの研究は、EBL2です。
エビデンスの階層では、十分なエビデンスのある研究は、EBL4とEBL3に限定されます。
「いかなる科学も仮定から自由ではなく、仮定が否定されると科学の価値は失われる」は、ウェーバーのEBL2の研究の価値が失われることに対応しています。
前⽥裕之氏は、エビデンスの階層を説明して、経済学は、データサイエンスの一部になるという人もいるといいます。
EBL2の経済学が、EBL3のデータサイエンスに置き換わることは、ウェーバーが、「いかなる科学も仮定から自由ではなく、仮定が否定されると科学の価値は失われる」といった予言の実現になります。
<< 引用文献
経済学はどこに向かうのか 前⽥裕之
https://www.mof.go.jp/pri/research/seminar/fy2023/lm20231102.pdf
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4)世界の幻滅
最後に、世界の幻滅に戻ります。
世界の幻滅とは、「すべてのことは - 原則として - 計算によって習得できると知ることができる」ことでした。そこでは、「未開人のように、霊を制御したり霊に訴えたりするために魔法の手段に頼る必要はありませんでした。これは技術的手段と計算によって達成」されます。
「すべてのことは - 原則として - 計算によって習得できると知ることができる」は、「エビデンスに基づく政策立案 Evidence Based Policy Making(EMPM)」に対応しています。
日本の首相が、アメリカの大統領にあって、ゴルフをすれば、政策立案が、変わるのであれば、それは、「エビデンスに基づく政策立案」ではなく、科学を無視した「魔法の手段に頼」っていることになります。
忘年会や社員旅行をすれば、企業の業績がよくなると考えることは、「エビデンスに基づく経営立案」ではなく、科学を無視した「魔法の手段に頼」っていることになります。
ウェーバーは、「科学が進めば、そのような時代は終わる」だろう。そして、そのことは、「魔法の手段の消滅になり、世界の幻滅(世界の魔法が解かれてしまう状態になる)」と予言していました。
データサイエンスに飲み込まれるのは、経済学だけでは、ないのです。