リベラルアーツは、有害である

(科学の方法について述べます)

 

1)リベラルアーツの効能

 

リベラルアーツが有益であるという意見が巷にあふれています。

 

書店に行けば、哲学や教養の本が平棚に置かれています。

 

数学の本やプログラミングの本は、専門書のコーナーに行けばありますが、入り口近くの一等地を占めている書籍は、数式やプログラムコードがのっていない縦書きの本です。

 

リベラルアーツが有益であるという意見の人の中には、古典を読めば、大切なことはすべてそこに書かれているといいます。

 

筆者には、その発言は、技術革新は世の中に存在しないと言っているように聞こえます。

 

ある文学部の教員は、「文学は役に立たない。文学部の効能は、文学部の教員を食べさせることである」といいます。

 

リベラルアーツが役にたつというエビデンスはあるのでしょうか。

 

Aという命題(ここでは、「リベラルアーツが役にたつ」)が提示された時に、Aの反例を考える思考法は、クリティカルシンキングと呼ばれます。

 

クリティカルシンキングキングでは、「リベラルアーツが役に立たない」という反例を探します。

 

2)プラグマティズムと先人の知恵

 

リベラルアーツは、先人の知恵を指します。

 

先人が、「リベラルアーツが役に立たない」と言っていれば、「リベラルアーツが役にたつ」という命題は自己矛盾をかかえていることになります。

 

ここで、パースの「ブリーフの固定化法」を引用します。

 

パースは、「ブリーフの固定化法」には、固執の方法(前例主義)、権威の方法、形而上学はだめで、科学の方法を用いるべきであると主張します。(注1)

 

「ブリーフの固定化法」で、プラグマティズムを提唱する前に、パースは、カント哲学にはまっていました。

 

しかし、パースは、「ブリーフの固定化法」で、形而上学はだめであると言っていますので、カントの哲学(リベラルアーツ)は、使い物になりませんといっている訳です。

 

「ブリーフの固定化法」は、ブリーフを固定化する競技場に、形而上学者が出てきたら、レッドカードを渡して、退場してもらいましょうという主張です。

 

「ブリーフの固定化法」では、大臣のような権威者が、科学の方法ではなく、権威の方法や、前例主義で発言をすれば、レッドカードを渡して、退場してもらうべきであると考えます。



これから、プラグマティズムは、「リベラルアーツは役に立たない」と言っていることになります。



ガリレオ裁判では、ガリレオは、実験に基づく、科学の方法を主張しましたが、教会の権威の方法の前に屈しています。

 

教会のリベラルアーツに、科学の方法が負けてしまったわけです。

 

パースは、「ブリーフの固定化法」で、権威の方法が、科学の方法に優先することがあってはならないと主張します。

 

2月15日に内閣府が発表した2023年10から12月期の国内総生産GDP)は、前期比0.1%減で、昨年7から9月期(前期比0.8%減、年率3.3%減)に続く2四半期マイナス成長でした。

 

2月22日の東京株式市場で日経平均株価が史上最高値を更新したことを受け、岸田文雄首相や閣僚から日本経済にとって明るい動きと評価する声が相次ぎました。

 

こうした局面では、岸田文雄首相や閣僚の日本経済が回復基調にあるという発言と、GDPのマイナス成長はあいいれません。

 

こうした場合、どちらが、正しいのかという設問を設定して議論することは可能です。

 

しかし、この設問は、不適切です。

 

意味のある対応は、レッドカードを出すことであって、議論することではありません。

 

「ブリーフの固定化法」にしたがえば、発言が相容れない原因は、科学の方法ではなく、権威の方法を使っているためです。

 

リベラルアーツが幅をきかせれば、議論しても無駄なことになります。

 

ここには、ガリレオ裁判と同じ構図があります。

 

意味のある対応は、リベラルアーツに、レッドカードを出すことであって、議論することではありません。

 

3)2つの文化と科学革命

 

1959年のスノーの「2つの文化と科学革命」の主旨は、人文的文化(リベラルアーツ)と科学的文化の間には、ギャップがあり相互理解ができないという主張です。スノーは、国の経済発展には、科学的文化の教育であるエンジニア教育をしなければならないと主張しました。

 

スノーは「2つの文化と科学革命」で、人文的文化(リベラルアーツ)の人とは、科学の議論はできないというものです。

 

つまり、パースと同じように、リベラルアーツには、レッドカードを出しましょうという主張です。

 

日本の大学の定員の7割は、文系です。

 

社会科学は、人文科学と自然科学に分けられます。

 

微分方程式を解く経済学は、自然科学です。

 

微分方程式が、コンピュータで解けるようになったのは、1990年以降です。

 

それ以前の経済学は、ほとんどが、人文科学です。

 

筆者は、数理経済学以外の経済学は、人文科学であると考えています。

 

人文的文化(リベラルアーツ)の経済学者とは、微分方程式の話は通じませんので、やはり、レッドカードを出す以外の対応はできないと考えます。



人文的文化(リベラルアーツ)は役に立たないのですが、スノーの「2つの文化と科学革命」で主張したように、人文的文化(リベラルアーツ)の人に、そのことを理解してもらうことは不可能です。なぜなら、理解するためには、科学的文化のリテラシーが必要だからです。今の例で言えば、微分方程式が理解できていない人には、説明できません。

微分方程式より、さらにハードルが高いリテラシーは、統計学とデータサイエンスです。

 

科学のリテラシーがない人は、「リベラルアーツが有益である」といいますが、それは、私は、「自然科学が理解できません」の言い換えにすぎません。



注1:

 

「ブリーフの固定化法」は、形而上学を否定しています。これから、応用数学はよいが、形而上学の抽象数学(現代数学)は使えないことになります。デルターイプシロン論法は不要になります。実際に物理学者は、デルターイプシロン論法を無視しています。