1)新しい治療法
ここで、読者が、がんのような治りにくい病気にかかっていると仮定します。
その場合には、治療法を選択する必要があります。
2023年時点で、遺伝子治療は、絶対不可能ではありませんが、まだ、試験段階で、効果の検証は十分ではなく、保険適用にもなりません。
なので、現時点では、手術、分子標的治療などが、優先順位の高い選択肢になります。
分子標的治療が一般的に使われ出したのは、メシル酸イマチニブやゲフィチニブなどの低分子化合物が臨床使用され始めた1990年代末からです。特に2001年に承認されイマチニブは、慢性骨髄性白血病 (CML) に対して大きな効果を発揮し、分子標的薬の評価を飛躍的に高めました。
30年前の1993年であれば、分子標的治療なかったので、殺細胞性抗がん剤を使うしか方法がありませんでした。
30年後の2053年であれば、分子標的治療の選択の幅が各段に広がっていると思われますし、遺伝子治療も一部では、実用化していると思われます。
がんの治療法は、科学的な真理のひとつです。
治療法には、万能なものはありません。
30年前の1993年に、殺細胞性抗がん剤を使うことが間違っていた訳ではありません。
しかし、2023年に、副作用のより少なく効果の確実な分子標的治療がつかえるのであれば、殺細胞性抗がん剤を使うメリットはありません。つまり、殺細胞性抗がん剤を使うことは間違いです。
30年後の2053年には、遺伝子治療のような新しい治療法も開発されていると思われますので、2023年に利用可能であった分子標的治療を繰り返すことが正しいとは言えなくなっていると思われます。
つまり、がんの治療法については、多くの人は、その時にベストな治療法を選ぶことが合理的あって、真理(ベストな治療法)は、科学技術の進歩によって、入れ替わって当然であると科学的な思考を受け入れています。
科学の真理は、このように絶対的なものではなく、絶えず入れ替わる可能性を秘めていますが、がんの治療については、そのことで不安になる人はいません。
むしろ、恐ろしいのは、新しい治療法の開発が停止してしまって、今よりよい治療法が選べなくなる時です。(注1:)
2)人文的文化
人文的文化は、歴史を経てきた、古典は価値があるといいます。
人によっては、古典をよめば、大概の問題の解決法は見つかるといいます。
リベラルアーツは問題解決に役に立つという人もいます。
しかし、その立場は、がんの治療であれば、新しい治療法の開発を停止しても問題がないという意見に対応します。
真理の入れ替わりのダイナミズムを否定することは、問題のより良い解決を放棄することになるので、筆者は、賛成しません。
どうして、こんな不合理な見解が蔓延するかといえば、エビデンスに基づく、検証を行わないからです。
あるブリーフが、エビデンスによる検証を必要としない場合、そのブリーフは形而上学に分類されます。
形而上学は、リアルワールドとは独立していますので、検証を必要としません。一方、形而上学は、リアルワールドに影響を与えることはありません。
これは、どんなに素晴らしい哲学が出来ても、がんの生存確率に変化が起こらないことを意味しますので、感覚的にも理解できると思われます。
したがって、筆者は、パースと同じように、形而上学には、価値はないと考えます。(注1)
パースは、人文科学に価値はないといっているのではなく、形而上学には、リアルワールドを変える力はないといいます。そして、人文科学(哲学)を形而上学から、検証可能な科学に書きかえる努力をします。
プラグマティズムは、こうして誕生しました。
プラグマティズムを、哲学ではなく、哲学的伝統とよぶのはこのためです。
3)人文的文化のバイナリーバイアス
科学の説明には、不適切なものが多く見られます。
ある生物学の教科書には、「科学は仮説を作って、実験で検証する。検証に耐えたものは学説になる」と書かれていました。
学説と仮説の違いは、学説は、検証によって否定されなかった仮説であるという点だけです。
今世紀になってデータサイエンスが確立するまでは、物理学が科学のモデルでしたので、一旦、検証に耐えて生き残った学説が否定される可能性は低いだろうと考えられてきました。
つまり、検証をくり返していけば、「学説はある真理に向かって収束していくだろう」という予測です。これは、古典には、不滅の価値があるという人文的文化の見解に似ています。
しかし、データサイエンスが確立して、検証するために利用できるデータに、制約があることが明白になりました。仮説の検証は利用できるデータのレベルに合わせて、ほどほどにしか出来ないのです。その結果、「学説はある真理に向かって収束していくだろう」という予測は否定されてしまいました。
パンデミックが起こると、パンデミックに対して、幾つかの仮説が立てられます。仮説の検証に利用可能なデータは、パンデミックが終ると、手に入りません。それどころか、パンデミックが終ってしまえば、パンデミックに関する仮説は、当面は、御用済みになってしまいます。
パンデミックの期間を仮に3年とすれば、1年かけて検証された仮説の利用期間は2年です。2年かけて検証された仮説の利用期間は1年です。3年かけて検証された仮説の利用期間がゼロになります。
つまり、仮説の検証精度と利用可能期間の間には、トレードオフの関係があります。
これは、重要な点です。
少子化対策の有効な仮説を確立して実施すれば、人口が増えます。人口増加は、生産年齢人口、婚姻率、出生率の関数です。
生産年齢人口と婚姻率は下がってしまいましたので、今の時点で、生産年齢人口と婚姻率をあげる政策が解明されても、その政策の利用期間は終っています。
正しい政策(ブリーフ)を実行するよりも、ともかく、早く、いろいろと試してみる方がベターだったのに、その機会を見逃したことになります。
科学は仮説であるから正しくないという本が売れています。
この見解は、科学、特に、データサイエンスとは相容れません。
著者は、「時代と場所によって『正しいこと』は変わる」といいます。
これは、がんの治療法でみるように、当然のことです。
「時代と場所によって『正しいこと』が変わらない」ことは、新しい治療法が開発されないことですから、大問題です。
「時代と場所によって『正しいこと』がは変わる」ので、がんの治療法は改善されるわけです。
ところが、一方では、「『土地の値段は絶対に下がらない』という仮説は間違っていた」といいます。
時代と場所を選んで、バブル期までの日本についていえば、この仮説は間違っていません。
一方では、「この世には『正しいこと』などなにもない」といいます。
この表現は、「時代と場所によって『正しいこと』は変わる」とは相容れません。
さらに、「ある意味、諦めることが肝心なんです」ともいいます。
著者は、がんになったら、最新の治療を受けるつもりがないのでしょうか。
この本に対するコメントには次のようなものがありました。
驚くべき内容です。
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日本人は科学と言えば、客観的で正しいことを教えると考えがちだが、実は科学といえども仮説の集まりにすぎないことを説いてくれる啓蒙書である。
「土地の値段は絶対に下がらない」という仮説が間違っていた、という説明は歴史的事実だからとてもわかりやすい。
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4)CP 条項
「時代と場所によって『正しいこと』は変わる」という立場を認めない主張もあります。
例えば、次のような主張です。
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単なる相関から法則を区別するための条件として通常以下の 2 つが考えられている.
(S1)法則は,特定の対象・時間・場所に⾔及していない⼀般的なものでなければならない.
(S2)法則は,反事実的⾔明を⽀持するものでなければならない
社会科学において法則として提案されるものには,⼤抵,妨害作⽤から規則性を切り離すためのCP 条項(ceteris paribus,「すべての条件が同じなら」)がつけられている。
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筆者は、CP 条項を認めるよりは、時代と場所の制約を明確にすべきと考えます。
CP 条項を認めたモデルは信頼性評価ができないので、実用的な価値はありません。
あるいは、共分散構造分析(SEM:Structural Equation Modeling)を使ってみる方法もあります。
人文的文化の形而上学は、アプリオリにものを考えられるという仮定に立ちます。
つまり、人間には、絶対に正しいことがわかるという前提です。
この論理を振り回すことは出来ますが、形而上学は、リアルワールドとは関係がありません。
CP 条項を入れれば、検討対象は、リアルワールドの問題ではなくなってしまいます。
なので、パースは、形而上学は止めましょうといいます。
パースの「ブリーフの固定化法」は、形而上学を否定します。
それでは、「ブリーフの固定化法」は、正しいのでしょうか。
パースは、「ブリーフの固定化法」が正しいとは言いません。
実験をするには実験計画書が必要です。
実験計画書には、どの仮説が正しいかは書かれていません。
実験計画書にしたがって、実験をすれば、効率的に仮説を検証できます。
パースが、主張している「ブリーフの固定化法」は、「自然科学のモノに対比して、コトに対する効率的な実験計画書をつくる」ことです。
人文的文化は、ハムレットのようなバイナリーバイアスに汚染されていて、確率的にモノを考えられません。
筆者は、このバイアスを解くには、スノーが「2つの文化と科学革命」で主張したように、エンジニア教育が不可欠であると考えます。