科学の正しさについての誤解

(科学の正しさについて考えます)

 

1)わかることは重要ではない

 

学習をしていて、わかったと感じることは、学習を進める動機になります。

 

この場合、「わかることは重要」です。

 

科学の正しさについても、例えば、この小文を読むなどして、学習すれば、今まで、もやもやしていたものが、わかったと感じるようになることを読者は期待しているかもしれません。

 

こうした期待は、科学の多くの分野に、あてはまります。

 

わかると感じることは、日常的な脳の使い方をトレースすることです。

 

ここには、今までの経験と比べて、今回の科学の説明は納得できるといった感覚があります。

 

データサイエンスは、こうした理解の常識に反する学問です。

 

試験勉強をして、よい成績がとれたとします。

 

その結果を、両親や指導教官に説明すれば、引き続きよい成績がとれるように、努力を続けなさいというと思われます。

 

次の試験で、成績が下がってしまった場合、両親や指導教官は、試験勉強が不足しているといって非難するのではないでしょうか。

 

しかし、この非難は不当です。同じ努力を継続しても、成績は変動します。平均への回帰が起こりますので、高い成績と低い成績はランダムに発生します。高い成績が続いたあとには、低い成績が生じます。カーネマンはこれを「少数の法則」と呼んでいます。

 

株価予測では、ブラックーショールズ方程式を使えば、上がった株価が、いつどの程度下がるかの確率予測が出来ます。

 

ブラックーショールズ方程式が出て来るまで、誰も、ブラックーショールズ方程式風の投資ができませんでした。これは、認知バイアスがあって、わかることが困難なことを示しています。

 

科学では、「わかることは重要」ではありません。

 

科学では、検証の結果が、わかることを優先します。

 

2)訓詁学ミーム

 

訓詁学は、出典の権威で、内容の正しさが確保できるという仮説です。

 

人文科学では、出典を示せば、出典の正誤が問題にされない傾向がありますが、これは、科学的に間違った推論です。

 

訓詁学は、法度制度のミームに組み込まれています。



養老孟司著「バカの壁」の感想・レビューに次のようなコメントがありました。

 

(仮説に)科学的根拠があってもそれは可能性の高さを示すものであり、反証可能性を持つ以上は絶対的事実では無い。



世界の八割の科学者が「地球温暖化の原因はCO2だ」と認めているからといってそれは「科学的推論」に過ぎない。この事について養老先生は官僚と一悶着あった。

<< 引用文献

バカの壁 (新潮新書) 感想・レビュー

https://bookmeter.com/books/564950

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この2つの意見には、「科学の正しさ」についての誤解がありますが、読者は気付いたでしょうか。

 

データサイエンスの出現によって、データが科学に含まれるようになって、状況が若干変化していますが、科学の基本は仮説です。

 

上記の2つの意見は、仮説の正しさを問題にしています。

 

科学のレビュー付き論文は、仮説の正しさを保証するものではありません。

 

訓詁学の視点に立てば、正しい仮説が掲載された論文を探して、その論文を引用したいわけです。

 

ところが、科学のレビュー付き論文は、仮説が正しいことを保証するものではないので、コメントのような意見が出てきます。

 

意見を書いている2人は、科学と人権思想の関係が理解できていないと思われます。

 

人権思想では、言論の自由があり、個人の意見(仮説)には、優劣はありません。

 

科学は、ここからスタートします。

 

仮説には、権威による優劣はありません。

 

しかし、科学は、どんな仮説でもよいと言っているわけではありません。

 

科学的に受け入れられる仮説には、次のような条件があります。

 

(C1)推論の手続きに間違いがないこと

 

(C2)仮説が検証可能ななこと

 

(C3)仮説の作成手順または、仮説の検証の手続きが含まれていること

 

これらの条件は、手続きの正しさを要求しているだけで、結果の正しさを求めている訳ではありません。

 

例をあげます。

 

アインシュタイン相対性理論の論文は、推論によって、新しい物理学の法則(仮説)を提案しています。

 

レビューワーは、仮説を導き出す推論の正しさをチェックしますが、結果をチェックする訳ではありません。

 

仮説の検証実験でも、仮説を支持する結果の論文と、仮説を否定する結果の論文が出ることがあります。

 

この違いは、実験条件によって異なるため、相反する論文が、採用されることもあります。

 

レビューを通った論文は、データの捏造等がない限り、採用した実験条件やデータのサンプルに偏りがあって、正しい結論に達していなくても、取り消されることはありません。

 

生活習慣病の原因のように、因果関係が複雑な場合には、複数の仮説が併存し、それぞれの仮説を検証するために行なった実験の論文もあります。

 

この場合には、仮説は1つに絞り込まれていません。

 

科学は、仮説を作るプロセスです。

 

スマホで、クラウドのデータベースにアクセスできる時代に、どこまで、結果を暗記する必要があるのか疑問です。

 

プログラムのコーディングには、言語の文法規約、データの概略などの暗記が必要ですが、この暗記は、ワーキングメモリーで、作業が終れば、クリアされ、次の作業に必要な記憶に入れ替えられます。

 

このように、科学では、ワーキングメモリーが必要になりますが、永久の真実のようなパーマネントメモリーが必要になることは少ないです。

 

プログラム言語の文法規約のように、バージョンアップが頻繁に行なわれる内容はパーマネントメモリーには、入れません。開発するシステムの概要が決まってから、必要な知識をワーキングメモリーに入れます。

 

なお、相反する仮説が併存すると利用上は不便です。

 

このために、メタアナリシスの研究が行なわれます。

 

ただし、メタアナリシスを行うためには、評価関数が必要です。

 

3)科学のミーム

 

科学的な思考形態が習慣になると、プロセスが公開されていない推論は、間違いの可能性が高いと感じるようになります。

 

現在、流布している仮説がベストの仮説であるとは限りません。

 

そこで、クリティカルシンキングを行ない、常に、より良い仮説がないかをチェックすることになります。

 

ピラミッド型の組織では、上からの命令を下の人は順守することを求められます。

 

法度制度は、上下の権威によって、一方的に、上からの命令を下の人は順守することを求めます。

 

しかし、この方法は、科学的には支持されません。

 

法度制度は、よりよい問題解決の可能性を封印してしまいます。

評価関数、推論の手順などのデータが公開されていれば、命令の主旨は、評価関数の高いスコアを実現することであり、命令の代替案の可能性があります。

 

もしも、命令が、評価関数を無視していれば、命令の意図は理解できません。

 

デザイン思考で考えれば、評価関数(目的)のない政策は考えられません。

 

それができない理由は、政策の目的が利権誘導にしかないためと推測します。



経営側と労働組合側の関係者による「経団連労使フォーラム」が1月24日、東京都内で開かれ、2024年春闘が事実上スタートしました。「物価上昇を上回る賃上げを目指し、労使の議論が本格化する」といいます。

 

しかし、これは詭弁です。

 

過去の日本経済では、「物価上昇を上回る賃上」が、実現したことはありません。

 

議論は、建前で動いています。