1)無知の知
プラトンの著書「ソクラテスの弁明」の中に次のような記述があります。
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ソクラテスの弟子が、デルフォイの神託所でアテネで一番の知者は誰かと尋ねます。「一番の知者はソクラテスである」と神託は告げます。それを聞いたソクラテスは、お告げの意味を解明するため、賢者を尋ね歩きます。ソクラテスは、賢者が「(何も知らないのに)知っていると思い込んでいる」ことに気づきます。ソクラテスは、自分は、「知らないということをわかっている」ので、一番の知者かもしれないと思います。
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問題は、この先です。
ある人は、「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」ということを意味していると書いています。
しかし、この主張は、論理的に破綻しています。
なぜなら、「よりも賢い」という判断をするためには、データと推論方法(アルゴリズム、命題)が必要だからです。
「無知の知」は、「無知であることを知っていること」が重要である、あるいは「自分がいかにわかっていないかを自覚せよ」ということです。
これは、データサイエンスで言えば、正しい結論(知識)に到達するには、「有効なデータ(エビデンス)」と正しい推論(仮説命題)が必要だと言い換えられます。
仮説命題の正しさは、アプリオリ(形而上学)で判定できず、あくまで、エビデンスに基づいた検証というプロセスが必要です。
つまり、エビデンス革命のモットーは、「無知の知」に対応しています。
この点で、エビデンス革命は、哲学ではありませんが、哲学の伝統に従っています。
ところが、自然科学文化を持っていない人は、論理が飛躍して、とんでもない結論を導き出します。
例えば、「『自分がわかっていないことを自覚している人』は、安易に自分の正しさを主張せず、また相手の言い分も尊重します」
これは相対主義であって、科学的文化とは相容れません。
2)パーシアンの立場
パーシアン(パース流)の立場は、哲学の伝統を尊重しますが、形而上学を避けて、科学の方法を採用します。
これから、パーシアンは、エビデンス革命に合致しています。
「無知の知」は、今まで、哲学、つまり、形而上学の命題として取り扱われてきました。
例えば、「ソクラテスの無知の知は、よりよく生きるための指針でもある」といった発言は形而上学です。
しかし、パーシアンは、形而上学を否定します。
パーシアンの課題は、「よりよく生きるための指針」ではなく、「病気にかからない」、「1人あたりGDPが増加する」といった観測可能な指標に限定されます。
つまり、パーシアンの立場では、「無知の知」は、エビデンス主義と等価になります。
3)分っていない人
よく、政治家などで、「自分は問題の解決方法を知っている」という人がいます。
「XXと言えるこれだけの理由」、「XXでも喜べない理由」などというタイトルも定石ですが、これは、帰納であって、因果モデルではありません。
「XXは続くのか? 専門家に聞く」など専門家に聞いても、データがないので、検証されていない専門家の発言は、9割は間違いです。
科学は、検証する前には、どの仮説が正しいかの結論を出しません。
つまり、「自分は問題の解決方法を知っている」という発言は、科学的リテラシーの欠如に他なりません。
データに基づかずに、適当な意見を述べる専門家は、科学のリテラシーがないので、本当は専門家になれない人です。
困ったことには、発言者は、自分の発言が科学的なリテラシーの欠如を示していることが理解できていません。
経営者の心や哲学などの形而上学を問題にする書籍が良く売れています。
これでは、命題は否定されませんが、検証もされません。
経営者の心が立派であっても、部下がプログラミングが出来なければ、生成AIは作れません。
心や哲学などの形而上学の問題は、基本的には、宗教と同じ範疇に属します。
本人が、それを信じるのは自由ですが、部下に強要してはいけません。
政治家が、「自分は問題の解決方法を知っている」といいます。
次に、話せばわかるといって、解決方法を繰り返します。
これは、宗教の布教活動と同じです。
科学のリテラシーのある人は、エビデンスに基づいて検証されていない解決方法は、何回繰りかえされても、効果がないと判断します。
ここには、1959年にスノーが主張した、二つの文化の間の越えられないギャップがあります。