日本社会の文学部化

(日本社会は、論理よりも、感情を優先する方法にシフトしています)

 

1)「文学研究という不幸」

 

小谷野敦氏の「文学研究という不幸」という本があります。

 

最初の50ページまでを読んで、文学部には、構造問題があると感じました。

 

(P1)文学研究者の所得はポストできまる。

 

例外は、ベストセラーの売り上げの場合だけです。

 

ベストセラーがヒットする確率は低いので、文学研究者は、ポストの取り合いをします。

 

次の問題点に示すように、業績をあげて、収入を増やす方策はありません。

 

(P2)研究者の客観的な、実力評価の基準は存在しない。

 

論文をまったく書いていない場合には、業績がありませんので、この場合は、実力評価の基準があります。これは、例外です。

 

一般に問題になる書かれた論文の間の優劣をきめる基準はありません。

 

客観的な基準は、本の販売数とテレビの出演回数しかありません。

 

(P3)手法の問題が存在しないか、手法がない。

 

小谷野敦氏の専門は、比較文学です。小谷野敦氏は、比較文学は売れない(収入の道が少ない)といいます。

 

しかし、データサイエンスからみれば、比較文学とは、複数の文章を比較して解析する学問です。

 

文章データベースを作って、複数の文章を比較解析するプログラムを書くことが、比較文学になります。

 

もちろん、データベースとプログラムを使わないで、複数の文章を比較解析することは、出来ますが、それは、自動車とマラソンランナーの競争のようなもので、勝負は始める前からついています。

 

小谷野敦氏は恐ろしく物知りです。しかし、データベースとプログラムを使ったデータサイエンスの学部学生に勝てるとは思えません。物知りに価値がある時代は、終っていますが、小谷野敦氏は、物知りに価値がある時代に生きた過去の文学者の例を引用して、考察しています。

 

Googleは、昔、世界中の図書館の本を電子化するプロジェクトを進めていました。しかし、そのプロジェクトは途中で放棄されています。理由は不明ですが、筆者は、恐らく、過去の文献には、投資に見合う価値がないことがわかったためであると考えています。

 

ジューディア・パール(Judea Pearl、1936年9月4日 - )氏はイスラエルアメリカ人の計算機科学者で哲学者です。哲学者としては、ヒュームに繋がります。

 

アメリカでは、哲学は、計算機科学と相互乗り入れしています。

 

比較文学は、哲学よりは、更に簡単に、計算機科学と相互乗り入れできます。

 

日本で、これができない理由は、研究が専門分野に縦割りになっている(ツールの利用を放棄する)という意味不明なルールによります。

 

(P4)感情でよいのか

 

文学作品の目的の第1は、読者の感情に訴えて、感動を呼び起こすことです。

 

第2の目的は、論理的なパズルをとく楽しみを与えることです。

 

後者の例は、哲学であり、探偵小説の犯人捜しです。

 

シャーロックホームズが偉大な文学作品であるという人は少ないので、文学作品の評価では、前者の比率が高いと思われます。

 

医学が進歩するまで、病気を治療することはかないませんでした。

 

人間にできる唯一の方法は、祈ることで、感情のバランスをとることでした。

 

現在は、祈るよりも、医学治療が基本です。

 

治療法のない病気の場合には、今でも、人間にできる唯一の方法は、祈ることですが、その領域は狭くなっています。

 

モチベーションは重要ですが、願えばかなうというお祈りを必要以上に唱えることは、認知バイアスを増幅して、社会問題を引き起こします。

 

問題解決には、原因(犯人)を探す、ホームズのような冷徹な頭脳が必要です。



2)文学部化問題

 

「文学研究という不幸」で、文学研究者はポストの取り合いをします。

 

その原因は、業績の評価ができないためです。

 

デザイン思考で見れば、業績評価とは、問題解決の設計図のコンペです。

 

俳優であれば、新作のオーデションです。

 

プログラマーであれば、課題に対するサンプルプログラムのコーディングです。

 

こうした評価基準がないと、裏技を使ったポストの取り合いが起こります。

 

一度獲得したポストは既得利権で、手放すことはありません。(注1)

 

ところで、WEBには、ポストの記事であふれています。

 

どの企業の給与が高いかといった記事に人気があります。

 

企業の役職と給与のデータも人気があります。

 

これは、ジョブ型雇用ではあり得ません。

 

給与は、業績評価で決まります。

 

業績より給与が低ければ、転職します。

 

企業の役職と給与のデータも人気があるということは、多くの人は、所得はポストの獲得問題であると考えていることが分かります。

 

小谷野敦氏は、ポストの取り合いが、文学研究の分野では、日常化しているといいますが、ポストの取り合いが、日本中に蔓延しているように見えます。

 

つまり、日本中が、文学部化しているように見えます。

 

日本が、文学部化するということは、論理よりも、感情が優先する祈祷の世界が拡大していることになります。

 

これは、科学の進歩とは逆の方向に進んでいることを意味します。

 

「日本が文学化している、論理よりも感情が優先する世界に向かって進んでいる」という仮説を日本社会の文学部化と呼ぶことにします。

 

これは、シャーロック・ホームズが、被害者の話に感情移入して、涙を流していたら、犯人(原因)探しは、どこかにいってしまっている世界です。

 

問題解決には、犯人(原因)を探して、取り除く必要があります。

 

そこには、因果モデルが必要になります。

 

新聞を見ても、因果モデルをあつかった記事は、皆無です。

 

問題があれば、専門家の意見が引用されます。専門家の多くは、文学研究者と同じ感情のレベルでしか問題を扱えません。因果モデルで説明できている人は少ないです。専門家は、過去の文献を引用します。それは、権威に依存するだけで、因果モデルはありません。

 

3)文学部は問題先進学部

 

日本は、高齢化が進んで、問題先進国であると言われます。

 

「文学研究という不幸」を読むと、文学部は、日本国内の問題先進学部になっています。

 

年功型雇用で、業績評価ができないと、今後、日本で、何がおこるかという疑問に対する答えは、「文学研究という不幸」に書かれています。

 

日本社会の文学部化が進んでいるとすれば、論理で問題解決をする道は次第に狭くなっています。

 

経済新聞の記事は、新しいテクノロジーの解説ではなく、古い技術の回顧と文化欄になっています。

 

AIの内容の詳しい解説記事はありません。

 

経済新聞の記事には、感情がありますが、論理はありません。

 

日本社会の文学部化が、急速に進んでいます。

 

数学、つまり、論理的な思考ができる人は、少数派です。

 

大学の入学試験に、数学が必須でない先進国はないと思います。日本では、大学生でも、数学のできない人が多くいます。

 

数学が出来なければ、数学の問題はとけません。

 

データサイエンスの出現によって、全ての情報は、数学(データとアルゴリズム)の問題に一般化されました。

 

これは、第4のパラダイムが出た2009年には、明確な社会現象(レージームシフト)になっています。

 

日本では、逆に、感情が論理に優るという日本社会の文学部化が進んでいます。



注1:

 

ポストに応募する人数を調整する手法に、リスクとリターンのバランスがあります。

 

高給のポストには、高いリスクを設定すれば、応募者を調整できます。