科学的方法の進化論(1)

(1)プラグマティズムの精神

 

(Q:プラグマティズムと科学の関係を説明できますか)

 

1)進化論とプラグマティズム

 

プラグマティズムは、哲学を科学にする試みです。

 

デカルトもカントも、哲学は、思考の完全性を前提としています。

 

簡単に言えば「よく考えれば、正解に到達する」はずであるという前提条件です。

 

しかし、よく考えても、正解に到達しない、よく考えると、間違った結論に到達するのであれば、問題解決の戦略を変更する必要があります。

 

自然科学の過去の歴史を振りかえれば、「よく考えれば、正解に到達する」という仮説は否定されます。

 

万学の祖であるアリストテレスも、力学では、ニュートンにとって替わられ、ニュートン力学も、その一部をアインシュタイン相対性理論に、交替しました。

 

アリストテレスはとてもよく考えた人です。

 

「よく考えれば、正解に到達する」という前提は正しくありません。

 

そうであれば、哲学はどうあるべきか、問題の解決を考える適正な方法はあるのかが根本的な問題になります。

 

力学が提示するモデルは、次のようなものです。

 

(1)推論の正しさの保証

 

論理の正しさは、推論の正しさを保証しません。エビデンスに基づく検証が必要です。

 

(2)推論の進化

 

アリストテレス=>ニュートン=>アインシュタイン」と力学は進歩します。

 

これは、進化に似ています。

 

個別のブリーフが本当に正しいかは決められませんが、2つのブリーフがあれば、どちらが、よりエビデンスを説明しやすいかは、判断できます。

 

哲学が科学になる場合には、この2つの性質を受け入れることになります。

 

ところで、哲学がかなえることを半分放棄しても、哲学と呼ぶことができるのでしょうか。

 

英文のウィキペディアは、プラグマティズムを哲学的な伝統であるといっています。

 

2)オブジェクトとメソッド

 

以下は、筆者の解釈です。

 

自然科学とそれ以外の学問の違いは何でしょうか。

 

実験の有無も有力な判定条件ですが、自然科学でも、実験の不可能な分野はあります。

 

筆者は、自然科学は、オブジェクトとメソッドから構成されると考えます。

 

自然科学の対象のオブジェクトは質量のあるモノです。

 

メソッドは分野によって異なります。

 

文学は、古くから書籍を媒体にして提供されてきました。

 

しかし、文学の価値は、書籍の質量とは関係がありません。

 

つまり、文学をオブジェクトとメソッドで考えると、オブジェクトはモノでなないことがわかります。

 

平和の研究をした場合、平和とは、AとBの国の間のリレーションです。

 

国が飛ばす戦闘機には質量がありますが、平和とは直接の関係はありません。

 

平和か否かは、戦闘機の使い方に依存します。

 

パースは、プラグマティズムで、科学の方法を科学的な対処の外に拡げようとします。

 

しかし、そこでには、モノとしてのオブジェクトを設定できないという基本的な困難があります。

 

以下では、「科学的な対処の外」を「哲学オブジェクト)」と呼ぶことにします。



3)A:プラグマティズムと科学の関係(科学の拡張)

 

3-1)プラグマティズム

 

論理は完全ではありません。言葉は、内容とリンクする場合もありますが、リンクせずに空回りすることもあります。

 

言葉が内容とリンクしていることは確認できるのでしょうか。

 

自然科学の場合には、対象のオブジェクトはモノなので、メソッドを介在させた実験をすることができます。

 

哲学オブジェクトでは、対象のオブジェクトはリレーションで、実験をすることができます。

 

メソッドは言葉で書かれています。

 

ここで、プラグマティズムの手法は、経験主義を呼ばれることが多いですが、日本語の経験は、体験に近いので、意味が通じないと考えます。

 

筆者は、プラグマティズムの手法は、介入主義または、操作主義だと考えます。

 

メソッドを変化させて、オブジェクトの変化を観察することで、論理は完全さを補うことができるという態度です。

 

これは、文言の形式が整っていれば、内容は問わないというドキュメンタリズムとは対極にあります。

 

3-2)言葉の限界

 

哲学オブジェクトではには、質量や温度はないので、全て、文字(言葉)で記録されます。

 

この文字や言葉(記号)が、どこまで、対象を正確に反映しているかは、常に疑問がついて回ります。

 

ある学校(AA校)で、授業計画をたてて授業を行い、問題点が見つかれば、授業計画を改善した場合を考えます。

 

この授業計画は、そこにいた教師と生徒の間のリレーションをオブジェクトして、授業というメソッドの改善を試みています。

 

授業計画を改善して4月の授業より、5月の授業に進歩がみられたと仮定します。

 

ここに、4月と5月の授業計画書があります。

 

AA校で、授業計画を元に、授業の改善をしたことは、効果がありましたので、ここでの言葉と論理の使用は科学的だったと思われます。

 

しかし、この授業計画は、AA校の教師と生徒の間のリレーションをオブジェクトして、作成されています。

 

同じ、AA校でも、来年の教師と生徒の組合せは異なります。

 

まして、BB校では、教師と生徒の組合せは大きく異なります。

 

AA校でも、BB校でも、同じような授業計画の改善方法が使える可能性はゼロではありませんが、無条件では、成り立ちません。

 

AA校で、「4月は生徒が授業中に騒がしかったが、5月になると落ち着いてきた」と教師が書いても、「騒がしい」が、BB校でも同じ意味になるとは限りません。

 

ですから、無理に言葉を一般化するより、介入と改善というループに注目すべきです。

 

このように、言葉は、師と生徒の組合せを対象として限定的にしか使えませんので、無理に言葉を一般化した文部科学省のお達しに、あまり左右されるべきはないと思われます。

 

3-3)デジタルデータとデータサイエンス

 

個別の学校の授業計画を比べても、バラツキが大きすぎて使えませんが、全ての学校の授業計画がデジタルデータになっていて、統計処理が出来れば、ある程度の一般化が可能です。

 

教師と生徒の組合せも、属性データがあれば、幾つかにグルーピングすることが可能です。

 

また、画像、音、音楽のデータもデジタル化されれば、統計処理が可能です。

 

機械学習にかけることもできます。

 

つまり、新しいオブジェクトであるビッグデータの出現とデータサイエンスのメソッドによって、プラグマティズムは、新しい翼を得たと思われます。