ドキュメンタリズムと形而上学

(ドキュメンタリズムの本質は形而上学です)

1)科学の命題と形而上学の命題

ある命題(仮説)が科学の命題であり、因果モデルを含んでいる場合、その命題は、かならず検証される必要があります。

韓国の量子エネルギー研究センター(Q-centre)の研究チームは2023年7月22日、理論上、送電中のエネルギーロスをゼロにできる「常温常圧での超伝導に成功した」と発表しました。これは、「特定の物質であれば、常温常圧で超伝導する」という命題を提示したことになります。

このは発表に対して、世界中の超電導の研究者は、検証を試みます。

韓国の権威ある研究センターが、発表した命題であるから、空気を読んで、信頼することはあり得ません。

超電導の命題は、実際に電気抵抗を計測することで検証可能です。

この検証可能であることが科学の命題の条件です。

実験が不可能の場合には、検証は困難になりますので、代替的な検証手段を用いますが、その場合でも、出来る限り検証するという基本スタンスに変化はありません。

自動車の排気ガス、燃費などのデータで、過去に不正が繰り返されています。

監督官庁は、企業に、チェックリストを作って、報告させます。

これは、チェックリストの点検で問題がなければ、不正は発生していないというドキュメンタリズム(形式的文章主義)です。

これは、「チェックリストをつくって点検すれば、不正は起こらない」という命題に依存しています。

しかし、これは、仮説にすぎません。科学的文化では、仮説は検証される必要があります。

さらに、踏み込んで言えば、複数の仮説から、ベストな仮説を抽出するためには、評価関数の設定が必要です。評価関数は、超電導でいえば、電気抵抗です。

「チェックリストをつくって点検すれば、不正は起こらない」という命題は、どうして検証するのでしょうか。

ここで、演繹法をつかってみます。

チェックリストは、項目数は、荒いものと細かなものの間でグレードが分れます。

チャックリストの提出間隔は、長いものと短いものの間でグレードが分れます。

とんでもなく詳細でながいチェックリストを作れば、ユーザーは耐えられないので、いい加減にチェックします。

誰でも、ネットで、ソフトウェアの使用条件のチェック項目を真面目に読まないで、チェックしたことを多い出せば、納得できると思います。

チェックリストによるエラー防止は、万能ではありません。

つまり、エラーを最少化できるチェックリストの項目数と提出間隔の組み合せがあると思われます。

評価関数(エラーの発生率)と原因(チェックリストの項目数と提出間隔)をセットにした因果モデルであれば、これは検証可能な科学の命題です。

一方、問題が起こる度に、チェックリストの項目を長くする方法は、ドキュメンタリズムの形而上学です。

つまり、所管官庁の新しい政策、指導、有識者会議の提案などの命題は、検証可能な命題であるかをチェックすれば、科学の命題か、形而上学か分類できます。

パースは、命題(ブリーフ)が形而上学である場合には、命題には、リアルワールドを変える力はないと断じています。

この方法を使えば、権威に惑わされることなく、ブリーフの有効性が判断できます。

2)形而上学と一人当たりGDP

日本が貧しくなっているのは、一人当たりGDPが伸びない、労働生産性が上がらないためです。

これは、形而上学による政策を繰り返しているためです。

科学の方法であれば、評価関数が労働生産性であれば、政策は、労働生産性の変化を計測することで、有効性(効率性)が評価できます。

効率性の低い政策は、廃止に、より効率性の高い政策を探求すればよいことになります。

ところが、実際に行われている政策は、形而上学です。

霞が関の無謬主義とは形而上学に他なりません。

これは、エビデンスに基づいて、常に仮説を改良し続ける科学の方法とは相容れません。

なお、「仮説を改良し続ける」といった場合、改良前の古い仮説が少し間違っていた場合もありますが、そうでない場合もあります。

それは、ベストな仮説は、時間の経過と共に変化する場合です。

リアルワールドが変化すれば、それに合わせて仮説をアジャストすべきであるという世界観と、形而上学で、仮説は、リアルワードと関係なく変化しないという形而上学の無謬主義(ドキュメンタリズム)の世界観は相容れません。

パースが「ブリーフの固定化法」で述べたように、科学の方法を用いるか、形而上学を用いるかは選択の問題です。

形而上学を用いた方が、心の満足度は高いかも知れませんが、労働生産性といったリアルワールドの指標は、必ず、科学の方法より、見劣りする結果になります。

日本の政治家は、科学の方法ではなく、形而上学によって政策を選択しています。

生成AIは、科学の方法で、最適化されています。

人間の政治家が、科学の方法をとらず、形而上学にこだわる場合には、政治家のパフォーマンスは、生成AIのチャットに比べて、劣ります。

その場合、政治家をクビにして、生成AIで置き換えた方が、国民にとって、メリット(費用対便益)が大きくなります。

政治家の提案する政策より、生成AIの提案する政策の方が、効率性が高くなります。

科学の方法における検証手続きは、データサイエンスによるエビデンス革命によって、大きく変化しました。次に、この点を考えます。