レジームシフトとリベラル・アーツの不毛

(リベラル・アーツは、生成AIに完敗すると考えます)



1)レジームシフトの確認

 

日本の社会では、技術進歩が止まっています。

 

生成AIは、人間の能力を越えました。少なくとも、翻訳の速度で、生成AIと勝負できる人間はいません。これが意味することは、2000年来続いてた学問のフレームワークが崩壊したということです。人間を越える知性をもった機械というアイデアは、過去にもありましたが、実装する方法は不明でした。現在では、2000年来解けなかった問題を解決するパンドラの箱があいています。

 

何が起こったのか振り返ってみます。

 

1-1)バイテクの例

 

生物物理学は、生物学的現象を研究するために物理学で伝統的に使用されてきたアプローチと方法を適用する学際的な科学です。生物物理学は、生物学の問題は、物理学で解決可能であると考えます。生物物理学は、DNA配列を解析する機器を開発し、DNAのデータベースを作り、人工的に生命をつくっています。

 

バイテクがブームになってときに、日本の生物系、農学系の研究者は、DNA配列を解析する機器を利用するテクニシャンになれましたが、DNA配列を解析する機器を開発するエンジニアにはなれませんでした。

 

生物物理学が、DNA配列を解析する機器の開発に着手した時に、従来の生物学者は、生命現象が物理学で理解できるはずはないと思っていました。

 

しかし、現在では、物理学なしの生物学はなくなっています。



1-2)データサイエンスの例

 

情報科学が、データサイエンスの研究に着手したとき、そこに並べられた手法は、従来の統計学の手法だけでした。

 

つまり、情報科学者は、統計学者に、情報科学は、データサイエンスによって、統計学を越えると宣言したようなものでした。

 

筆者は、最初にデータサイエンスにであったときに、データサイエンスは、歴史のある統計学に勝てるのだろうかと疑問を持ちました。

 

統計学者は、問題を解くために、ソフトウェアを作りますが、ハードウェアは作りません。生成AIでは、NVIDIAGPUが必須のアイテムです。データサイエンスは、こうした半導体もつくりますが、統計学者は、半導体は作りません。

 

統計学アルゴリズムを検討するだけであれば、R言語で十分ですが、GPUと連携して、大きなサイズのデータを処理するためには、Python言語でないと歯が立ちません。

 

こうして、データサイエンスは、統計学を飲み込んでしまいました。

 

回帰分析等における過学習の問題は、自由調整済みの重相関係数赤池情報量規準などが提案されてきましたが、現在では、交差検証法で、ほぼ最終的な解決がはかられています。

 

2000年来続いてきた過学習の評価問題に最終結論を出しています。

 

一方では、人文科学の研究者が過学習問題を取り上げた例を知りません。

 

筆者は、人文科学の成果の大半は、過学習であると考えています。

 

交差検証法は、人文科学でも利用可能でので、使ってほしいです。

 

アルファ碁は、人間をこえました。アルファ碁の開発者は、囲碁の素人です。囲碁のツールをソフトウエアに教えて、そのあとは、ソフトウェアは自分で学習したのです。

 

自動翻訳のソフトウェアの開発者は、英語を日本に翻訳する翻訳家ではありません。

 

自動翻訳のソフトウェアの開発者は、ソフトウェアの専門家ですが、翻訳の素人です。

 

簡単に言えば、ソフトウェアの専門バカですが、そのことは、自動翻訳のソフトウェアの開発の障害にはなりません。

 

ソフトウェアの開発者は、パターンマッチングに類する学習はしませんが、その部分は、コンピュータのソフトウェアが学習すればよいからです。

 

ChatGPTの成績をみれば、法律、医学の知識がまったくないソフトウェアの開発者で問題はありません。学習は、ソフトウェアの開発者ではなく、生成AIが行うべきものだからです。

 

1-3)天気予報の例

 

データサイエンスの真理とは天気予報のようなものです。

 

明日の天気に対する正解はありますが、それは、確率表現を伴います。

 

確率表現を伴うから正解がない訳ではありません。

 

明日の天気予報をして、2時間も経つと、現在の天気が変わります。

 

その場合には、予報を更新して、新しい予報に入れ替えます。

 

予報の値は常に更新されつつけますが、予報を行うアルゴリズムは不変です。ベイス更新によって、パラメータの値は、常に更新され続けます。

 

これが、データサイエンスの真理のイメージです。

 

予報は、晴れが60%、曇りが30%、雨が10%といった形式で提示されます。

 

一昔前では、晴れ、曇り、雨の何れかを選択していました。

 

3種類の天気が含まれているので、一昔前の予報に比べると多様です。

 

しかし、60%、30%、10%といった数字は1つの組合せしかありません。

 

つまり、科学の正解は1つだけです。

 

科学は、評価関数を定めて、評価関数が最大または最小になる条件を探索します。

 

評価関数のスコアが全く同じになる異なったパラメータのセットが存在する場合を除けは、正解は常に1つしかありません。

 

結果を説明するAとBの2種類の因果モデルがあった場合に、科学は検証の手続きによって、1つだけを選びます。

 

1-4)まとめ

 

データサイエンスの進歩は、学問の専門分野を破壊してしまいました。

 

特に、生成AIのような、数字ではなく、文字型のデータにおいて大きな進歩がはかられ結果、そうなりました。

 

データサイエンスは、最初に統計学を呑みこみました。その後も、データサイエンスは、有益であれば、ありとあらゆる学問を呑みこんでいます。

 

これが可能な理由は、データサイエンスの知識は、プログラムコードで記載されるので、一旦、実用的なコードが実装されれば、その後の手間が要らなくなるので、他の学問を取り込むことができるためです。

 

もちろん、データサイエンス分野にも、劣等生はいます。

 

WindowsのようなGUIでは、マニュアルを読まないで、マウスを操作する方法には、文化的な学習の影響が大きいことが知られています。このため、例えば、WINDOWSのABCの3種類のGUIを実装して、別々のユーザーに使ってもらい、混乱が起きにくく分かり易いGUIを選びます。これは、社会学エスノメソドロジーの応用です。

 

マイナンバーカードのソフトウエアでは誤登録が頻発しました。これから、マイナンバーカードのソフトウェア開発では、必要なエスノメソドロジーのテストがなされなかったことがわかります。

 

この問題は、ソフトウエア開発者が専門バカでったために起こったのではなく、マイナンバーカードのソフトウエア開発者が、データサイエンスを理化しいない劣等生であったために起こっています。

 

2)リベラル・アーツの不毛

 

東京工業大学リベラルアーツ研究施設長の上田紀之氏が「リベラルアーツについて知る」を述べています。

 

上田紀之氏の専門は文化人類学、特に宗教、癒やし、社会変革に関する比較価値研究です。

 

上田紀之氏に、科学のリテラシーを期待してはいけないのかもしれません。

 

しかし、東京工業大学は、テクノロジーに特化した大学ですので、東京工業大学に、科学のリテラシーがなければ、日本中の大学に、科学のリテラシーを期待できなくなってしまいます。

 

上記1)で述べた、データサイエンスが引き起こしたレジームシフト(つまりデジタル社会への移行)を前提に考えれば、「リベラルアーツが有効であるという」上田紀之氏の論旨は、筆者には理解できません。

 

多様性は科学ではありません。

 

1959年に、スノーは、「科学的文化は人文的文化では理解できない。科学のリテラシーが必須である」といいました。日本では、スノーは、「科学的文化を人文的文化で理解してギャップをうめることの大切さを主張した」という反転した解釈が通っています。

 

上田紀之氏は、日本にしかない「文系」と「理系」の温存を認めていますので、ここでも、スノーの誤った解釈が採用されています。

 

アメリカ流の副専攻の採用、ジョブ型雇用に伴う異分野のチームでの仕事の遂行といった問題は論じられていません。

 

筆者は、リベラルアーツの80%は、生成AIで置き換わると考えています。

 

上田紀之氏「物事にはいろいろな見方がある」ことを理解すべきだといいます。

 

一方では、上田紀之氏は、「エビデンスが支持する仮説は1つだけ」であるという科学の基本リテラシーを置き去りにしています。

 

簡単に、パース流に言えば、「リベラルアーツについて知る」は、形而上学なので、リアルワードとは関係がありません。

 

引用文献

 

リベラルアーツについて知る 夢ナビ 上田紀之 東京工業大学 リベラルアーツ研究施設長

https://frompage.jp/ynp/liveralarts/

 

リベラルアーツについて知る」(以下筆者の要約)

 



真の教養が求められている

 

 大学教育の中でよく聞かれる「リベラルアーツ」という言葉を、日本語に直すと「教養教育」になります、内容は「教養教育」と違います。今まで大学における「教養教育」は「専門教育」の前に学習する初歩的な教育を意味しました。「リベラルアーツ」教育は、昔の「教養教育」とは違うという意味を含みます。

 

 今まで、大学では、出来るだけ早く専門教育を行い、「役に立つ人材」(専門のスペシャリスト)を育る傾向がありました。その結果、専門は詳しいが、専門外は知らない専門バカを生み出しました。

 

 最近の大学入試は科目数は、少なくなっています。高校生は入試に出る科目しか勉強しないので、理工系では「数学と物理と化学以外の分野はほとんど知らない」学生が、文系では「法律や経済以外の科学技術も文学は知らない」学生が増えています。

 

 一つの分野のことしか知らない人は、社会のいろいろな問題に対処できません。 現代社会の問題はさまざまな要因が絡まり合っています。例えば原発の問題を対処するにも理科系と文系の両方の知識が必要です。高齢化の問題に向き合うにも、心理、経済、社会福祉などのさまざまな分野の知識が必要になるでしょう。専門教育だけを受けてきた人が「役に立つ」とは限らないのです。むしろ幅広い「教養」を持っている人が必要とされているのが現代なのです。

 

答えがない問題にどう対処するか

 

 また誰もが「正解を求めてしまう」のも大きな問題になっています。皆さんは小学校からずっと「正解」を求める勉強をしてきたと思います。だから物事には正解があって、それを答えられれば優秀だと思い込んでいる人が多いでしょう。しかしこの社会で起こっていることは、一つの正解を見いだすことが難しい問題ばかりです。グローバル社会の中での国際紛争は、民族も宗教も違う人たちが「自分の考えは正しい」と言って争っています。その中で「正解はこれだ」という発想は役に立ちません。日本の中でさえ、生まれや立場の違う人たちは、まったく違った意見を持っています。一つの家庭の中でも、お父さんとお母さん、兄弟姉妹で考え方は違います。その中で「正解を見つける」ことよりも、ものの考え方・感じ方が違う人たちの中で、いかにほかの人たちの立場を理解し、他人の主張を聞き、自分の主張も述べ、調停し、共存していけるのかが問われているのです。

 

 そこでは「ひとつの正解」よりも「多様性の理解」がとても大切になります。ビジネスパーソンも海外の文学を読めば、その国の国民性がわかります。弁護士も人々の心理や人間関係のあり方を知っていたほうがいいはずです。そうやって「物事にはいろいろな見方があるのだ」ということを学んでいることが、私たちの人生を切りひらくときにとても大切になるのです。

 

 多様な見方ができるとは、「他の人の言っていることを鵜呑みにしない」ということでもあります。どんな偉い人が言ったことでも、必ずしも正しくないかもしれない。ある時代のある場所では正しくても、ほかのところでは通用しないかもしれない。だからそれをすぐに信じてしまうのではなく、自分の頭で考え、自分のハートで感じ、自主的に判断し行動することが求められています。もちろんそうやって自分で判断するためには、たくさんのことを知っておかなければなりません。



自由人として生きるための学問

 

 リベラルアーツという言葉は元々ギリシャ・ローマ時代の「自由7科」(文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽)に起源を持っています。その時代に自由人として生きるための学問がリベラルアーツの起源でした。「リベラル・アーツ」、つまり人間を自由にする技ということです。

 

 現代社会は一見自由に見えます。しかし多くの人たちが生きづらさ、不自由さを感じているのはなぜでしょうか。いま私たちが直面しているのは、評価をたいへん気にして、「正解」を求めていないと不安だという意識です。ですから多くの人たちが「評価されること」にがんじがらめになっています。しかしそれが本当に自由な生き方でしょうか。

 

 「評価される正解」にがんじがらめになっている人は実はとても不自由で、そして結局のところ新しいものを創り出す創造性を欠く人になってしまいます。それでは自分も楽しくないし、社会に貢献することもできません。

 

 リベラルアーツとは自分を多様な世界へと解き放ち、より良い自分、より良い世界へと導く入口となります。大学に入学したらぜひリベラルアーツを広く学び、生き生きとした自分を発見してください。