経験科学とデータサイエンスのギャップ

(経験科学とデータサイエンスの間には、ギャップだけでなく、コンフリクトがあります)

 

1)攻守交替

 

最後に扱うべきギャップは、経験科学とデータサイエンスのギャップです。

 

このテーマは書きあぐねていました。

理由は、書くべきことが余りに多いためです。

 

そこで、考え方を変えて、以下では、最小限の内容を書いていみます。



経験科学と計算科学のギャップでは、本来は計算科学で解くべき領域の問題を、計算資源の制約から、経験科学で解いていました。

 

この境界用域が、計算資源の制約がなくなった結果、計算科学にシフトしています。

 

計算科学は、経験科学の問題を解いているのではなく、本来は計算科学で解かれるべき領域の問題を解いています。

 

経験科学とデータサイエンスのギャップは、これとは異なり、データサイエンスが、経験科学の領域に攻め込んでいるイメージです。

 

これは、アルファ碁の例を考えればイメージできます。

 

碁の対戦は、微分方程式で、記載できる問題ではありません。

 

計算科学の問題の領域はありません。

 

このような領域は、データサイエンスが登場するまで、経験科学の独壇場でした。

 

それが、確率概念でモデル化可能な対象は全て、データサイエンス領域になりました。

 

2)データサイエンスの計算科学

 

理論科学で微分方程式をたてても、計算科学が出て来るまで、答えを求めることは出来ませんでした。

 

統計学は、20世紀の初期には、成立しますが、理論科学と同じような問題を抱えていました。それは、確率分布の計算が可能な分布は、正規分布など、一部の分布に限定されていたことです。このため、多くの確率分布は無理に、正規分布で近似されました。

 

今世紀に入って、任意の確率分布の計算が可能になりました。

 

データサイエンスの計算科学が確立したのです。

 

3)ギャップとコンフリクト

 

スノーの「二つの文化と科学革命」では、パラダイムの違いはすれ違いであって、ギャップでした。厳密に考えれば、科学的文化に属する理論科学のテーマは、人文的文化から分岐しています。

 

例えば、ニュートン力学は、自然哲学でした。

 

天体観測は、占星術と結びついていました。

 

占星術が正しければ、ニュートン力学は、人文的文化に大きな影響を与えたと思われますが、実際には、そうならなかったので、ニュートン力学が、人文的文化に影響を与える(介入する)ことはありませんでした。

 

ここでは、経験科学とデータサイエンスの関係で、最低限考えるべきことを指摘します。

 

第4のパラダイムのデータサイエンスは、経験科学に介入します。

 

天気予報は、確率表現をとります。

 

明日の降雨確率が50%の場合、50%の確率で雨傘を持っていくことはできません。

 

実現可能な行動は、雨傘を持っていくか、持っていかないかのいずれかです。

 

確率は、人文的文化の言語思考では求められません。

 

確率を求めるには、計算が必要です。

 

その計算量も中途半端でなく、コンピュータを使わないと計算できません。

 

つまり、データサイエンスでは、言語を使って、自分の頭だけで考えることは、放棄されています。

 

仮に、誰かが、明日の降雨確率を、試験問題を解くように、紙と鉛筆だけで、計算するといえば、その人は、相手にされません。

 

実際問題として、この方法では、明日になる前に計算が終わることはないでしょう。

 

天気予報は、計算科学で微分方程式を解く方法と統計モデルで確率計算をする方法をブレンドして、行います。この2つのモデルの計算結果が、予想外であった場合には、計算条件を再確認したりします。つまり、コンピュータに全てを任せきりにしている訳ではありません。しかし、コンピュータを使わずに、天気を予測する(考える)ことは正気ではないと見なされます。

 

4)人文的文化とAI

 

巷では、AIが人間を越える時がくると言いますが、AIはデータとアルゴリズムから結果を出します。

 

天気予報の精度が上がったのは、地球環境問題が重要視されて、地球規模のデータ整備がなされてからです。

 

医師は、画像をみて、病気を診断します。

 

顔認識のソフトウェアは数億人分の画像でパターン認識を学習します。

人間は、数億人分の画像でパターン認識を学習できません。

 

天気予報を自分の頭だけで、考える人はいません。

 

パターン認識を自分の目と頭で行うことはありえません。

 

つまり、「AIが人間を越える」という設問はナンセンスです。

 

同様に考えれば、景気予測を自分の頭だけで考える人は、正気を逸脱しています。

 

経験科学のように、人間の目と頭で構成された科学に固執することは、正気を逸脱しています。

 

経済政策や少子化対策を自分の頭だけで考える人も正気を逸脱しています。

 

人文的文化だけの科学があり、自分の頭だけで考えることが正しいと考えている人は、科学的文化のエンジニアから見れば、ストレンジラヴ博士(Dr. Strangelove)のように見えてしまいます。

 

経験科学の有識者会議も、エビデンスと計算結果を示せなければ、ストレンジラヴ博士のように見えてしまいます。