(経験科学とデータサイエンスは対立場合が多くあります)
1)経験科学と第1のパラダイム
本書のタイトル、「経験科学の終わり」は、経験科学とデータサイエンスがコンフリクトし、経験科学は、データサイエンスに次第に押されて、生息域が次第に狭くなっていくという世界観を表しています。
マイクロソフトの故グレイは、4つのパラダイムの第1パラダイムの科学として、経験科学を取り上げました。
グレイは、4つのパラダイムの第1パラダイムの科学として、経験科学を取り上げましたが、そこでは、経験科学が科学であるか、否かという問題には触れていません。グレイは、社会的に用いられているという実績に基づいて考えています。
グレイの第2から第4のパラダイムは科学的方法論で分類されていますが、第1のパラダイムは、miscであって、そこには方法論がありません。
経験科学には、帰納法という方法論があると反論されるかも知れませんが、この反論には、疑問があります。
日本では、帰納法は演繹法に対峙する科学的な推論方法で、演繹法は、数学の証明のような極めて限定的な場合にしか用いられない特殊な方法であると解釈されることが多いです。しかし、英語の文献では、そのような世界観は見られません。
日本のように、帰納法が演繹法と独立して存在していると考えると、演繹法の活躍できる分野は非常に限定的です。
帰納法で検証すべき命題は演繹法で作成されます。帰納法が、演繹法と独立して存在しているという論拠はありません。帰納法で検証すべき命題は演繹法なしには作成することができません。
日本では、過去の実績を並べて記載する方法が帰納法であると考える人が多いですが、これは、欧米の演繹法とセットになった帰納法とまったく別の方法です。混乱を避けるために、以下では、この特殊な帰納法を、日本的帰納法と呼んで、本来の帰納法とは区別することにします。
科学の基本は仮説と検証ですが、ここで仮説は演繹法、検証は帰納法に対応します。
科学とは、演繹法ドリブンな考え方です。
データを並べて、回帰直線を求めることはできますが、その場合には、説明変数以外のパラメータは全て、ホワイトノイズと見なせると仮定していることになります。この部分は、演繹にすぎませんので、帰納法が、演繹法より、確かであるという保証はありません。通常は、無視したパラメータについて帰納的にチェックできるだけのデータの量が揃っていることはありません。仮説が帰納的に決められる部分もありますが、それは例外で、オッカムの剃刀で、単純化して作ることが一般的です。
経験科学は統計的検証によって、正しいとは確認されていませんが、そのルールを守ることで、社会的なコンフリクトを避けることができます。逆にいえば、自然科学とは対立する権威主義になりがちです。
信号機を守って、自動車を運転すれば、交通事故は避けられますが、交差車線に、自動車がなくとも、一旦停止することは、非効率で、ガソリンの無駄遣いになります。技術的には、直交車線の交通を見ながら、信号のタイミングや時間を変化させることで、エネルギーロスと渋滞を最少化する信号機制御が可能ですが、実装されている例は少ないです。さらに、現在、実装されている信号機制御は、信号待ちの自動車の長さで、信号機の時間を制御するローテクです。各々の自動車からの運転制御信号を受信して、信号機の制御をすることで、渋滞の緩和は可能で、これは、用地取得が難しい都市部では、パイパス建設より、コストと時間が節約できると思われますが、今のところ実装されていません。この方法では個人情報が筒抜けになりますが、公共の福祉とのバランスになります。この方法は、中国のような社会主義社会で、先行する可能性があります。
この例示は、象徴的です。
経験科学は、非効率で改善の余地が多くありますが、当面のコンフリクトを避ける効果があります。
戦争のようなコンフリクト、信号機を守らないことによる交通事故は、経済的に大きなダメージを生じますので、コンフリクト回避には、経済的なメリットがあります。
データサイエンスは、同じ課題に対して、経験科学より、より効率的で、効果の高い解決方法を提示します。
その結果、経験科学とデータサイエンスが対峙し、経験科学は、データサイエンスに次第に押されて、生息域が次第に狭くなっていくというのが、本書の世界観です。
これは、多くの先進国で採用されている世界観です。
もちろん、2022年の日本社会は、そのようにはなっていません。
経験科学が、データサイエンスを抑え込んでいます。
世界は、経験科学を捨てて、データサイエンスに乗り換えています。
そのことによって、労働生産性をあげて、経済的な成長をとげています。
筆者には、日本だけが取り残されているように見えます。