知の共有システムのパラダイムシフト~2030年のヒストリアンとビジョナリスト

(デジタルシフトによって、専門分化と学会システムは賞味期限を過ぎています)

 

現在では、学会は文部科学省の助成の対象となるルール、税制上の取り扱いのルールなどをして構成されています。

 

1)学問のパラダイムの世代交代

 

30年前、専門知識は、大学の図書館か、専門講座の教室に行かなければ、手に入りませんでした。大学の教授は大変なヒストリアンとして権威がありました。

 

ここでは、土木工学の水理学と水文学を例にあげて説明します。

 

戦前は、1933年に物部長穂博士は、587ページの「水理学」を発表し、国内では、この本がスタンダードになっていました。この時代は、海外の文献は非常に高価で、取り寄せることも大変だったので、物部博士は海外の文献のエッセンスを1冊の本にまとめたのです。

ウィキペディアによると、水理学を出版する際に、出版社が定価20円で出版する予定だったのを、「若い学生や研究者には高すぎる」と出版社と再三交渉し、5円50銭に下げさせたそうです。

 

水理学は、流体力学の一分野ですが、流体力学は、偏微分方程式で基礎式が書かれたものの、式を解くことが困難であったため、限定的な条件下での解法を求める研究が進められます。水理学は、主に、土木分野での解法を求めた研究です。なお、2022年時点では、計算時間がかかりますが、偏微分方程式はコンピュータで数値的に解くことができます。今後は、限定的な条件下での解法を使う必要はなくなってきています。

 

1932年に、米国で、Bakhmeteffが、「開水路の水理学(Hydraulics of open channels)」を出版します。開水路の比エネルギーの概念は、この本で初めて、本格的に取り扱われています。比エネルギーとは、運動エネルギーと位置エネルギーを合わせた全エネルギーを開水路向けに編集した概念です。

 

1933年の物部「水理学」では、比エネルギーの概念は、あまり、触れられていなかったと思われます。物部長穂博士はその後、「開水路の水理学を入手して、改訂していったと想像しています。水理学」の最終版は、「物部水理学」というタイトルで、1962年に、岩波書店から出版されていますが、この版は、本間仁, 安芸皎一 編で、物部博士の弟子が、内容を最新情報にグレードアップしています。

 

1945年、太平洋戦争に敗けて、土木工学の世界では、米国の技術導入が進みます。

 

開水路の水理学は、1959年にVen Te Chowが、開水路の水理学(Open-channel hydraulics)を出版し、体系化を完成させます。

 

水理学は、人工水路や河川の水の流れを解析します。これらは、いつでも水が流れています。これに対して、地域(水を中心に考える時には、流域といいます)全体の水の移動を考える学問が水文学です。

 

1949年の戦後間もないころに、それまでの米国の水資源開発で使われた水文学の手法が、Linsley、 R.K.、 Kohler, M.A. 、 Paulhus、J.Lによって、「 応用水文学(Applied Hydrology)」として、出版されます。現在の日本の洪水対策の体系は、基本的には、この本に従っています。

 

20世紀が終わる1999年に、James C . I. Doogeが、20世紀における科学的水文学の出現(The Emergence of Scientific Hydrology in the Twentieth Century)という小論をAdvance in Water Scienceに載せています。

 

Doogeは、水文学の発展を以下の時代に分けています。

 

(A)経験論の時代 Period of Empiricism(1900年から1930年) 

(B)合理化の時代 Period of Rationalization(1930年-1950年) 

(C)理論化の期間 Period of Theorisation(1950-1975) 

(D)コンピュータ化の時代 Period of Computerisation(1975-2000)

 

「応用水文学」は、(B)の合理化の時代の成果です。

科学的な方法論は、(B)と(C)に使われていますが、(B)の時代には、数学的な扱いが不十分で、図式解法が使われていました。

 

「応用水文学」は、1949年に出版されましたので、(C)の理論化の期間(1950-1975)に大学では、標準的な教科書として用いられました。最近のAIの世界では、最新の研究成果を踏まえて教科書は、2,3毎に改訂されるのが普通です。一昔前は、牧歌的な時代だったのです。 

 

2009年にマクロソフトリサーチのTony Hey 、Kristin Michele Tolle、Stewart Tansleyは、「The Fourth Paradigm」というアンソロジーを編集しました。

 

ここで、パラダイムとは、順番に、(1)経験的証拠、(2)科学理論、(3)計算科学、(4)データサイエンスになっています。

 

Doogeの区分と対比することができます。

 

(A)経験論の時代 (1900年から1930年) (1)経験的証拠

(B)合理化の時代 (1930年-1950年) (2)科学理論

(C)理論化の期間 (1950-1975) (2)科学理論

(D)コンピュータ化の時代 (1975-2000) (3)計算科学

(E) 新区分(2000-) (4)データサイエンス

 

こうしてみると、水文学も、データサイエンスやコンピュータサイエンスの影響を受けているように思われます。

 

2)デジタルシフトの影響

 

水文学に、計算科学が持ち込まれても、水文学の学問分野が大きく変わるわけではありません。降雨、河川の流量、蒸発などの物理量、水質などの化学量が実在としてあるからです。

 

これが、デジタルシフトして、データサイエンスになると話が違ってきます。データサイエンスには、物理的な次元がないからです。パターンマッチングや、ニューラルネットワークモデルを作成するには、水理学や水文学の物理学の知識は必須ではありません。ただし、コンピュータサイエンス統計学の知識は必須です。

 

Doogeの小論は、世紀の変わり目に出されており、2000年以降のことは書かれていませんが、水文学が、方法論にデータサイエンスを取り入れれば、こうしたアイデンティティの喪失に遭遇しているはずです。

 

ここでは、水文学を例に取り上げましたが、この問題は、多くの学問分野に共通した現象です。学問分野によって、データサイエンスに対するスタンスは大きく異なります。

 

海外の場合、英国の英国生態学会British Ecological Society)は、2010年から、Methods in Ecology and Evolution (MEE)を発行して、計算機科学やデータサイエンスの方法論を積極的に取り入れています。生態学は、膨大な生物の生態記録を扱うため、データサイエンスと大きくオーバーラップしてきています。データベースのデータを扱い、解析コードをかくことが当たり前になりつつあります。

 

英国生態学会は、Methods in Ecology and Evolutionを含めて、次の8つのジャーナルを持っています。Journal of Ecologyは当然ですが、それ以外のジャーナルの名称をみると、データサイエンスシフトが明確です。

 

People and Nature

Ecological Solutions and Evidence

Functional Ecology

Journal of Animal Ecology

Journal of Applied Ecology

Journal of Ecology

Methods in Ecology and Evolution

Ecology and Evolution

 

日本では、学術会議の委員の選出で、もめていますが、世界の学問分野では、パラダイムシフトが進行しています。

 

3)カリキュラムの課題

 

専門分化と学会システムは、学校のカリキュラムに影を落とします。

 

カリキュラムには、「チェックリストと新しい資本主義」でも言及した履修主義と七五三問題が関わっています。

 

Linsleyの「応用水文学」は1949年に出版されました。これは、(2)(数学を使わない)科学理論による(B)合理化の時代 (1930年-1950年)の成果をまとめたものです。

 

その後、(2)(数学を使った)科学理論による(C)理論化の期間 (1950-1975)の成果、(3)計算科学を使った(D)コンピュータ化の時代 (1975-2000)の成果、2000年以降のデータサイエンス時代の成果があります。

 

しかし、現在でも多くの大学のカリキュラムにある水文学は、Linsleyの「応用水文学」とほとんど変わっていません。70年間ほぼ進歩がありません。しいて言えば2割位は入れかわっていますが、その程度です。

 

数学やコンピュータ言語を使えば、数行で済む内容を数ページをかけて、数学やコンピュータ言語を使わずに説明しています。

 

ここでは、水文学歴史の概観や、英国生態学会の状況を述べていますが、これらは、インターネットで、直ぐに調べられます。20年前であれば、1週間かかっても不可能な内容です。

 

まとめると、学会や教科書といった、知識を集約して共有するシステムが、変化したのだと思われます。このテーマは大きいので、ここでは、議論の入り口にと止めておきます。



引用文献

 

物部 長穂(1933)水理学587pp

Bakhmeteff (1932)Hydraulics of open channels

 

Ven Te Chow:Open-channel hydraulics、 McGraw-Hill, 1959.

 

Linsley, R.K., Kohler, M.A. and Paulhus, J.L., 1949. Applied Hydrology, McGraw-Hill: New York. 17 editions published between 1949 and 1985 in English and Russian 

 

井口昌平:「水文学」の定義と命名の経緯について 1965 生産研究17-4

 

James C . I. Dooge(1999):The Emergence of Scientific Hydrology in the Twentieth Century advance in water science 10-3

 

物部 長穂 ウィキペディア

 

物部 長穂 (もののべながほ)秋田高等学校同窓会

http://akitahs-doso.jp/libra/41

 

Linsley, R K 

http://www.history-of-hydrology.net/mediawiki/index.php?title=Linsley,_R_K

 

A Guide to Data Management in Ecology and Evolution

 

https://www.britishecologicalsociety.org/wp-content/uploads/Publ_Data-Management-Booklet.pdf

 

A Guide to Reproducible Code in Ecology and Evolution

 

https://www.britishecologicalsociety.org/wp-content/uploads/2017/12/guide-to-reproducible-code.pdf