フレームワークの議論~2030年のヒストリアンとビジョナリスト

(フレームワークが異なると議論ができない。しかし、科学的に正しいフレームワークは選べる)

 

フレームワークの議論は、何を議論すべきかという議論です。メタ議論と言い換えることもできます。

 

人間の思考形態の理解が進んで、人間は、なんにでも簡単な理由付けをしないと気が済まないらしいことがわかっています。陰謀論もその1種です。

 

データサイエンスのリテラシーで考えれば、原因のわかることは例外です。ところが、「原因はわかりません」という本は売れません。その結果、原因を創作した本がベストセラーになります。

 

筆者は、原因を考えること、仮説を立てることの重要性は理解しているつもりです。ビジョンを立てる場合には、このプロセスは、必須です。しかし、仮説を立てることと、仮説が検証されたことは別です。

 

ヒストリアンとビジョナリストの違いは、検討のフレームワークの違いです。

ある意味では、土俵が違いますので、議論はかみ合いません。

 

しかし、データサイエンスのフレームワークに、適合しているのは、ビジョナリストフレームワークです。

 

ヒストリアンのフレームワークは、統計学では、支持されません。非科学的です。エビデンスがありません。ヒストリアンのフレームワークで、提案された問題解決には、効果が期待できません。

 

ただし、注意しておかなければならない点があります。

 

統計学フレームワークは、直感とは一致しません。つまり、ビジョナリストフレームワークを使いこなすには、データサイエンスのトレーニングが必要です。

 

本章では、理論を扱いますが、理論は、あるフレームワークのもとで、矛盾しない論理体系です。

 

フレームワークは、ビジョンであって、直接の検証の対象とはなりません。

 

物理学などの前世紀の自然科学の世界観からすると、これは、随分と異端ですが、統計学とは、ビジョンを前提に、フレームワークを作って、その中で論理を展開をします。

 

例えば、統計学では、「観測値は、真の値に、ノイズがのったもの」と考えます。

 

ここで、真の値は計測できません。

 

「観測値は、真の値に、ノイズがのったもの」は、ビジョンであって、このこと自体は検証の対象ではありません。

 

新聞の広告をみると、「科学は仮説であって、絶対に正しいわけではない」といった趣旨の本を書いている人もいます。

 

物理学の世界であれば、研究を進めれば、いつかは、究極の真理に近づくと考えられるかもしれません。

 

しかし、データサイエンスの世界では、「究極の真理」は、だれも問題にしません。データには、ノイズがのっています。真理を表すモデルが、物理法則のように時間とともに変化しない定常であるという前提が成り立つかは不明です。結局、データサイエンスでは、データと折り合いをつけて、利用できるベストな、情報を抽出することが目的になります。

 

統計学は、パスカルがギャンブルについて考察したのが始まりといわれています。

 

サイコロを振って、次に、何の目が出るかは、誰にもわかりません。しかし、その中で、ベストな情報を得るにはどうすべきかという視点が統計学です。

 

お気づきのように、これはビジョナリストの視点です。将来に起こることは誰にもわかりません。だからといって、事象が起こってから対応するのでは、手遅れな場合があります。サイコロの目が出てからでは、ギャンブルに、参加はできません。

 

ヒストリアンは、過去の事例の中から解答を探します。これは、サイコロを例にとれば、極端に偏心したサイコロ以外では、成功が期待できない戦略です。実際に、ヒストリアンの解決法には効果がありません。

 

効果があれば、まだ、「変わらない日本」でいるはずはありません。まだ、少子化問題が解決していないはずはありません。まだ、日本の高等教育のレベルが、大学ランキングで見るように、長期低落傾向から抜け出せないはずがありません。

 

ヒストリアンの対策の効果は、ほぼ全滅ですが、エビデンスを計測しないため、そのことがわからなくなっています。

 

エビデンスがないので、ヒストリーに根拠のある政策であれば、間違った政策でも、責任を問われることはありません。

 

その結果、効果のない部分改善案が繰り返されます。これは、一種の対処療法であり、症状が悪化して、治療がますます困難になります。

 

ギャンブルで、間違ったところに、掛け金を投入すれば、参加者は、次第に資金を失って、貧しくなります。これは、過去30年の間に、日本経済で行われきた対策です。

 

次節では、フレームワークとして、エコシステムを取り上げます。