魚道と次元の呪い(価値の自然科学)

価値の自然科学

  • 魚道の例

自然科学では、一般には価値の問題を扱わないと思われています。例えば、「社会科学である経済学は、便益という価値を扱うが、自然科学は価値を扱っていない。」といったコンテキストでこの問題は用いられます。

しかし、自然科学が価値を扱わないというは妄信と思います。以下に、魚道の例で説明します。

なお、ダムの生態系と流水の生態系は別の種類なので、魚道の生態系を回復する効果は非常に限定的ですが、今回は、その点は無視しています。

図1に魚道の実験装置を示します。魚道は、魚の遡上のためにダムにつける施設です。ダムに相当する上のタンク、ダムの下流に相当する下のタンク、更に、これをつなぐ魚道を設けます。このままですと、水がすぐになくなるので、ポンプと付けて下のタンクから上のタンクに水を循環します。

ここで、どのタイプの魚道が良いか検討するために、魚道のタイプをNo.1、No.2、...と複数作ります。

魚の種類を1、2、..と複数準備します。例えば、魚道のタイプが5個、魚の種類が3種であれば、3x5で15パターンの実験になります。しかし、この実験には有効性がありません。理由は次の2点です。

  • 魚道のタイプは形状が異なれば別になるので、5個のタイプよりもっと良いタイプがある可能性が大です。これらを全て検討すると数百パターン以上になり現実的ではありません。統計学とは意味が違いますが、次元の呪いがあります。

  • 現実的な問題として、魚は1回実験をすると消耗します。つまり、1回目の実験と2回目の実験では、後者の方が消耗が激しいので、魚道のタイプよりも実験の順序が影響します。これを避けるには、実験計画で、順番を入れ替えて実験するしかないのですが、この場合にも組み合わせが増える次元の呪いが生じます。

結局、どのタイプの魚道が良いかを実験で決定することは、現実的には不可能です。魚道の種類が2種で、魚の種類が1種の場合には、実験順序を入れ替えて都合4回の実験で結果が出せます。せいぜいできるのは、2種類の魚道でどちらが少しはましかというレベルの実験です。

自然科学では、物理学が実験で大きな成功をおさめたので、物理学の実験的手法を他の分野にも流用することが多いのですが、現実には、生物が対象の場合には、このアプローチはほぼ無効です。これが、実験計画法や疫学が発達した理由でもあります。

生態学の場合には、何が、より望ましい生態系であるのかという価値の問題を回避することは困難です。劣化した生態系を復元するためには、復元の方向の明確化が必須になります。しかし、魚道の例のように、実験で、白黒が付けられる可能性はほぼゼロです。そうすると、実験によらない価値の判断基準を導入する必要があります。どんな生態系が良いのかという価値基準です。

水棲生態系の復元目標の設定によく用いられる方法は、Vannoteの河川連続体仮説です。この仮説の問題点は次の2点です。

  1. 仮説が大きすぎて、検証は困難である。

  2. 自然には人間の手が入っていないことが前提で、北米のように、大規模開発から200年くらいしかたっていない場合には、手付かずの自然の痕跡が残っています。また、実際的に手付かずの自然に復元の可能性もあります。しかし、アジアモンスーンの水田地帯のように開発から1000年以上が経過している場合には、そのまま適用できるとは思われません。

  • 進化生物学的アプローチ

もう一つの方法は進化生物学的なアプローチです。これは、生物は進化の過程で、環境に適応してきたはずであると考えることです。渓流を見ていると、段差のある流れは多く見られますが、魚は遡上しています。そこで、魚は、自然の河川の流況に適応するように進化してきたと考えます。つまり、ここでの魚の姿は、流速が部分的に大きかったり、小さな段差がある河川に適応して進化してきた生物と考えます。魚道の設計では、魚はひ弱で、落差があると遡上できない生物と考えられていると思われますが、こうした魚の見方は正しくないということになります。そうすると、魚にとって良い環境とは、多少は落差がある、流れの急なところがある、河川の自然の流況に近い環境ということになります。そうしますと、実験で問題を解決することは、問題の取り違えであって、自然の河川を調査して、人工的に作った河川でも同じような流れの特性を再現すればよいことになります。こうした自然工法(BioEngineering)は北米では、河川環境整備の中心的な考え方になっています。

  • 科学か哲学か

物理学のような実験的な手法、あるいは、全体をパーツに分解して再構成するアプローチは、次元の呪いの問題があると、上手くいきません。この場合には、方法論の検討を中心とした、どちらかといえば哲学的なアプローチが必要になります。データサイエンスは、統計学の方法論の再構築で得られた答えの上に成立していますが、社会科学や自然科学でも生物が介在する場合には同様な方法論上の再構築が必要です。これが現時点で、どの程度達成できているかは、筆者は、今のところマダラ模様であると感じています。そして、この過程で、価値の問題が解かれることもあると思われます。

 

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図1 魚道の仕組み