視聴率とエビデンスに基づく政策~コロナウィルスのデータサイエンス(100)

視聴率と理解の複雑さ

コロナウィルスが広まってから、ニュースやコロナウィルス関連番組の視聴率があがったことが知られています。

中には、某大学の先生がテレビに出演すると視聴率があがるというので、引っ張りだこになっている先生もいるようです。

本を出版する時に、よく言われることに、本に数式を入れると、売り上げが目に見えて落ちるという経験則があります。筆者が本を購入するか否かの判断をする場合には、「図」「数式」「プログラムコード」を見ますので、この判断基準は、平均からはかなりずれていることになります。筆者の判断基準は、ジュディア・パールの複雑な事象を検討するには、文章は非効率で、図形を使うべきであるという主張に準拠しているのですが、問題をできるだけ、あるがままに複雑に考えるよりも、わかりやすいように単純化して考える方が多くの場合には好まれます。更に、書きものよりも、映像の方が単純化が求められます。例えば、小説を映画化する場合には、2時間程度のシーンに収めるには、原作のごく一部しか、収録できません。最もよくある単純化は勧善懲悪です。

複雑から単純に、許容できる複雑さにはつぎのようなヒエラルキーがあります。

図形(数式、プログラムコード)>文章>映像・音声

ここで、左の方が複雑で、右の方が単純です。

映像、音声でもその中に複雑度の違いがあります。

一番複雑な音楽は、微分音なども使い、五線譜では、書ききれない現代音楽などです。

著名な演奏団体にアルディッティ弦楽四重奏団があり、彼らは、通常は五線譜に書かれた単純な音楽は演奏しません。ナンカロウは、複雑な弦楽四重奏をつくり、複雑すぎて、誰も演奏できないだろうとあきらめていたところ、アルディッティ弦楽四重奏団が完璧に演奏するのを聞いて感激して、更に、複雑な曲の作曲にチャレンジします。

この対局にあるのが小さな世界(It’s a small world)です。

さて、まとめます。人が理解できる現象には、複雑さのレベルで、大きいものから小さいものまでレンジがあります。複雑さのレベルの高いものを理解するには、それなりのトレーニングが必要です。つまり、より複雑さのレベルの高いものを受け入れるか、それとも理解しやすい複雑さのレベルのさほど高いものしか受け入れないことにするかは、情報の受け手が決めます。このことかた次の性質が導き出されます。

  • 媒体の種類と情報伝達にかける時間によって、伝達可能な最大の複雑さのレベルに上限があります。

  • 送り手が伝達可能な情報のレベルは、受け手が許容した複雑さのレベル以下の必要があります。つまり、情報の受け手は、自分が設定した複雑さのレベル以下の情報しか受け付けないのです。

  • より複雑な情報を理解するには、より大きな(手間のかかる)トレーニングが必要になるため、単純な情報ほど受け入れられる人の数が多く、複雑な情報ほど。受け入れられる人の数が減ります。

  • 以上から、伝達経路が1つしかない場合には、もっとも単純な複雑さのレベルが選択されます。視聴率をあげるためには、物事の大部分を単純化な過程で単純な情報に集約して伝えます。

ここで、いくつか補足をしておきます。

「物事の大部分を単純な情報に集約」することは、物事を理解することで、それ自体は、現象理解のプロセスロしては間違っていません。問題は「単純な過程」にあります。これは、「主成分分析と人文科学」の検討で論じていますが、統計的な処理過程は複雑で理解できません。つまり、情報の複雑さは、元の情報量の多さと処理方法の2つのレベルがあります。この点は、考察を深める必要があります。

純化の具体例は、コロナウィルスの感染者数を伝えて増えた減ったという情報伝達はしますが、移動平均はより複雑なので、伝えません。この2つは1つの数値ですから、値の複雑さは同じですが、処理の複雑さが違います。

ここで、視聴率重視では、単純化が中心になります。だからと言って、昔の文化人のようにテレビは一億総白痴化の装置であるということもばかげています。情報の受け手は、複雑さのレベルが高い人から低い人までを含む確率変数だという前提で、議論を進める必要があります。

純化が行われた後で、認知的不協和の理論が適用されますと、「人は見たいものしか見えない」ことになります。認知的不協和の理論だけでは、「人は見たいものしか見えない」ことにはならないと思います。視聴率を重視することは、確率変数を認めないことなので、間違いだと思いますが、実際には、広く行われています。

NHKの番組で、ブロッガーが紹介されている場合には、ビューの数が多いことが引用されますが、このことは、単純化が行われていることに他なりません。インターネットでは、複数のチャンネルが確保できるので、確率変数に対応したコンテンツや情報伝達が可能です。しかし、こうした視点はまったくありません。

非常事態再宣言とエビデンスに基づく政策

このブログでも繰り返し述べていますように、現状は、データと処理手順を公開せずに、「民は由らしむべし,知らしむべからず」という政策が行われています。しかし、これは、データサイエンスで言えば、民主主義を成立させる基盤を欠いていることになります。

特に、非常事態再宣言を出すか、否かについても、このままいくと、再び、後だしじゃんけんになりそうです。つまり、再宣言を出すか、出さないかを先に決めて、それに合うように、基準を直前に作り替える方法です。非常事態宣言は政治決定であるから、この方法でよいという人もいますが、筆者は、民主主義の基準に当てはめて間違っていると思います。

非常事態再宣言の前に、行わなければならない作業があります。それは、1回目の非常事態宣言で、何が有効で、何が効果がなかったかを分析することです。これを行わないと、効果のない政策に無駄に税金をつぎ込むことになります。データサイエンスから見れば、政府や自治体も、エビデンスに基づいて、軌道修正をしながら政策を遂行することで、税金の利用効率をあげる責任があります。実際には、これが全く行われておらず、人治政治になっています。

地方再生のために地方の国立大学の定員を増やすとい記事が新聞にのっていました。インターネト教育を拡充するそうです。その前には、ふるさと納税で、最高裁の裁判がありました。過去に地方再生のために行った政策は、ほぼ100%効果が出ていません。それで、再生したといわれる地方はほとんど思い当たらないことを考えれば、エビデンスは、効果がなかったことを示しいます。一方では、「地方再生」というキーワードをつけると、反対しにくいので、予算をばらまくための「殺し文句」として、「地方再生」が使われます。しかし、予算獲得に「地方再生」をキーワードとして使ったとしても、地方再生ができるわけではありません。まして、インターネット教育は、世界中どこでもできるので、「地方の国立大学のインターネト教育を拡充」という政策自体が、理解不能で、「地方再生」になるとは思われません。教室で、多人数で、一斉にコンピュータで同じ作用をすると瞬間的に、トラフィックが急増します。これに対応することは大変コストがかかります。いっぽうで、自宅学習で三々五々アクセスする場合には、トラフィックは分散して、問題は生じません。ですので、インターネット教育を大教室で、行ってはいけません。生徒は、動画を見て、マイペースで勉強すべきです。しかし、文部科学省の大学の許認可基準が、こうした実情にまったく対応していません。エビデンスに基づく政策になっていないことが、予算のばらまきにぶらさがる利権構造を温存していますが、その結果、世界のIT化に取り残されています。

コロナウィルスのサイエンス・コミュニケーションは可能か

おそらく、コロナウィルス対策の最大の問題は、「多くの受け手に理解できるように、情報の単純化と処理の単純化が行われていること」が、正しい現状認識であるとしても、現状のままでは、コロナウィルス対策を理解して納得してもらえない点にあります。このままでは、「民は由らしむべし,知らしむべからず」がまた、繰り返されます。

筆者には、この問題の解決を提案するだけの力はありません。

即効薬はないのですが、少なくとも、データの公開と共に、情報の受け手の科学的な理解を広げるしか方法はないと思われます。

筆者は、「人は見たいものしか見えない」という法則を破るのは、かなり、大変だと思っています。

スマホのゲーム中毒になる人が出るように、人間の脳は、繰り返しによるヒューリステックに順応しやすいです。カーネマンの言い方をすれば、「ファースト」の回路を使う方が、心地よいのです。これを切り替えて、「スロー」の回路を使うことは容易ではありません。なので、筆者は、回路の切り替えに必要な条件は、本人に主体的な姿勢であって、教育や啓蒙ではできないと考えています。これは1種の悲観論です(注1)。

楽観論にたつ学問に、サイエンス・コミュニケーション(科学コミュニケーション)があります。筆者もこの学問は民主主義の根幹にかかわる重要な分野であることは認めますが、疑問があるのは、その方法論と実現性可能性です。しかし、実際に、活躍されている人がいるので、ここでは、応援したいと思います。

ところで、新しい「政府のコロナ対策分科会」がスタートしました。また、政府とはなれた活動に、「コロナ専門家有志の会」もあります。しかし、どちらにも、サイエンス・コミュニケーションの専門家は入っていないように思われます。

ということで、今回の結論は、サイエンス・コミュニケーションの専門家に期待しますということです。

 

 

 

注1:某大学の先生に、大学はどうですかと尋ねたときに、次のような返答をいただきました。「できる生徒は、自分で勉強して、どんどん理解が進むので、放任しておいてよく、教える必要はない。一方、できない生徒は、一生懸命教えても、まったく理解が進まない。大学の教師は、いてもいなくてもよいような職業だと思う。」カーネマンの「ファースト・アンド・スロー」はこうした現実を説明できると思われます。

 

引用

コロナ専門家有志の会

https://note.stopcovid19.jp/

政府のコロナ対策分科会メンバー一覧 経済学者や知事、マスコミも

SankeiBiz 2020.7.3 23:41

https://www.sankeibiz.jp/macro/news/200703/mca2007032341021-n1.htm

アルディッティ弦楽四重奏団 wiki

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E5%9B%A3

  • 科学コミュニケーション案内 JST

https://www.jst.go.jp/sis/archive/items/brochure_01.pdf

  • 今後の科学コミュニケーションのあり方について 文部科学省 科学技術社会連携委員会 H31.2.8

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/092/houkoku/__icsFiles/afieldfile/2019/03/14/1413643_1.pdf

  • 大塚善樹 科学コミュニケーションとはー何か概念の課題と見直し、東京都市大学横浜キャンパス情報メディアジャーナル 2018. 4 第 19 号

https://www.comm.tcu.ac.jp/cisj/19/assets/19_00.pdf

  • 林衛・加藤和人・佐倉 統:なぜいま「科学コミュニケーション」なのか? 遺伝 2005 年1月号(59巻1号)

https://core.ac.uk/download/pdf/70318371.pdf