「テクノリバタリアン」を読む(3)功利主義批判

 

データサイエンスの問題の多くは、評価関数の値を最大化(あるいは最少化)する解を求めることです。

 

このため、データサイエンスには、功利主義批判は存在しません。

 

功利主義批判をするためには、評価関数の値を最大化する以外の解析の目的を設定する必要があります。

 

しかし、今のところこれに代わる有望な候補はありません。

 

功利主義批判の典型はトロッコ問題(p.147)です。

 

ロッコ問題は、線路の分岐点で、右にいくか、左にいくかという選択問題です。

 

片方には、5人、もう片方には、1人の人がいて、暴走するトロッコによって、人は死亡します。この場合、どちらを選択するかという問題です。

 

一般には、線路の直線方向に5人が、切り替え方向に1人がいて、何もしなければ、5人が死亡し、ポイントの切り替えをすれば、1人が死ぬ設定になっています。

 

読者は、このポイントの切り替えスイッチを操作できる設定です。

 

ここでは、読者がポイントを切り替えることで、1人を殺す決断をしたと印象づけるストーリーになっています。

 

しかし、データサイエンスでは、数式に変換した事象を扱います。

 

数式では、1人と5人の違いだけです。

 

データサイエンスでは、進化に伴って習得された直観には、バイアスがあるので、直観を信用しません。この不合理な直観の放棄ができないと、統計学を習得できません。

 

実現可能な解決は、1人か5人のどちらかの選択です。

 

中間の解として、確率的な選択も可能です。

 

サイコロを振って、奇数がでたら右を、偶数がでたら左を選択する方法です。

 

右にいる人の数がm人であり、左にいる人の数がn人であり、m>nの確率が、与えられるような条件では、確率を考慮した中間の解を使うことが合理的になります。

 

典型的なトロッコ問題では、mとnは、5と1の確定値なので、犠牲者の少ない方が、最適解になります。

 

これは、評価関数が、犠牲者を最少化するように設定されている場合です。

 

問題がトロッコではなく、ミサイルであれば、犠牲者を最大化するルートの選択が、最適解になります。



数学的には、犠牲者数を最少化するという評価関数に問題があれば、改善の余地があります。

 

生命保険のように、期待余命を評価関数にとることも可能です。

 

この場合には、右と左のルートにいる人の合計期待余命を考えればよくなります。

 

功利主義批判をすることはイデオロギーではあり得ますが、数学的に不可能な問題を考えることはナンセンスです。

 

功利主義批判をして、問題をペンディングしても、問題解決にはなりません。

 

期待余命を使うことは非人道的であると、功利主義批判をすることは可能です。

 

税の負担については、高齢者と若年層(及び期待される出生数)の間に、トロッコ問題があります。

 

高齢者の医療を増加させ続け、若年層への税負担を増やし続ければ、出生数が下がります。

 

QOLがありますので、健康な状態の老後の生活を否定すべきではないと思います。

 

しかし、現在では、植物人間状態になったり、完全にぼけてしまっても、安楽死を選択することは出来ません。

 

仮に、そのために、老後の資金を準備するのであれば、膨大なお金が必要になります。

 

政府が肩代わりすれば、膨大な税金の投入が必要になります。

 

データサイエンスでは、どの評価関数が良いかを決めることはできません。

 

これは、トロッコ問題ですから、議論が必要です。

 

しかし、数学的に不可能な解をあたかも可能であるように信じて、問題を放置することは、問題逃避に過ぎません。

 

データサイエンスから見える世界は、日本には、数学的に不可能な解をあたかも可能であるように信じている論理・数学知能の低い人が多いという事実です。

 

ここには、イデオロギーが入る余地はありません。

 

2004年に「100年安心年金」が導入されて、20年が経ちました。

 

データサイエンスを使えば、年金の計算は、毎月(あるいは毎日)ベイズ更新がなされる統計モデルになっているはずです、

 

現行のように、5年に1回、エクセルで、確率分布を無視した計算しかできないのであれば、数学知能が低すぎて問題外です。

 

イーロン・マスク氏がボスであれば、担当者は、クビになっているはずです。